04. 肉の誘惑
俺のカードを奪ってどうするつもりだ?
他人の登録証で可能な悪事など、いくらでもありそうで、実はほぼ存在しない。
仕事を奪ったところで、同じ特能者でなければ即座にバレるし、特能持ちなら奪う必要が無い。
支援金や能力者用のサービスは、何重にも本人認証が行われるため、カードだけで受けることは不可能だ。
「お前も能力者なら知ってるだろ。カードを盗ったって、すぐ無効化されて終わりだよ」
「そうね。嫌がらせにしかならない」
「だろ? ほら、大人しく返せ」
「嫌がらせが目的だとしたら?」
やめろ、そういうタチの悪い冗談は。
ふざけるなら、それに相応しい顔で喋れ。真面目な顔で凄むな。
「からかってると思った? 私は至って真面目よ。あなたこそ、知ってるわよね。カードを紛失したら、再発行まで拘束されるって」
「そんなもん、即日再発行される――」
「最初の発行に掛かった日数は?」
「……二十二日だ」
初回も二度目も同じ手間が掛かるのなら、また二十日以上も特研の拘置所へ収容されてしまう。
そりゃ警察の拘置所よりは、ずっと過ごしやすい施設だ。エアコンは効いているし、
そうだとしても日がな一日中、狭い密室に閉じ込められて嬉しいヤツなんていない。
サヤの発言は嘘かもしれないが、収監生活を思い返すと、笑い飛ばすことはできなかった。
彼女はバッグの中から、金属製の平たい板を取り出す。材質はステンレスだろうか。
手帳より少し大きいくらいのその板は、サヤが側面を押さえるとノートのように開いた。
訝しげに見る俺へ、彼女の解説が始まる。
「これはカードホルダーよ。登録証みたいな貴重品は、ちゃんとホルダーへ入れないと」
「入れたところで、大して変わらないだろ。俺は剥き出し派だ」
「汚れたり、破損したりだってするわよ。不用心ね」
登録証を放り込んだケースが閉じ合わせられ、パチリと小気味よい音がした。
「これで安心ね。踏んでも大丈夫」
「そりゃどうも。さあ、返せ」
「仕上げがまだよ。ジャーン!」
次いでサヤは芝居がかった仕草で、ラベルの無いポリ容器を二つ地面に置く。
白と赤、色は違えど、どちらも薬瓶程度の大きさで、形も同じ。
先端が尖った抽出口になっているボトル――油を
「工業用のを手に入れるのに、苦労したのよ。二液を混ぜると、強烈に硬化するらしいわ」
「おい、まさか……よせっ!」
白いボトルのキャップを外し、カードケースにたっぷりと中身を注ぎ出したのを見て、俺も彼女の意図を悟った。
いや、なんでそんな真似をするかは理解不能だ。
分かったのは、サヤがケースを強力な接着剤で固める気だということ。
いつまでも拘束されている場合じゃない。
手摺りに嵌まった手錠の輪を、同じく繋がれた左手で触れる。
左がつかむ。
引き寄せるのは右。
今日の検診でも幾度となく実演させられ、疲れはしたが、まだガス欠になるには早い。
強大な力は回復に時間を要し、弱い能力ほど頻度も回数も制限が緩い。これが特能の基本である。
強力な特能ほど膨大な精神力を必要とし、一日に一度使うのが精一杯だなんてことをよく耳にする。
そして良くも悪くも、俺は弱能力者だ。
意識を集中させること二秒と少し、手錠は左手から消え、右掌の上に現れた。
一瞬の内に拘束を解く、手品の如き早業――一番向いている職業は、マジシャンではないかと思う。
特能が世界中で発現してからは、廃業が相次いだ稀少な職なのが残念だが。
自由になった右手を突き出し、サヤの腕へ掴みかかるが、彼女はまたヒラリとそれをかわした。
接着剤を持ったまま、階段のステップを華麗に跳躍する彼女は、差し詰めサーカスの軽業師向きか。
これもまた、絶滅危惧職だ。
「その身のこなし、特能の力だろ」
「ご明察。あなたの力もさすがだけど、ちょっと発動に手間取り過ぎかも」
「ん?」
遅いと言っても秒単位、馬鹿にされるような鈍臭さではないが――。
彼女の両手にはボトル、では登録証は?
