第3章 再会 その4

『ヴァルサスがログアウトしました』


 チャットの表示を見つめたまま、俊介は、呆然としていた。

 ヴァルサスが示したアキラという名前。

 俊介の質問と同時にログアウトしたヴァルサスの行動。

 併せて考えると、結論は一つしかありえない。


「ヴァルサスが海藤明?」


 全てを失ったあの日を忘れられるわけがない。

 身体と心に負った深い傷は癒えてきているが、完全に治ってはいない。

 今でも走れるのなら、どれだけ遅くなってもいいから走りたい。

 オリンピックに行く事は、叶わなくてもいいから、県や市が主催する小さな大会でもいいからもう一度選手として走りたい。


 人並みに走る事すら出来ない足にした海藤明について、俊介はなるべく考えないようにしてきた。

 考えてしまうと、憎悪に憑りつかれそうで怖かった。

 折角前に進めるようになってきたのに、また家族に当たり散らしていた時期に戻ってしまわないかを恐れていた。


 けれど海藤明は、再び俊介の人生に姿を現した。

 ソウルディバイトで出会い、毎日のようにこの幻想世界で遊び、俊介に多くの知識を授け、無数の言葉を交わした人。

 直接会った事はなくとも、友人と呼べる存在になっていた。

 その後の明の事なんて考えなかったし、どうなろうと知った事ではない。そう思ってきた。


 しかし今では気になってしまっている。

 海藤明は、一体どのような数ヶ月を過ごしてきたのだろう?

 オリンピック候補の足を壊した加害者が安寧に過ごせるはずがない。

 親同士がどのような話し合いをしたのか、俊介は詳しく知らないが、哲郎と香が相手側への治療費や賠償の請求を弁護士に相談していた事は知っている。


 海藤明は、確か一人親家庭だ。

 今回の一件で、尚更肩身の狭い思いをしてきたのではないだろうか。

 俊介が明の立場だったらどうだろう。

 明の過ごしてきた数ヶ月もまた地獄だったのではないだろうか。


 ――なんで、こんなにも悩んでんだよ。


 自分に怪我をさせたやつなのだから、気にしてやる義理はないはずなのに。

 またログインするだろうか?

 それとも俊介が居るから二度とソウルディバイトはやらないのか?

 海藤明は、ヴァルサスというキャラクターになり切る事で、辛い現実から逃げている。

 もしも二度とログインしないのなら、明の逃げ場所はどこにあるのだろう?


「なんで俺があんな奴の事、考えてんだよ」


 人生の全てを奪った憎い相手のはずだ。


「そうだあいつは……」


 憎いはずだったのに。


「あいつは――」


 ――ヴァルサスは……。


「あいつは……」


 ――いい奴だった。


 演じていた、なり切っていたと言うが、チャットで交わした言葉の端々からヴァルサスの優しさを感じる事が出来た。

 明と幾度か話した時も、悪感情を抱かせる性格ではなかった。

 しかし、それ以上の印象はない。


 体育会系の俊介とゲーム好きの明。住む世界が違うと線を引いて、関わり合いを避けてきた。

 明が転校した時も溜飲が下がったというより、加害者と二度と関わらなくてよくなった安堵の方が大きかった。

 ヴァルサスではなく、海藤明ともっと話をしていれば、今更心がざわつく事はなかったのかもしれない。


『こんちは~』


 チャット欄に灯るオレンジ色の文字に、俊介は目を見張った。


 ――海藤?


