STORIA 85
優しい色、何の蟠りもなく心底から受け入れている訳ではなかったけれど。
ただ頑に哀しみに捕われ過ぎていた、あの頃の自身と今の僕とではその想いの向きが似つかない気もしていた。
素直な心持ちで居たいと願う自分に偽りはないけれど、何処かに居心地の悪さを感じる事も正直、嘘ではなかった。
一度、進もうとした想いが再び後退する事に気後れを感じているのか……。
それとも、ただ疲れてしまっただけなのか。
だけど行き着く場所が至福でも闇でも、その通過地点にある自分の状況がそう簡単に変わる物ではないけれど。
励みや怠らない日常が幸福へと結び付くだなんて、そんな有り触れた言い伝えに限っては背を向けてみたくなる。
努力が徒になる事だってあるんだ。
僕の中ではこんな物、意味のない飾り言葉に等しい。
それこそ、人間の背を押し、奮闘させる為だけに用意された様な物なのだろう。
いつも、全てに対して片意地を張ってしまう。
後悔する間を与える隙もない位に。
蘭にはいつになく、素直な想いを抱いていられた自分が常に存在していたくせに。
ふと、睫に掛かる小さな砂埃を払い除けた指先に、目の覚める様な風を感じ受ける。
束の間に気体に頬を遊ばせ、僕は心が決まると調色板に視軸を落とした。
手元にざっと顔料を揃える。
視点を何処かに集中している訳でもなく、この眼が自然と捕えた色の数々だ。
風が導いてくれる空間は相変わらず心地がいい。
よく、"雪の降る音色が心に届く" なんていうのを耳にする事があるけれど、言えばそんな感じだろうか。
本当の大地はこんなにも静寂な物で。
空気の音すら柔く淡く……、そばにある気がする。
感覚も音も。
全て、リアルな世界の中では砂塵の鼓動さえも響いて来そうな位で。
普段より自身の意識が研ぎ澄まされている気がした。
視線の先の光景に「綺麗だな……」なんて言葉を零してみたくもなる。
僕はふと、我に返る。
自身の感情の音じゃない。
"綺麗だな" と今、確かに誰かがそう漏らしたんだ。
「佐倉君」
その姿態は、絵筆を持つ指先を絵画上で躍らせる。
蘭の兄だ。
「何ですか……?」
僕はイーゼルとパネルを手早に片付け、加速する足を緩めもせず、彼に言葉だけを突き返した。
この人はまた、蘭との事を咎めに来たのだろうか。
彼が僕の正面に回り込み、強引に話し掛けて来たので見事に足止めを喰らってしまった。
「佐倉君、この間は言い過ぎた。……ごめん。君と少し改めて話がしたいんだ。そんなに怖い顔をしないでくれ」
態々、僕の居場所を探し求めて来たのか。
だけど、あなたの話したい事なんて聞くまでもなく分かり切った物じゃないか。
穏やかに迎える日々の中に潜む、満たされない感情を再び掻き立てられるだけの言葉なら僕はもう要らない。
なのに僕よりずっと大人である彼の強い意思にこの小さな器は結局、歯が立たない。
「……分かりました」
僕は渋々、彼の誘いに応え車で移動する事になった。
一体僕を何処へ連れて行く気なのだろう。
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