スピンオフ作品

虹戦記外伝「双子をめぐる人々」 episode 1

1 仁藤絢音



 僕がそのお姉ちゃんに初めて出会ったのは、夕方の河原だった。

 少年野球チームに所属していた僕は、練習の帰りだった。

 普段、そんなところには寄らないんだけどね、そん時は何だかたまたま、ね。



 ちょっとね、行き詰っていたんだ。

 小学校の野球部はね、伝統も力もないし、ホントお遊びに近い。

 だから、真剣に野球をやりたかった僕は地元の少年野球のチームに入った。

 こっちは、土日に練習があるだけのようなものとは違い、平日だって放課後に遠慮なく呼びつけてくるところだ。実際、ここから数人のプロ野球選手が輩出されているということで、全国的にも有名だ。



 僕はが目指していたのは、ピッチャーだ。

 僕はまだ小学6年生だが、高校生になったら絶対に甲子園に出たい、という夢がある。そしてもっと言えば、野球を仕事にできるように……つまりプロにもなりたいと思っているんだ。

 でも、だんだん自信を失いかけている。

 制球がなかなかうまくいかない。つまり、球のコントロールね。

 ストライクを狙いに行くんだけど、なかなか思うようなところに投げられない。

 コントロールばかり気にすると、球が甘くなって打たれる。

 かといって力一杯速球を投げると、恐れて真ん中を外せば、たいがいがバッターにもそれと悟られてしまうようなボール球になってしまう。

 実際、僕はなかなか試合で投げさせてもらえない。うちのチームにはピッチャー志願の子がわんさかいて、僕はそのひとりにすぎない。僕より実力があるのが、たくさんいるからね。

 これ以上続けてても、ぼくはピッチャーとして芽が出るんだろうか?

 まだ12才だったけど、将来のことも含めて、ゆっくり頭を冷やして考えたかったのさ。だから、滅多に寄り道などしない河原に来て、僕は座り込んだ。



 先客がいた。

 制服を着た高校生のお姉ちゃんが、一人立っていた。

 かなり背の高いお姉ちゃんだ。バレーボールの選手でもおかしくないくらい。

 片手に、何か持っている。よく見ると、弓道で使う日本の長弓だ。 

 夕暮れの暗さのせいでお姉ちゃん一人だけと思ってたけど、目を凝らすとそばにもう一人いた。



「絢音、構えてみろ」

 男の人の声だ。 夕暮れの暗さのせいで顔まではハッキリと分からないけど、鍛え抜かれた体をしているのがそのシルエットから分かる。

 ということは、お姉ちゃんは学校で弓道部か何かに入っているんだろう。

 で、男の人は部活の顧問かコーチ的な立場の人だろう。

「……今日は、青の闇としての能力に頼るな。弓の威力と精度をさらに高めるなら、こういう普通の道具で何度でも練習するんだ」

「はい、兄さん」



 僕の読みは外れた。二人の関係は、兄と妹らしい。

 制服のお姉ちゃんのほうは、目を閉じて身じろぎひとつしない。

 僕は、思わず背筋を正した。

 っていうのは、そのお姉ちゃんから出ているオーラというか気というか……

 何て言ったらいいのか分かんないけど、とにかくお姉ちゃんの周りだけ、空気が違うんだ。ピンと張り詰めているんだよ。



 やがてお姉ちゃんは、ゆっくりとした動作で弓を構える。

 緩慢な動作なのに、とてもシャープな動きに見える。

 一切に、無駄がない——。

 これからなにが起こるのか、と僕はお姉ちゃんがつがえる矢の飛ぶであろう先を見やった。

 僕は、目を疑ったよ。お姉ちゃんが狙っているのは、どう見たって——

 コーラの空き缶だ。しかも、お姉ちゃんとその空き缶との距離は、ゆうに100メートルはある。僕のいる場所からは辛うじてコーラの缶だと分かるけど、お姉ちゃんの立ち位置からだと小さな点ほどにしか見えないんじゃないかと思う。

 ……ホントに、あれに当てる気なの?



 次の瞬間、僕は信じられないものを見た。

 お姉ちゃんの目が、目が……

 夕闇迫る河原の暗がりの中で、青く光ったんだよ。

 それだけじゃない。

 モヤモヤとしたコバルトブルーの光の粒子が、お姉ちゃんの周りに満ちた。



 !!

