第2話 雪露宮での出会い1
――出前、それは雷凛風にとってはいつ如何なる場所にでも注文の料理を届ける仕事だ。
「ようやく皇都金安だわ。きっとあの明るい辺りがお城よね。雪露宮って確か敷地の東の端だって言ってたけど、やっぱり夜は暗くてわかりにくい」
――そう、それがたとえ官吏でもない一般庶民の立ち入りが禁止されている皇宮内だろうと、関係はない。
実父の雷浩然からは「くれぐれも本当の行き先は紫華には内緒で頼む」と念押しされていた。だから凛風は父親の言葉通り実母白紫華へは「父さんの所に行ってくる」と誤魔化して出て来た。
父親の所と言えば、母親は間違いなく皇都にある彼の屋敷を連想するだろうからだ。
たぶん今も父親は皇宮に残っているだろうから「父さんの所」というのもあながち全くの嘘というわけでもない。それを逆手にとってああも言ったのだが正直心苦しかった。
因みにこの国では結婚しても夫婦別姓が基本なので、偶然同じ苗字の相手と結婚しない限りは父親と母親の苗字が異なる。
大抵の子供が父方の姓を名乗る例に漏れず、凛風も父親の姓の「雷」を名乗っていた。
両親は母方白家の稼業である食堂を畳む畳まないで大喧嘩をして、凛風が物心付いた時には官吏である父親の仕事の都合も重なって、二人は別居状態となっていた。
まあとにかく父親としては、店をやめて一緒に暮らしてほしいようだが、母親は依然頑として拒んでいる。
娘の凛風も彼の屋敷には定住させないという徹底ぶりだ。
まあ父親には悪いが、官吏のご令嬢としての淑女生活は性に合わなかっただろうから良かったと思っている。
そんな事を思い出していた凛風は、相棒の金兎雲の上から眼下に広がる皇宮敷地内の要所要所に点々と見える灯りを眺め下ろした。
勿論今夜も男装だ。
「ねえ
金兎雲は返事の代わりに長い兎耳で彼女の腕の辺りを一回軽くポンと叩いた。肯定の意だ。
これが否定だと二度叩かれる。
喋らない金兎雲とどうにか会話がしたくて凛風がその方法を頼んだのだ。
目的地の雪露宮は皇帝の寝所のある後宮などの内宮部分ではなく、練兵場や官吏の各部署のある外宮部分の一角にあるので、別段男子禁制ではない。
だから父親の雷浩然も自由に出入りして皇子の世話を焼いていられるのだ。
かつては外国の使節や賓客をもてなしていた場所でもあるらしく、敷地は広く建物の造り自体もとても華やかだという。
大きな池には蓮が植えられ四季折々の様相を見せてくれるとも聞いた。
その池の中央には遠目に見るとあたかもそこに浮かぶように典雅な朱塗りの
ただそれは、普通の人の場合であって、凛風に限ってはもう一つの手段が取れた。
「池の中央の東屋までって言われたけど、もしかしてあそこかな?」
夜の闇のおかげで姿を見られる心配はない。
出前先の離宮の位置は大体わかったが真っ暗な池にあっては東屋の位置まではわからない。故に上空からでもわかるように灯りを灯しておくと父親が言っていたのだ。
言葉通り池の東屋は仄かに明るかった。
六角形をした東屋の柱のいくつかに赤白の提灯が吊るされていた。
誘導灯の役割も兼ねているその光はしかし決して強くはなく、微かに水面の揺らぎに反射する程度で情緒を感じさせた。これならたとえ雪露宮に誰か関係のない人間が入って来たとしても大して目立たないので安心だ。
悠々と高度を下げていけば、東屋に設置された円卓の上にも灯りがあるのが見えた。
卓の上にも灯りは必要だろうからと、きっと父親が置いていってくれたのだろうと凛風は思った。
彼は同席しないらしいのだ。
「皇子様まだ来てないんだ」
その場には誰の姿もなく、ただ大理石の円卓天板の上で黄色い提灯明かりが淡く揺らいでいるだけだ。
金兎雲から体重を感じさせない身軽さ降り立つと、凛風は岡持ちを円卓に置いた。
「まあ少し待ってれば来るよね」
食堂の繁忙時間帯はとっくに過ぎていて今はやや遅い時間だ。
凛風は備え付けの丸椅子に腰かけて過ごす事にした。
金兎雲は彼女を降ろして間もなく闇に消えたので、今この場には男装の少女が一人きり。
「普通こんな恐れ多い所に来ようなんて思わないし、どうせならこの機に雰囲気だけでも楽しもう」
特にする事もないので円卓をはじめ周囲の造りに視線を巡らせた凛風は、しかしふと眉を寄せた。
過ぎた視界の中に何やら放置できない奇妙なものがあったような気がするのだ。
視線を戻して見れば、それは大きな布の塊のように見えた。
「え、まさかのこんな所にゴミ袋?」
一応中身を
だが全くの予期せぬ事に、それは一瞬ビクッと震えると俊敏な動きで横にずれた。
「……は?」
唖然とし、不意打ちに固まってしまった彼女は何とか平静さを総動員し、眼球の動きだけでそれを追う。
(えーと、布袋って独りでに動くものだっけ?)