階段に視線を落とした俺は、その惨状に叫んだ。
「バカヤローッ! 地面に貼り付けてんじゃねえ!」
硬化力の高さは、嘘ではなかったらしい。
上から二液をぶっかけられたケースは、既にガチガチに固まっており、スニーカーの踵で蹴ってもびくともしなかった。
側面に垂れた接着剤のせいで、ケースを開けることもできやしない。
この女、よりによって絶対に関わっちゃダメな人種じゃないか。
極度の“カード”フェチ、もしくは極度の“カードを無くしてオロオロする男”フェチだ。
変態に特能を与えたヤツは誰だよ。
幸い、サヤは数段上から様子を眺めるだけで、他に何か悪さをする気配は無い。
ここはさっさとカードを取り返して、一目散に逃げるのがいい。
しつこく追ってくるようなら、今度こそ警察に通報しよう。特能同士なら遠慮は不必要だ。
今までの人生で、一度も犯罪に手を染めたりしなかった善良な市民をナメるなよ。
警察が信用するのは俺の証言であって、間違っても変態の
サヤの動きを慎重に見張りつつ膝を突き、接着剤でボコボコになったケースの表面に左手を当てる。
能力を発動する際には、指先に意識を集中するため、周囲への警戒が途切れてしまう。
手錠を外した先程は、その隙に接着剤を撒かれた。
今回はせめて顔をサヤに向けたまま発動させようと、敢えてケースを見ないように努める。
所用時間は、先程より少し長い三秒。
右手に出現したカードを握り締め、反転した俺は猛然と階段を駆け降りた。
一つ目の踊り場に片足が降り立った、その瞬間のことだ。
右方向へ大きく体勢を崩し、手と右膝を地面へ
終わったと思った階段が、実はもう一段あった、そんな感覚が原因だった。
錯覚を引き起こしたのは、おそらくサヤの能力だろう。
超強力とされる
彼女とやり合う気はさらさら無く、立ち上がった俺は、振り向きもせずにまた足を踏み出した。
途端、今度は左へ倒れ込む。
いきなり左足に重りを付けられたような不思議な現象――経験したのは初めてだが、話には聞いている。
渋々背後へ首を回し、近寄ってくるサヤの顔を見返した。
「お前、加重能力者か」
「軽くもできる。
「特級の激レアじゃねえか。さては、下級をイジメて遊ぶ変態野郎だな」
「違う。傷付けるつもりは無い」
その言葉を証明するかのように、俺の体にかかる加重は知れている。
精々、数キロ重くなったくらいで、荷物が増えた程度にしか感じない。
無理やり走って逃げ去るべきか。
それとも、特級能力者を刺激しないように、話を聞くフリくらいはするべきか。
判断に迷い、ジリジリと彼女と向き合ったまま後ずさった。
踊り場が途切れ、続く階段を一段、二段とゆっくりと下りる。
さっきまで俺が立っていた場所まで来たサヤは、両膝を折りしゃがみ込んだ。
正座した彼女の目線は、ちょうど俺と同じ高さ。そのままペたんと両手を汚い踊り場に付け、頭を
まさかの土下座。
これはちょっと変態ポイントが高過ぎて、理解が難しい。
「あの、もう帰っていいかな」
「待って! お願い」
「あー、金髪が汚れるって。地面についてるじゃん。よし、許した、一件落着! 俺は帰るから」
「私も一緒に帰る」
「連れて行くわけねえだろっ! 他の接着マニアを探せ。俺はノーマルだ」
「ステーキを奢るから! 特上のを」
特上……特の上……だと?
これには心も動く。
大好物な上に、今日はまともな食事をとっていないせいで、腹も空いている。
引っ掛かる点はいくらでもあるが、一つ確かめておいた方がいいことがあった。
「俺がステーキ好きだと、知ってて提案したのか?」
「梶間尚、独身、無職。両親は事故で既に他界。物体移動能力者、特能二級。唯一の娯楽は食事と見られる。特に牛肉」
「無職って言うな。研究協力者だ」
研究対象としてこの身を提供し、特能研究に協力することで、
これだって立派な仕事だ、違うか?
二級の物体移動なんて社会に貢献できる力じゃなく、所詮、手品の亜種だ。
求人は無し、特能訓練センターの講師職も無ければ、創作活動や大道芸にも使えない。
下手に認定を受けてしまった俺には、献体しか食費を稼ぐ手段が存在しなかった。
「……いや、ちょっと待て。お前か、変態肉系ストーカーは!」
「あなたの能力は、確かにショボい」
「話聞けよ、ショボいのは確かだけどさ」
「ショボいけど、私には必要なの。そのショボい力こそ、求めていた唯一無比の特能」
「ショボいのに?」
「ショボくて何が悪いの! 物体移動なんて、世界に数例しかないショボさよ!」
「レア度に興奮するタイプか……」
任意の物体を手元に引き寄せる能力者――
二名は故人であるため、俺は世界で唯一人のアポーターだった。
そう言うとどんなに貴重な能力かと思われるが、これほど雑多な能力者が溢れる時代では、レアな特能者などいくらでもいる。
例えば俺の能力の逆、物体を手元から離れた場所へ送り込むアスポーターは、まだ一人しか見つかっていないはずだ。
絶対零度を現出させる原子静止能力。同一の能力を持つ者の力を束ねて増幅させる共鳴能力。どれも強力かつ珍しい、折り紙付きの特級能力者だった。
それらに比べ、俺が二級と判定されたのにはそれなりの理由がある。
「期待するのは勝手だけど、俺はそんな大した能力者じゃねえよ。力の強度自体が弱いんだ」
「呼べる物体に制限があるの?」
「距離だ。呼び寄せる距離が短い」
「何メートルくらい?」
「三センチ。正確には、二・八センチが限界だな」
ほら、がっかりしただろうとサヤを見遣ると、意外にもにんまり笑い返された。
「それで届く。あなたの力なら」
「……何をさせたいんだ」
「奢るわ。約束通り」
「してねえよ、約束なんて」
詳しい話は食べてからだと言う彼女へ、肉の誘惑に負けた俺は従うことにする。
西区で、いや城浜で最も人気のステーキハウス『肉太郎』――たとえ行列に並ぶことになろうが、この店以外はダメだと強く主張した。
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