STORIA 37

ぼんやりとそんな事を考えていた時、誰かが僕の左腕を掴んだ。

「赤だよ、信号」

振り返ると黒い正装着を纏う、陽に焼けた二本の細い腕が僕の体を支えていた。

その表情は照り付ける日光が眩しくて正面に見えない。

「危ないよ、ちゃんと見てないと」

「……すみません、ありがとうございます」

そう言ってゆっくりと彼の腕から離れた。

「はい。それ、大切な物なんでしょ」

想い掛けず手落とした用紙を彼が拾い上げ渡す。

優しい声をしている人だと想った……けれど、その音吐は限りなく淋しそうで冷たささえ感じられた。

「じゃ、気を付けて……」

背を向け立ち去ろうとする彼の姿から仄かな香水の馨りが届く。

樹木の香り? 清んだ草木の様に自然と体内に溶け込む。

この感じ、何処かで。

何故彼は僕の画用紙を手にあんな風に言ったのだろう。

僕が絵を描く事を大事にしている気持ちを見透かされているみたいだった。

だけど、あの悲しそうな声音に隠された意味は?




僕は誰より大切にしていた、描くという事だけは。

強い心で。

幼い頃から詰め込んで来た想いを何もない一枚の用紙に表し続けていたんだ。

だけど想い起こせば、ここ数週間は蘭からも画材からも離れ見知らぬ女性と暗く長い夜を過ごし、自分が誰かすら分からなくなる様な日々を送っていた。

何かを夢中で描く事から随分と掛け離れてしまって。

ずっと長い間温めて来た物が淋しさの中に欠け落ちた。

それまでの僕は確かに未だこの目で見て描きたいと想う心を失ってはいなかったのに。

その気持ちだけでも取り戻せれば何かが見えて来る気がしていたんだ。




人気の薄れた路地裏で日没を閑かに見送っていた。

僕は場を去ると再び歩を運んだ。

そして普段は行かない様な場所へと向かい始める。

すると不思議な事に、こんな所に好い場所を見付けたなんて意外な穴場に出逢ったりもする。

現に僕は今日、二箇所もそんな空間を見い出していた。

早速その場で描き始めていると時間なんてあっという間に過ぎてしまう。

久し振りに納得の行く物が僕の手元には仕上がっていた。

僕は嬉しくなって他にも絵の材料になればと、いつもは通らない道を選び歩いた。

住み慣れている街でも案外知らない所があるのだという事実にも気付かされる。

この場所が実はここと繋がっていたのかとか、夕陽が沈む瞬間にこの土地から見る空はきっと綺麗だろうな、なんて空想を抱き懐かしさの中に見る新しい眺望に僕は再び筆を取る意欲を取り戻していた。

次第に夜が深まり視界が悪くなり始める。

今夜通る道は街路灯が他の道に比べて遥かに少なかった。

だけど自然が大切にされている。

草木の香りも脇道を流れる水音もきっと昔のまま変わらないんだろうな……。

少し歩くと交差点らしき場所に出た。

ここにも街灯はない。

それどころか信号機一つすら見当たらない。

とにかく見通しの悪い道路だった。

僕が目を凝らし、道路の真ん中辺りまで体を乗り出しながら注意深く見渡していると、右側すぐ三M程離れた辺りに突然光が現れた。







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