 その淡い期待は、キャラネームを見て萎れていった。


「キャミーさんか……」

『おっつー。あれ? ヴァルサス居ないの?』

『今ログアウトしたよ』

『えー! 夏休みの、しかも週末に、あの廃人が!? なんだよ。今日は暇だからレアエネミー狩り付き合ってもらおうと思ったのに』


 だが俊介にとって、キャミーの存在は、唯一残された希望でもある。

 以前彼女から、ヴァルサスと個人的に親交があるという話を聞いた事があったからだ。


『あのさ、キャミーさん』

『なに?』

『キャミーさんとヴァルサスって現実でも知り合いなの?』

『そだよー。いとこなんだ』


 親戚ならば俊介と明の間に起きた事も知っているかもしれない。

 望みを託すようにキーボードを打ちこんでいく。


『じゃあこういう話聞いた事ある? ヴァルサスが同級生に怪我をさせたって』


 普段ならすぐに返信が来るところ、キャミーからの返事はなかった。

 想定していなかっただろう質問に、モニターの向こうで彼女も困惑しているはずだ。

 だから急かすような事はせず、キャミーの答えをただじっと待ち続ける。

 きっと返ってくるのは、予想している通りの文面だから。


『その話をあなたにしたの?』


 確信通りの返答に、俊介は覚悟を決めた。

 ここから先に進むと、もう引き返す事は出来ない。

 状況に任せるまま転がるしかない。

 だとしても、このまま明との繋がりを終わりにしたくなかった。


『俺がした』

『どういう意味?』

『俺が怪我した同級生なんだ』

『君が?』


 キャミーからの返信がまた途絶える。

 無理もないだろう。

 彼女の側からすれば、明に肩入れした視点で俊介見るはず。

 足を怪我した被害者とは言え、いとこの人生を変えてしまった相手。

 胸中は、穏やかではないはずだ。


『なんでこのゲームをやってるの? 偶然? それとも明がやってるって知ったから?』

『偶然だった』


 都合がいい話に聞こえるかもしれない。

 キャミーの立場からすれば、クラスメイトだった頃、明がソウルディバイトをやっていると話したのを覚えていて、復讐のために明とフレンドになった、という見方が出来なくもない。

 信じてもらえるかは分からないが、それでも俊介には、ありのままを話す以外になかった。


『本当に偶然だったんだ。偶然このゲームを始めて、偶然知り合って』


 ――友達になっていた。


『そっか。ごめんなさい。あの子があなたの人生を奪ってしまって』


 キャミーの放った謝罪の言葉に、俊介は指を竦ませた。

 明を傷付けた事を責められるのは覚悟していたが、謝られるとは思っていなかった。

 なんて返信するべきか。


「気にしないで」


 なんていうのはいかにも上から目線だし、かと言って、


「今ではなんとも思っていない」


 というのは嘘になる。

 このまま答えに窮して沈黙を貫くのはよくないが、返信を焦ると余計に語るべき言葉が分からなくなる。


『謝って許される事じゃないよね』


 そんな風に思っているわけではない。

 もう、何を言えばいいのか、考えるのを止めよう。

 思いつくままに、思うままを書けばいい。


『ごめんなさい。俺もなんて言えばいいのか、よく分かんなくて』


 分からないなら素直に分からないと答えればいい。


『そうだよね。ボルト君が一番混乱してるよね』

『ごめんなさい』

『ううん。そんな事ないよ。でも、どうして明の事、気付いたの?』

『向こうが気付いたんだ。俺が俊介だって。なんで俺がゲームを始めたのかって話をしてて俺が足を怪我した事話したら――』

『あの子が気付いたんだね。自分が怪我させた相手だって』


 逃げ場所だったはずの自分だけのお城に、ある日突然一番会いたくなかった相手が現れた。

 俊介であっても、困惑して逃げ出してしまうだろう。

 でも、このまま別れてしまってはいけない。

 二人にとって最悪だったあの日々をまた繰り返す事になってしまう。


『キャミーさん。海藤が今どこに住んでるか分かる?』

『分かるけど、どうするの?』

『会って話をする』

『でも――』

『罵倒したいとかじゃないんだ。ただちゃんと会って話がしたい』


 会って話せば、全てが解決して友達になれるなんて簡単な話ではない。

 きっと俊介も様々な感情に襲われ、もしかしたら荒い言葉を使ってしまうかもしれない。

 だが、それでもお互いに逃げ続ける事だけは、最善でないように思えた。


『俺、海藤とちゃんと話をした事がなかった。正直言ってちょっとオタクっぽくて暗いなって印象だったし、怪我してからは印象最悪だった』


 きっと今でもゲームかアニメにでも入り浸って、オタクライフを満喫しているぐらいにしか思っていなかった。


『でもヴァルサスとしてのあいつと話してたら現実でも友達になれたらいいのにって思った』


 明がどれほど後悔して罪に苛まれてきたのか、今になってようやく理解出来た。


『ゲームの中では別の人格を演じてるって言ったけど、本来のあいつも優しい奴だと思う』


 海藤明を世界中の誰よりも憎んでいるのは海藤明自身だ。


『オタクとか、俺を怪我させた奴とか、そういう部分抜きにして付き合ってみたら、俺はあいつと友達になれるんだって思ったんだ』


 自分なら明を救えるなんて、おこがましい考えは持っていない。


『だからちゃんと話をしたい。ちゃんと向き合って話をしたい。俺が怪我した時、あいつが俺から逃げたように、俺もあいつから逃げたんだ。だから今度は逃げずに話し合いたい』


 何もしないでモヤモヤするよりは、何か行動した結果、後悔したい。


『だからキャミーさん。俺を海藤に会わせてほしい』


 俊介が浮かぶ思いをひたすらに綴ると、


『分かった。今からでもいい?』


 キャミーが応えてくれる。


『うん。お願い』

『それじゃあ川端駅の東口広場に待ち合わせ。五時に』

『ありがとう』


 俊介は、VRヘッドセットを脱ぎ捨て、今の足で出せる最高速で階段を下った。

 玄関まで辿り着き靴を履いた瞬間、茶色いスチール製の玄関扉が開いて哲郎が家に入ってくる。

 慌てた我が子の様子を不審に思ったのか、哲郎の表情は訝しんでいた。


「どうした俊介?」


 海藤明に会いに行くと正直に話したら、どんな反応をするだろう。

 きっと、すんなり行かせてくれないはずだ。

 哲郎や香が明に向ける感情は、純粋培養の憎悪と嫌悪だ。

 俊介が明のために、骨を折る事を許してくれるとは思えない。


「俺、ヴァルサスの家に行ってくる」

「ヴァルサス? あのやたら強いってお前が話してたやつか?」

「そのヴァルサス」

「そいつがどうした?」


 真実は話せない。正体を伏せてその説明をしようと俊介が口を開きかけた時、先に言葉を発したのは、哲郎であった。


「実はそいつお前の女か!?」


 と、ニヤつきながら小指を立てている。


「どうでもいいだろ!!」

「女なの!?」

「母さん!?」


 リビングから血相を変えて香まで飛び出してくる。

 哲郎だけならまだ何とか丸め込める算段があったが、香まで一緒となると難関だ。

 開示する情報を精査しないと、ボロが出かねない。


「彼女とかじゃないよ。ゲームの中の友達」

「でも、俊介。お前、顔も知らない相手の家に、どうやって行くんだ?」


 哲郎の声音がいつもと違って険しい。

 父親なりに息子を案じてくれているのは分かるが、こういう時に見せる哲郎の頑固は、鉄壁の城塞だ。


「その人のいとこが連れて行ってくれるんだよ」

「じゃあ二人も、全く面識のない人間と会うのか?」

「そうだよ」

「どんな人かも分からんのに、危険じゃないか」

「ヴァルサスになんかあったみたいで心配なんだよ」

「なんかってなんだ?」

「分かんないから、気になって様子見に行くの」

「変な事件にでも、巻き込まれていたらどうするんだ? お前まで危ない目に会うかもしれないだろ」

「父さん、だからそんなに心配しないで――」

「俊ちゃん!」


 俊介と哲郎の応酬に、香が割って入った。

 二人が押し黙ると、香は俊介を見つめ、パキッとした声音で語りかけてくる。


「俊ちゃん。嘘をついてる時ぐらい分かるのよ」

「…………」

「誰の家に行ってもいいの。だけど正直に言って」


 こうなってしまうと嘘を貫けないし、嘘をついたままでは外に出してくれないだろう。

 昔の足だったら強引に振り切れたかもしれないが、今では哲郎よりも鈍足となっている。

 観念するしかない。


「海藤の家に行く」


 名前を出した瞬間、哲郎は茫然とし、香は想定通り、憎悪を隠さなかった。


「海藤って……あんたを怪我させたあの子?」

「うん」

「待って。なんでその子の家に行くの? どうして?」

「だから、あいつの事が心配なんだよ」

「あなたが心配する必要なんかないでしょ!?」


 香の悲壮な声は、カミソリのような鋭さを持って俊介に突き付けられる。

 足が竦み、動いてくれない。

 縛られたように俊介は立ち尽くすしか出来ず、香は畳み掛けるように喉を震わせた。


「あなたの人生を奪った子よ? そんな子が心配って……向こうが何か言ってきたの?」

「違うよ。そうじゃない」

「じゃあどうして?」

「だから心配なだけで」

「答えになってない!! もしかしてあの子に何かされたの? だったら母さんが!!」

「香」


