ゆっくりと、忍び寄る





 ウタク達の住む村から、一つ山を越えた向こうにある村。その外れにある森には、変わり者と呼ばれる老夫婦が二人だけで住んでいる。

 夫のは武術の達人という噂。素手であっても熊を狩り、槍を持たせれば龍をも屠ると謳われたというが――あくまでも、噂である。

 妻は古今のあらゆる医術を学んだ医師。人々の命を守るために医学を学び続けたが、戦乱続く世の中に倦んで、今ではすっかり人嫌い――と、近隣の村人は言う。


 ウタクは、この噂が一部は合っていて、一部は間違いであることを知っていた。


 とん、とん、とん、と木戸をゆっくりと聞こえやすいように敲く。


「入んな。鍵なんて上等なもんはありゃしないよ」


 いかにもぞんざいそうな女の声が聞こえてきたので、ウタクは丁寧に立て付けの悪い戸を開ける。

「こんにちは、先生」

「やれやれ、また来たのか小僧」

 出迎えるのは眉間に深い皺が刻まれた老女。この小さな家に住まう医師だ。

 ウタクは自分の家からいつも山一つ向こうにあるここに通い、畑を耕したりすることを対価として妹の病のための薬を貰っている。患者が他にいるときは、看護の真似事のようなこともする。


「今日は雨が来そうだから、畑の世話も薪割りもいらないよ、その辺に転がしてある本でも読んでな」

「おぉ。来たかウタク。本もいいが、ワシの将棋の相手もしてくれよ」

 医者の『先生』が手早く薬の調合に取りかかりながら言うと、奥からこの家のもう一人の主である武術の『師匠』が機嫌よさそうに笑みを浮かべながら姿を現した。

「えぇ、後でお相手しますよ。でも、先日よりひとつ師匠の持ち駒を増やしてくださいね」

「む、それはまだ早いぞ」


 先生と師匠には、ウタクが生まれてくるときも、妹のレッラが生まれてくるときも世話になっている。先生は「産婆は専門じゃ無いんだけどね」とぼやいていたそうだが、このあたりで手が空いていて、わざわざひどい悪天候の夜に山を越えてくれるような医者は彼女だけだったのだ。


 同じ村の住人でこそ無いが、ウタクにとってはそれ以上に親身になってくれる、そんなひとたち。


「む、ウタク……その手はちょっと待て!」

「待ちません師匠。次からは駒を増やしてください」

「く……ぐぅぅ……!!」


「あんたらうるさい! こちとら薬の調合中なんだよ! 繊細な仕事なんだっていつも言っているだろうが!!」


 先生が怒鳴りながら師匠にげんこつを降らせた――のだが。


「いった……ぁ……なんでったってあんたはこうも頑丈なんだい!」

「ははは。鍛えているからなぁ」


殴った先生は痛がって涙目で手をさすりながら文句を言い、殴られた方の師匠は妻に対し朗らかに笑ってみせるのだった。






 さらりとした長い黒髪が流れる。

 ウタクが握っている手作り木櫛が、レッラの黒髪の流れを通るたびに、さらりと妹の香りが届く。

 それはどこか甘い、とろけそうな匂い。


「レッラ、髪が引っ張られたりはしていませんか?」

「大丈夫よ、兄さん。いつもありがとう」

 わずかに振り返り遠慮がちな視線で礼を言う妹レッラに、ウタクは柔らかに微笑みを返す。


「いいのですよ。私がしたくてしているのですからね」


 さらり。

 さらさらり。


 黒髪が流れて、揺れる。


 妹の髪を梳くのは、いつからかウタクの習慣になっていた行為だ。

 さらりとした長い黒髪に触れて、櫛で丁寧に毛先から梳かし、その香りに包まれていると妙に落ち着くのだ。


 それともう一つ、ウタクが妹の髪を梳きたいと思っている理由がある。


 黒髪の流れを割って、レッラの日に焼けていない白いうなじがのぞく。

 そこには、小さな青いコスモスが一輪咲いている。

 もちろん、本当に咲いているわけではない。コスモスのような形をした青い痣があるのだ。

 この小さなコスモスを眺めるのはウタクにとって小さな幸福を噛みしめるのと同じことだった。



「ねぇ、そこに何があるの? 兄さん」

 いつものことだが、不思議そうに妹が尋ねてくる。

「それはまだ内緒です。レッラが結婚したら、夫になった人に教えて貰うんですよ」

「もう。いつもそれなんだから」


 くすくすと兄弟は笑い合う。


 その光景を、優しい父と母が薬草茶をすすりながら眺めている。

「レッラももうすぐ嫁入りの話が来るのでしょうな」

「いいえ、あなた。まだまだ子供ですよ。ああやって兄べったりなうちは、子供です」

「はは。それではずっと子供ではないですか」


 父も母も、言葉遣いが綺麗だ。

 二人はこの村生まれでは無く、ウタク達が生まれる前に遠くの国からここまで来たらしい。

 そのせいか、いまだ村の中には家を構えることが許されず、村人からもうさんくさいと思われている。

 ……信用されていないのだ。



 ……それが、まさか悲劇の引き金を引くことになろうとは、まだ、思っていなかった、のだ。





「父さん……どうか元気で」


 コスモスに囲まれた小さな家の前。

 妹が弱々しい声で、それでもどうにか笑顔を作って、これから兵役に出る父に別れの挨拶を告げる。

「わかっている。レッラも元気で。ちゃんとお母さんに家事も教えて貰うんですよ。お前も年頃なのだから、ね」

「えぇ……わかっているわ……父さん」


 涙を拭う妹レッラをウタクは背中から支えて、父を見上げる。

「父さん」

「……ウタク。母さんと妹を頼むぞ」

「はい」


 父の目は、一瞬だけ悲しげな光を宿した。

 ……無言で告げていた。『村の人達を恨んだりはするな』と。

 村人達は、父に兵役の頭数になるように強制したのだ。普段は村人の一員としてカムイ一家を扱っていないくせに、父に、兵士になって戦場に赴くようにと。


 ウタクは自分が父の代わりに、とも考えた。

 けれども、父は『若いお前にはまだ戦場を見せたくはない』と言って止めたのだ。


「行ってらっしゃい。あなた」

「あぁ。……子供たちのこと、どうか」

「わかっていますよ」

「……行って参ります」

 父はそう言って、母に丁重に頭を下げた。それはまるで、姫君に礼を尽くす侍のようだった。

 いや、本当にそうなのかもしれない。――そうだったのかもしれない。


 父が帰ってきたら、昔の話を聞くのも良いかもしれない。父母がどのように出会い、どのように夫婦になり、そしてどのように家族になったのか。――そんな話を。



 けれど、その話を聞くことはウタクには永遠に叶わなかった。



 ……ほどなくして、父の戦死の報せが村に届いたからだ。




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