4-5 いつもどおりなわけがない午後
午後。
本日最大のイベントが、ついにはじまった。
生まれてはじめての薪能。
それは海外育ちの麗美だけでなく、この国で育った俺にとってもはじめての経験だった。
「いよぉー……」
ポンッ。
「おぉー……」
ポンッ。
「……」
現代に生きる俺たちにとっては、かなりのゆったりとした時間の流れ。
舞台(でいいのか?)の上に、独特な衣装を身にまとった人がすり足で登場した。
「あの……悦郎さん」
周りに迷惑をかけないよう、小声で麗美が尋ねてくる。
「これ……どういったお話なんでしょう」
当然のように、俺にもわからなかった。
俺は軽く肩をすくめ、こっちもお手上げだということを麗美に示した。
麗美はわかりましたと言うかのように小さくうなずくと、わからないなりに興味深いのか、しっかりと舞台を見つめながら演者さんの言葉に耳を傾けていた。
そんな麗美とは対象的なのが、咲だった……いや、正確には咲たちだった。
「敦盛ですよ敦盛。信長様も舞った敦盛ですよ」
「うんうん。ということはあの鼓の人の立ち位置、蘭丸と同じってことだよね」
「きゃー」
うちのクラスの二大歴女。それが咲と陽ちゃんだった。
(ヒソヒソ声ではあるけど、確実にあそこだけテンション違うよな)
かぶりつき……と言っていいのだろうか。最前列に陣取った咲と陽ちゃんプラス1名は、クラスの誰よりも熱心な視線で能舞台……敦盛の上演を食い入るように見つめていた。
「それよりも敦盛自体の内容に注目すべきです。というか二人とも、信長公の熱盛は幸若舞で、能ではありません」
その2人に冷水を浴びせかけるかのように、もう1人の歴女……クラス三大歴女の最後の1人、白藍(しらあい)桜子が突っ込みを入れた。
「え? じゃあ下天のうちはくらぶらないの?」
「なんですそのドラゲナイみたいな言い方は」
「ぷぷぷっ。下天のうちはドラゲナイっ」
まるでそういう特殊技能でもあるかのように、三人は周囲の邪魔にならないギリギリの声の大きさでヒソヒソ話をしている。
それを聞き取れる俺の耳もどうにかしているような気もするが、聞こえるもんはしょうがない。
まあ、舞台の上に集中してないから聞き取れるのかもしれないけどな。
「じゃあ桜子ちゃん、能の敦盛っていうのはどういう内容なの?」
「敦盛を題材にしていることは同じですが、その時期が違います。幸若舞の敦盛はほぼリアルタイムの敦盛ですけど、能の敦盛は敦盛没後の直実の話しです」
「直実?」
「熊谷次郎直実です。源氏の武将ですよ」
「へー」
三大歴女はそれぞれ、得意分野が違っていた。
咲は戦国時代。
陽ちゃんは明治・幕末。
そして白藍は鎌倉・室町。
カテゴリーわけによってはここに三国志マニアの桑染(くわぞめ)を加えることもあるが、今日のところはアイツは盛り上がっていない。
(まあ、敦盛と三国志はこれっぽっちもつながらないしな)
栗毛でダブルドリルな髪型の白藍。
舞台を両サイドでパチパチと燃えている薪に照らされてなのか、いつも色白な肌がうっすら赤みをおびているように見える。
「それはいいモノ? 悪者?」
「なんですその分け方。陽ちゃん、あなた新選組がいいモノと悪者に分けられたらどう思うんです?」
「うっ、なるほど……」
「戦いには善悪はない。勝ったほうが正しいのだ……だよね?」
「咲さん、それどこから拾ってきたセリフです?」
「うーん……なんとか英雄伝説とかだったかな」
「まあ、ありがちなセリフですよね。そこそこ真実ですけど」
そんな感じで盛り上がっていると、不意に白藍がうっとうめいて顔を抑えながらうつむいた。
「あ……またか、桜子」
「桜子ちゃん大丈夫?」
「う゛……う゛ん。ぢょっど興奮じだだけ」
咲がティッシュを取り出し、白藍に渡す。
白藍はそれを丸めて、自分の鼻に詰めた。
「止まるまで大人しくしてなね」
「わ゛がっだ」
どうやら白藍が紅潮しているように見えたのは、照明のせいだけだったわけではなかったようだ。
病弱で休みがちな白藍。
至近距離で能を見て、鼻血が出るほど興奮したらしい。
(……謎だ)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます