STORIA 94

「ええ。僕もそのつもりで、ずっと筆を取って来ました。だから以前は眼に映る物の姿をありのまま素直に色として表現するのではなくて、心が映した風景を形にしていたんです。想い出したくもない感情だけを、絞り取る様に引き摺り出してまで哀しみを用紙に吐き出していました。想いを叩き付けた分だけ魂が傷を跡形もなく背負わなくて済む様に、自分の心を隙間なく、全て夜に移し変える事が出来たらどんなにいいだろうって。だけど一時的に苦い想いが解放される実感を味わう事はあっても、やっぱり駄目な物は駄目なんです。植え付けられた傷という物は、消える事もなく延々と躰に残っている物です。不思議ですよね。人を傷付けた側の人間は自分が何を言ったのかも忘れてしまえる位、意外と平然としている物なのに、受けた側はいつまでも確かな記憶に移し替えて覚えている物なんですよ。それに僕が描いた絵画は単なる素人の物です。誰かの眼に触れる事もなければ、この傷む想いを第三者が作品から掬い取ってくれる訳でもないんです。描いた物をパネルから外してケースに収めてしまえば折角、絵に曝け出した心も再び息を潜めて僕の元へと戻って来る。結局、独り芝居でも演じている様な物ですよね、これって。もっと、意味のある物を色と共に形に出来たら良かった」




「佐倉君の絵を確りと見ている人は必ず居るよ。君が外で描き続けている限りはね。少なくとも、俺はその一人だから。幾ら作風が哀しみに満ちた色で染まっているからと言って、それだけで君の絵画の価値が落ちたりする訳ないじゃないか。良い物は良いんだよ。俺の様に足を留め、君の絵画に見入っている人は他にも居る筈だ。君が気付いていないだけで」




絲岐さんの言葉が、次第に僕の心に涙を誘う。

きっと彼の口元から零れる想いは、今まで出逢った人達からは貰う事も出来なかった物だろう。

僕は溢れて来る感情を、喉の縁で食い止める様に息を呑んだ。

慣れない他の優しさに戸惑いを見せながらも、心の揺れを明らかに感じていたんだ。

「佐倉君は蘭と同じ年なんだよな。じゃ、十九か。今は就職の傍ら絵を描いているんだろ? 忙しい中に自分で時間を有効に使いながら過ごしているなんて、えらいじゃないか」

「仕事はもう辞めてしまいました。過去に職を幾つも掛け持ちしてた事もありますけど、卒業後一つの退社をきっかけに残りのバイト先も全て辞めてしまったんです」

「職場でも辛い事があったのか?」

「自分の意思の弱さと、余りに耐える事の力なさに、僕は自分自身が嫌になる程でした。誰もが必ず通る苦しい人間関係の複雑な網を渡り切る前に、僕は楽な脇道へと身を隠していたんです。そして今も……。だから、当然絵を描く時間は自ずと増えてきます。僕は辛い現実から逃げる為に、絵画という趣味を手にしている様な物でした。職場でも家庭でも認められず、足を帰す場所もなく、空を彷徨う様な生活を繰り返していたんです。家庭では母親の冷たい感情に振り回されて、職場へ足を運べば即戦力がない人間は使い物にならないと、塵でも扱う様な目を向けられて来ました。







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