横目でじーっと再び沈黙したように動かないそれを睨んで彼女はまた手を伸ばした。
すると逃げるように布の塊が動いた。
(あーこれはもう確定だ。離宮って妖怪布だるまがいたんだわ)
顔を向けたらまた震えたので、彼女はそっぽを向いて気にしないふり……からの飛びかかりを決行する。
「な!? 避けた!?」
しかし相手もさる者なのか、彼女の素早い手掴みをごろごろ転がって避けたではないか。
仙人である祖父楊叡直伝の武芸の腕を持つ凛風の初撃を避けられる者はあまりいない。しかも動きにくそうな布だるまのままでとなれば、それは相当の
「武芸者としての血が騒ぐわ。取っ捕まえて正体を暴いてやる!」
結果、意地になって布だるまを追い、布だるまの方も必死で捕まらないように逃げ回った。
ぐるぐると東屋の卓を中心に回る一人と布の塊は奇怪以外の何物でもない。
「くっ何なのこれ!」
肩を上下させて息を切らす汗ばんだ凛風は、卓を挟んだ向こうに居るそれへと歯噛みする。
「このままじゃ埒が明かない」
出前の事などすっかり忘れてしまった彼女はちょっと考え、刹那、円卓に手を着いて体を空中回転させながら向こう側まで跳躍すると、勢いのままに布を剥ぎ取った。
さすがに卓を越えてくるとは思っていなかったのか、布だるまの方は反応が遅れ、そのせいでまんまと彼女に布を引っぺがされた。
「――あ……れ?」
その下から現れたものを、凛風は澄んだ両の瞳を大きく見開いて凝視した。
一番初めに思った事と言えばこんな事だった。
(これぞ
と。
そしてこうも思った。
(え、正体は人間だったってオチだけど、何でこの人さっきから布に包まってたわけ? 別に肌寒くはないと思うけど。それとも彼が寒がりなだけ?)
怪訝な顔の少女に見下ろされる形で、心底驚いたように目を瞠るのは一人の青年。
彼の容姿は美形を見慣れた彼女でも感心してしまう程のものというよりは、身近にいない儚げなタイプの美形だったのでそう思ったのかもしれなかった。
何しろ彼女の周囲の美形は家族から友人に至るまでを思い出してみても、癖や我が強いタイプばかりなのだった。
「あなた、誰?」
単刀直入に至極真っ当な質問をすると、青年はさっと目を伏せて視線をはずした。心なしか灯りに照らされた頬が朱に染まっているように見える。
「わ、私はその……食べに来ただけで……」
「え?」
この周囲の雑音がほとんどない東屋でさえ声が小さくてよく聞き取れなかったので訊き返すと、青年は口をもごもごさせて、か細い声を出す。
「パ、
包子という単語は聞き取れた凛風は、ここでようやく彼が出前相手なのだと察する事ができ、自身のこめかみを小突いた。
(ああもう私の馬鹿。ここにいる相手って時点でどうしてそれと気付かなかったのよ)
「あー……えーっと乱暴な真似してごめんなさい。てっきり妖怪かと思って」
「よ、妖怪……」
気まずい思いで布を返すと、微妙に傷付いたような顔をしていた青年はまたそれに包まった。
(……ええと、目だけを出すのはやめてほしいなあ)
凛風は取り繕ったような不自然なものにはなったが、何とか笑みと言えるものを顔面に貼り付け、岡持ちを示した。
「今更であれですけど、お待たせしました皇子様、出前です」
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