 


 弓から放たれた矢はまるで魂を宿したかのように、そして自分の行き着くべき先が分かっているかのように、ほんの僅かなカーブを描きながら突き進んだ。

 一瞬の出来事だった。

 静寂の中、コーラの缶はそのアルミボディを矢に貫通され、音を立てて斜め上にはじけ跳んだ。

「……こら絢音。能力は使うなと言ってあっただろう」

「兄さん、誤解よ。能力を使わなくても、弓を使えばなぜか勝手に目が光っちゃうんですってば」

 僕は思わず、我を忘れて叫んだ。

「すごいです!」

 立ち上がって、謎のお姉ちゃんのそばに駆け寄った。

「誰だ? この子どもは……絢音、お前の知り合いか?」

「いいえ、知らないわ」



 今思えば、大胆なことをしたもんだと思う。

 恥ずかしいとかっていう思いは、その時完全に忘れていたかな。

 とにかく、お姉ちゃんが持っているチカラは、僕の目指しているものそのもののような気がして。

 僕の探している答えがそこにあるんじゃないか、って思ったから必死だったんだ。

「……今の、見てたの?」

 ゾクッとするほど、低くするどい声。

「あのっ、どうやったら正確に、狙った的に当てられるようになるんですか? 僕の場合、野球やってるんでピッチャーなんですけど——」

 弓と矢を布袋のケースにしまいながら、お姉ちゃんは事もなげに言う。

「野球だろうが弓道だろうが、真髄は同じ」

 僕は多分、かなり厚かましいヤツになっていたと思うけど、ただ必死だった。

「そ、その真髄とかって、どうやったら分かるようになるんでしょうか?」

 弓を背中に担いだお姉ちゃんは、腰をかがめて僕の目をのぞき込んできた。

「……本当に、知りたい?」

 吸い込まれてしまいそうな、青い瞳だった。



「ちょ、ちょっと待て。いつシャドーの襲撃があってもおかしくないこの時期に、この少年のコーチを引き受けるんじゃあ、ないだろうな?」

「兄さん、そりゃそうだけど、こういうことも大事にしていかないと……本当に負けられない戦いで、一番大事なことを忘れちゃうんじゃないかな」



 お姉ちゃんのフルネームは、仁藤絢音といった。

 僕は、とりあえず敬意を表して『絢音先生』と呼ぶことにした。

 最初に師匠って呼んだら絢音先生は顔を赤くして、「それだけはやめて……」と言ったから。

 次の日から僕は、お姉ちゃんが指定した『都立A女学院』という女子校の弓道場に、できるだけ毎日通うようにした。

 事情はよく分からないけど、お姉ちゃんは今現在高校には通っていないのだそうだ。で、通っていたその学校も、謎の巨大生物が暴れた事件(注:バジリスク戦)のせいで、潰れてしまったとか。

 でもお姉ちゃんの友人に都立A女の生徒や先生がいて、その人たちの協力で弓道部の部活終了後に道場を借りることができた。僕は少年野球の練習が終わった夕方遅くなってから、そこへ出かけるのが日課となった。



 僕がどんなに遅くなっても、絢音先生は道場の中央に正座して、静かに待っていてくれた。

 体は疲れていたけど、それでも僕は何かつかみたくて必死で、足を運んだ。

「あら和馬くん、いらっしゃ~い。絢音ちゃんがお待ちかねですわよ」

 僕を迎えてくれたのは、都立A女の佐伯麗子先生。何でも、今回弓道場を借りられたのはこの先生の協力(平たく言えばコネ?)があったからこそだとか。

「おお、来たか少年。今日も思いっきりしごかれてくるがよい」

 陰陽師(ホントにそんな人いるんだ!)の安倍夏芽さんも、今回の協力者の一人だ。見た感じ、麗子先生とこの夏芽さんは、あまり仲が良くないみたい。ならば一緒にいなきゃいいのに、いつみても大体二人は一緒にいるんだから、不思議でしょうがない。

「恩に着ます、麗子先生。いきなり現れて、弓道場借りてくれ、なんて頼んじゃって……」

「絢音ちゃんの頼みとあっちゃね! その代わりと言っちゃなんだけど、シャドーや宇宙からの敵が現れた時は、私や美奈子ちゃんに力を貸してくださいませね! オーッホッホ」

「……やっぱそうきましたか。了解です」


  


 僕はたいがい、泣いて帰った。

 これには、自分自身意外だった。

 所属している少年野球のチームは、プロさえ輩出している名門だ。

 それだけに、一般の少年野球よりも、その指導は厳しい。

 そういう場所でもまれているから、僕にはたいがいのことは耐えれる、乗り越えられるという自信もあった。でも、絢音先生の指導の前では、そんな自信は何にもならなかった。

 場は壮絶を極めた。

 道場での数時間は、毎日が戦争だった。

 逃げ帰りたくなる時も、何度もあった。



 最初の数週間は、ただひたすらに正座。黙想。

 動くと、お姉ちゃんの恐ろしい喝の声が響いた。

 30分おきくらいに、こう聞かれる。

「何が見える?」

 僕は、正直に答える。

「目をつむってるんで、何も見えません」

 すると、お姉ちゃんの非情な指示が即座に飛んでくる。

「……もう30分」



 当然のことながら、足が痺れる。

 先生の見ていないタイミングを見計らって、足を崩す。

 でも、そんな小手先のごまかしは、通用しなかった。

 絢音先生は、背中にも目があるんじゃないかと正直思った。

 僕は、その度に張り倒された。

 飛んでくるのは平手打ちなのだが、足を踏ん張っても倒れてしまうほどの衝撃だ。

 厳しい指導は覚悟していたが、まさか女の人にぶたれるとまでは思わず心の準備もできていなかった僕は、泣いた。

「技術的なことや体の動かし方を教えてほしいのなら、帰りなさい。私よりも野球に通じた先生はいくらでもいるでしょう」

 絢音先生は、僕が泣くたびにそう言った。



 一体何の役に立つんだろうという指導メニューは、黙想だけではなかった。

 漢字が500個くらい書いてある紙が、道場の壁に貼られてある。そこから数メートル離れた場所で正座した僕に、絢音先生は適当な漢字を棒で指す。

 僕は、次々と指される漢字を出来るだけ早く答える。

 慣れないうちは、目がチカチカしてしょうがない。5分も続けてたら、目が疲れて僕は根をあげた。

 先生は、疲れてひっくり返る僕を見て、とても悲しい目をした。 



 一度、道場から帰りかけて忘れ物を取りに戻ったことがあった。

 僕は入りかけたけど、やっぱり入れなかった。

 道場の床に伏して、先生が泣いていたから。

 僕の名前を呼びながら、叫んでいる。

 その行為をあえて言い表すなら、『祈り』 だろう。

「……いつかきっと、あの子に私のしていることの意味が分かりますように」

 その絢音先生の姿を見た時からー

 僕のすべての物事の見方が、少しずつ変っていった。



「一切を自分のためにするな。

 上手くなろうと思うな。

 人に勝とうと思うな。

 結果を期待してする一切のことを価値なきと思え。

 結果とは、その後でついてくるものに過ぎない。

 優越感を最大の敵と思え。

 アイツよりオレが上。そう思った瞬間、あなたの一流選手としての可能性は死ぬ。

 劣等感は友である。しかしそれは劇薬と一緒で、使い方を誤ると死ぬ。

 気とひとつになれ。

 地と合せよ。

 己の力を信じるな。

 ただ己の使命を信ぜよ。

 自分を動かしめている魂と肉体の根源を信ぜよ。

 感謝と決意以外の感情は、徹底的にこれを排除せよ」



 絢音先生の教えは、難解なうえにムチャクチャだった。

 普通に考えたら、納得しにくいものも多かった。

 先生は言った。