 哲郎は、香の沸騰した心を宥めるように肩を撫でた。


「落ち着け。まずは俊介の話を聞こう」

「哲郎さん……」


 哲郎の判断に従う事にしたのか、香は口を噤んで俊介を見つめていた。


「俊介。何であの子の家に行こうと思ったんだ? 母さんの言う通り、嘘は分かるぞ」

「…………」

「俊介?」

「……ゲームで会ったヴァルサスってやつ、海藤だったんだ」


 ありのままを正直に、自分が感じた事を言葉にする。


「偶然だったからビックリした」


 きっとそうした方が伝わるはずだから。


「でもゲームの中で話したら結構気が合う感じで……ちゃんと話をしたいって思ったんだ。だけどあいつ俺が俺だって、大島俊介だって知った途端にログアウトしたんだ。だから直接会いに行く。ゲームの中じゃなくて現実のあいつに――」

「大丈夫なのか?」


 哲郎の表情は険しいままだったが、口調は気遣うようであった。


「お前の人生を変えた相手である事に違いはないんだぞ? お前の足を壊した原因を作った子ではあるんだぞ?」

「分かってる」


 恨んでいる気持ちが、今日になって突然消えたわけじゃない。


「直接顔を合わせたら、モヤモヤした嫌な気持ちが湧き出すかもしれないぞ?」


 そうだとしても――。


「それでも会いたいんだ。ここで会いにいかなかったら、これから先ずっと後悔し続ける事になると思うんだよ」


 やるべき事から目を背けて後悔だけはしたくない。

 以前の逃げ続けていた俊介には戻りたくない。


「行かせて。父さん」


 哲郎は、苦笑して肩をすくめた。


「お前は、言って聞く子じゃないからな……分かった。父さんも一緒に行こう」


 了承を得られ、早速行こうとした俊介の足を今度は香が止めてくる。


「あなたまで賛成するの? 私は反対よ」

「香……俺は――」

「俊介じゃない。哲郎さん。あなたあの子を微塵も恨んでないって、胸を張ってそう言える?」

「それは……」


 哲郎は、香から目を背けた。


「会っても変な気を起こさないって断言出来る? 殴りたくなったり、怒ったりしないって言える?」


 哲郎の家族への情が深いからこその心配だった。

 押し黙ってしまった哲郎を尻目に、香は俊介の両肩に手を置いて、まっすぐに見つめてくる。


「俊介。向こうだってあなたに会いたくもないし、話したくもないからゲームに来なくなったんじゃないの? あなたが会いに行く事は、あなたの自己満足じゃない? 違う?」


 反論出来ずに目を背けたくなったが、香は俊介の肩を揺らして視線を外す事を許さなかった。


「俊介。今だからこそ言えるけど、あの子の人生も変わったのよ。少し前までは、気にも留めなかったけど、怪我をさせたあの子は、加害者って言う十字架を一生背負っていくのよ」


 香の言う事は正論で、何も言い返せない。


「辛い思いをしてるはず。あなたとあの子が会うのがいい事だとは私は思わない。どちらにとってもね」


 香の言う通り、きっとこれは明の為ではなく、自己満足なのだ。だとしても、決めた以上は貫き通したい。


「母さん。俺は――」

「でもあなたは、どうせ頑固だもんね。行ってきなさい」


 一転した香の態度に、俊介は暫し困惑し、それから満面の笑みを咲かせた。


「いいの!?」

「ただし、これだけは約束して。お父さんの言う事を絶対聞く事。お父さんの判断に従う事。約束出来る?」

「うん!!」

「哲郎さん。お願いね」

「ああ。行ってくる」

「気を付けてね」


 俊介と哲郎が扉を開け放したまま、玄関から飛び出していく。

 二人を見送る香の視線は、小さな後悔と深い慈愛に満ちており、


「正しいかは分からないけど、上手く行くといいね」


 去りゆく背中に告げながら、玄関扉を閉めた。

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