「聞き方を間違えると、あなたの才能は死にます。ここであなたがこの言葉をどう捉えるか。それが、あなたの選手としての一生を決めます」

 そして、先生が最も大事だと言って僕に叩き込んだ言葉は——



 命を得ようと思ってそれを守る者はそれを失い、

 志のために自ら命を捨てようとする者はそれを得る。

 頂点に立ちたいと思うのなら、もっとも下になりなさい。

 自分よりも下の者に仕え、僕(しもべ)のようになりなさい。 



 僕は、大事だと言われたこの二つの言葉をブツブツと唱え続けた。

 野球チームで、僕はグランドの整地や小石拾い、ボール磨き、グラブやバットの手入れなどを率先してやった。

 本来、当番制でやる者は週ごとに決まっていたのだが、余裕のある時はわざわざその役割を買って出た。

「……和馬のやつ、どういう風の吹き回しだぁ?」

 みんな、首を傾げた。

 喜んでお礼を言ってくれる者もいれば、いい子ぶって、とかどうせ点数稼ぎだろう、と陰口を言う者もあった。

 でも、僕は大して気にしなかった。

 悔しい思いをしそうになるたびに、絢音先生の言葉を思い出した。



 目の前で起こる一切の現実に惑わされるな。

 それを突き抜けてもっと遠くにあるものを見よ——。



 二ヶ月がたった。

 僕は、黙想していた。

 この頃は、一時間以上の黙想でも、体を揺らさずにできるようになった。

 うしろから、絢音先生の声がした。

「何が見える?」

 正直に、最近見えて見えて仕方のないものを言った。

「……自分が見えます」



 この日から、僕は先生の許可のもと道場で初めてボールを握った。

 ちょうどキャッチャーのいる距離だけ離れた位置へ、的を置く。

 僕は、無心で的に向かって投球練習を続けた。

 来る日も来る日も、投げた。

 絢音先生も、僕の隣りで一緒に弓を引く。

 教えられた通り、感謝と決意以外の感情を無にして、投げた。



「少年よ。ようやく『時』が来たようだな」

 この頃から、陰陽師の夏芽さんも、色々と教えてくれるようになった。

 夏芽さんからは、主に「とっておきの魔球」の投げ方を教わった。

 どんなものかは、まだヒミツ。



 そんな僕を見て先生は、最近とてもうれしそうな顔をする。

 申し訳ない話だが、今頃になってようやく、先生がとってもキレイな女の人だということに改めて気付いた。(先生は、この点だけは「目がおかしいんじゃないの?」って必死に否定してくるんだけど)

 もし歳が離れてなければ、マジで僕のお嫁さんになってほしいと思うところだ。

 あ、いけないいけない。雑念排除——。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 


 すでに、試合は9回裏。

 僕は、全国大会の県予選トーナメント最終戦のマウンドに立っていた。

 今、スコアは7対5で、ウチが勝っている。

 この回を抑えれば、県代表として全国大会の舞台で戦えるのだ。

 本来ならば、うちのチームのステータスから言えば、予選など通過して当たり前である。しかし、この一戦だけは違う。

 相手は、たまたま同じ地区にある、これまた最近メキメキと実力をつけてきて、ウチとて油断のならなくなった不気味なチームなのだ。



 僕は、絢音先生に感謝した。

 お陰で、監督に『投げてみるか』と声をかけられ、特訓の成果を見せることができた。そこで監督に認められ、先発ピッチャーのローテーションの一人に数えられる昇格を果たした。

 そして、予選をここまで投げぬけたのも、僕一人の力じゃなかった。

 野手のみんなが、本当によく支えてくれた。

 特訓の賜物があるとはいえ、やはり打たれることはある。

 でも、野手のみんなが必死に支えてくれているのが、ひしひしと伝わってくる。

 しまった、と思う時でも目を見張るようなファインプレーでアウトを取り、ピンチをしのいでくれたことも、一度や二度ではない。

「みんな、お前を信頼しているんだよ」

 監督は言う。

「和馬には、日頃世話になってるしな!」

 仲間たちは、そう言ってくれる。



 ……上に立ちたいなら逆に仕えろとは、こういうことか。



 でも僕は、皆から信頼を得ることを狙ってやってきたわけじゃない。

 ただ、絢音先生に教えられたことを必死に守ってきただけだ。



 さて、困ったことになった。

 回の最初、いきなりツーアウトを取ったのはいいが、その後ランナーをゆるしてしまい、ツーアウト一塁二塁としてしまった。

 そしてバッターボックスに入ってきたのは、過去データでは最も警戒しなければいけない打者、敵キャプテンの小田君。

 予選だけでも、すでにホームランを3本も打ってきている。

 ここで一発でも出れば、走者一掃のサヨナラ負けもありうる——。



「目の前の現象に、まどわされるな。

 勝つと思うな。しかし負けるとも思うな。

 相手を見るな。見える相手の体だけを、相手のすべてだと勘違いするな」



 僕は顔を上げて、キャッチャーのサインを見る。

 首を縦に振った僕は、左足を足を高く上げる。

「ストライク!」



 絢音先生がいるのが分かる。

 僕のこと、見てくれているんだね。

 大丈夫。教わったこと、ちゃんと覚えているよ。

 先生の腕には遠く及ばないけど、僕は先生の弟子だもん。

 それに恥ずかしくないように、投げるからね。

「ファウル!」

 ストライクを二つ取ったが、だんだんタイミングを合わされてきた。

 何とかファウルで済んでいるが、もうこれで5球目だ。

 小田君に粘られた僕は、額の汗をぬぐって呼吸を整えた。

 カアアンという甲高い音が、グランドにこだまする。

「……ファウル!」

 とうとう、これで10本目のファウル。

 どこからともなく一陣の風が吹いてきた。

 それがゆっくりと、グランドに軽い砂埃を巻き上げる。

 そして、オレンジ色を帯びてきた夕日が、僕らを照らす。

 誰もが、息を呑んでゲームの決まる一球を見ようとしていた。



 静かだ。

 動く者も、いない。



 キャッチャーのサインは、変化球だった。

 僕は、首を振った。



 ……いや、まっすぐだ。



 これ以上、逃げてはいけない。

 僕は、鷹だ。

 狙った獲物は、決して外さない——。



 心はまったく動かない、揺れもしない水面。

 全身を目にし、ただ一点だけを見つめる。

 信じるのは自分ではない。

 僕の後ろにいる、仲間と監督と絢音先生だ。

 僕だけなら、おそらく負ける。

 でも、みんなの力を背負っているから勝てる。



 ……心は意と合し 意は気と合し 気は神と合す



 投球フォームに入った僕は、勝つことを忘れた。

 小田君のことも忘れた。

 ただ、ひとつの思いだけがあった。

 絢音先生が間違っていないことを証明するんだ。



 ……先生、投げてみるね。

 夏芽さんから教わった、必殺の決め球を。

 まだ完成の域じゃないから、今まで本番では使わずにきたけれど—— 

 そんなこと言っていられない。みんなのためにも、ここで決めなきゃ。



 腕は、矢と化す。

 空気の流れが、無数の糸のようにうしろから真っ直ぐに僕の体に押し寄せ、一瞬にして前に前に突き進む。

 腕を思いっきり振りぬいたその先に、命を宿した球はミリ単位もぶれることなく地を這う。

 空気の振動が鈍い音を立て、弾道の途中で球はさらに加速してゆく——。


 

 心意六合・八卦雷爆掌!



 ズバン!

 球が、キャッチャーミットにおさまった。

 小田君は見送った。

 キャッチャーは不安げに、アンパイアを見上げる。

 果たして、判定は……?

 


「ストライク……バッターアウト! ゲームセットおお!」

 一呼吸の間があって、審判は高らかに宣言した。

 スタンドに、ベンチにー。一斉に歓声が沸きあがった。

「やったぁ!  勝ったあ!」

 みんな、喜んでそう叫んだ。

 僕は、敵に勝ったんじゃない。

 あえて言うなら、師匠の気持ちの端っこだけでもやっと分かった、ってカンジ。

 後で僕に握手を求めてきた小田君は、こう言った。

「負けたよ。お前の最後の球、すげぇな。あんな球、初めて見たよ。何ていうのかな、手前でさ……急にまた加速したんだよ。ありゃバットが出なかった」

 そりゃ驚くだろう。投げた僕自身もビックリだよ。

 陰陽道ってのを応用して投げると、ものすごいことになるんだね……



 師匠が……いや違った絢音先生が駆けてくる。

 見えるよ。

 涙にかすんでよくは見えないけど、僕のいるピッチャーマウンドに向かってくるのが分かる。

 みんなの、冷やかし混じりの歓声が上がる。

 恥ずかしいよ、先生。抱きつくなんてさ。



 僕も、先生の肩に手を回した。

 先生のぬくもりが伝わってくる。先生の涙が、首筋に冷たい。

 うん。うれしかったな。

 僕が強くなったからじゃないよ。

 先生を喜ばすことができるようになれたから。

 だって、初めの頃は僕も泣いてたけど、先生だって陰で泣いてたんだもん。

 あ、今先生が泣いてるのは、きっときっとうれし涙なんだからね。



 絢音先生に出会えて、僕は本当に幸せです——




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



※作者注:この話で佐伯麗子がいきなり南条水穂の通う都立A女学院高校の教師となっているが、これは後編第一章にて月葉と水穂をマークするため、麗子がコネを使いその高校の教師となり、陰陽師の夏芽もそこに転入してくるという経緯があり、その時期に起きた出来事である。




 ~外伝 エピソード2へ続く~

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