第2章 ヴァルサス その2

 新しい出会いに小さな歓喜を抱きながら、ヴァルサスはVRヘッドセットを外し、海藤明という現実に戻ってきた。

 窓が目張りされ、太陽も月明かりも一切差し込まない部屋は電灯も付いておらず、光源はゲーミングPCのモニターが放つ青い光のみである。

 時刻を知る手段は、PCのカレンダー機能のみであり、今は十八時丁度だ。


 PCをスリープモードに切り替え、リモコンで電灯をつけると、真っ黒のモニターに自分の姿が写り込む。

 背は百五十五センチに満たない、自分で見ても陰気な顔立ちをした上下黒いスウェット姿の高校一年生がそこに居た。

 ヴァルサスと言う名の魔法剣士は、現実のどこにも存在していない。

 自分がヴァルサスでない事にがっかりするようになったのはいつからだろう?


「純粋にゲームを楽しんでるんだな」


 きっとボルトは、心の底からゲームを楽しんでいる。

 現実でのボルトが彼か彼女か分からないが、羨ましい限りだ。


「ご飯よ!!」


 切迫した女の金切り声が階下から響き、明の肩が跳ね上がった。

 重い足取りで部屋を出て階段を下りていく。

 リビングに入ると、席が二つだけのテーブルにビニール袋が無造作に置かれている。中身の想像はつく。コロッケや一口カツ等、スーパーで特売されている揚げ物セットだ。


「遊んでる暇あるなら夕飯の支度ぐらい手伝ってよ!」


 真珠色のスカートスーツを着た化粧の濃い女が鬱陶しげに明を見やった。

 明の母親、海藤絵里である。


「誰のせいであたしがシフト増やしたと思ってんのよ……」


 絵里は、腰まで伸ばしたライトブラウンの髪をわしわしと掻き乱して、


「ああ、もう!!」


 呼気と一緒に金切り声をひり出すと、冷蔵庫の扉を乱雑に開け、中身が三分の一ほど残ったワインボトルを掴んで一気にあおった。

 みるみると飲み干していき、からっぽになった瓶をシンクに放り込んだ。


「あたし、もう行くから食べたら洗い物ぐらいやっといてよね」


 そう言って絵里がリビングを出ると、玄関の扉が荒っぽく開閉される音が響く。

 開ける時と締める時、明の肩が怯えたように二度跳ねた。


 いつからだろう。

 母親に出す音におびえるようになったのは。


 いつからだろう。

 ゲームが娯楽ではなく、現実から逃げるための避難所となったのは。


 明は、ビニールから揚げ物の詰まったパックを取り出し、炊飯器からパックに直接米を山のように盛り、食べ始めた。

 


 




 明にとって朝は、一番憂鬱な時間だった。

 特に土日は、平日よりも気が重い。

 朝起きてまず考える事は、今日の絵里の機嫌である。

 機嫌が悪かったら一日中、何を言われるのか怯えて過ごさなければならない。

 表情と声音で絵里の機嫌がどうかを占う事が明にとってゲームに並ぶ特技であった、 


 絵里の仕事は、所謂水商売だ。

 父親は、明が七歳の頃に出て行って以来、顔を見た事がない。

 養育費を一銭も入れず、今では別の家庭があるらしいと噂で聞いた。

 世間から見れば最低の父親かもしれないが、明には父に対する憎悪は微塵もなく、あるのは同情と共感である。

 絵里のような女と一緒に居られるわけがない。

 結婚生活が七年持っただけ奇跡だろうし、母親そっくりの自分を置いていった事も理解出来る。


 海藤絵里の事を心底憎悪しているが、しかし心のどこかで希望を捨てられない。自分を愛してくれているのではと。

 そう思うのは、愛してほしいからではない。絵里に見離されたら明には、生きる術がないからだ。

 憎悪している女に頼らないと生きていけない自分の弱さに反吐が出る。

 でもここから追い出されたら、どうやって生きてゆけば良いのか分からなくなる。


 ベッドから起き上がりたくない。出来ればこのまま一生をここで過ごしたい。

 でも叶わぬ願いである事を悟り、午前十一時ごろ現実に観念してベッドから起き上がる。

 リビングに降りると、絵里がテーブルに突っ伏していた。

 ボサボサの髪とテーブルの上に投げ出された黒い合皮のハンドバックを見るに先程帰ってきたばかりで、夕方からまた仕事に行くのだろう。

 表情も声音も確認する必要はない。確かめるまでもなく今日の機嫌は最悪だ。


「おはよう……」

「…………」


 返事はない。けれど胃が空腹を訴えてくる。

 何か食べたいけれど、家には何もない。

 小遣いも既に底を付いている。


「お母さん……」


 再度呼びかけると、絵里が顔を上げ、鬱陶しそうに呟いた。


「なに?」

「お昼代……」

「はぁ?」


 絵里の声音が一層強張った。


「昨日コロッケとかカツとか二パックも買ってきたのに、あんた全部食べたの?」

「お腹……空いてて」


 明が言うや、絵里はハンドバッグを掴み、投げつけてきた。

 角が額を抉り、鈍痛が広がっていく。しかし痛みに浸る間もなく怒声が家中を木霊した。


「馬鹿か、お前は!! 昼飯代ぐらいバイトでもして稼げ!!」

「今の学校……バイト禁止で……」

「お前のせいで転校したんだろうが!! バッグ拾って来い」


 またこの命令だ。

 自分が投げ付けた物を犬へ命じるみたいに拾いに行かせる。

 拾って渡せば、また投げ付けられるだけだ。

 黙って立ち尽くしていると、


「拾って来い!!」


 再度の呼び掛けに、明は渋々バッグを拾い、絵里に手渡した。

 瞬間、バッグが投げ放たれ、顔面を打ち据えた。


「お前みたいなのが子供で恥ずかしいよ! あんたがそんな風に育ったのが、あたしのせいだって思われたらどうすんだ!!」


 愛情があってほしい。そう願ってきたが、きっとそんなもの、この人の中にはない。

 彼女が気にするのは、自分が人様からどう見られるかだ。


「首からダンボールぶら下げて、そこにこんな風に育ったのは、母親のせいじゃありませんって書いとけ!!」


 その証拠に、外出先で怒鳴られた経験は一度もない。

 人には、心優しい母親だと思って貰いたいからそう演じる。

 怒鳴りつけるのは、いつも家の中でだけ。

 幼い頃も外で悪戯をしたらやんわりと叱られるだけ。

 しかし家に帰った瞬間、豹変して手当たり次第に物を投げ付けながら怒鳴り散らす。

 悪い事をしたから叱るのではない。自分に恥をかかせたから怒るのだ。


「人様に怪我させて、あんたが今みたいにどんくさくなきゃ、あの子の足を壊す事もなかったんだ!! このバカ!!」


 そのくせ、テレビで児童虐待のニュースを見ると、決まってこう口にする。


『酷い親がいるもんだね。子供は、親を選べないからね。かわいそうに――』


 どうやら彼女の中では、我が子に物を投げ付けるのも、罵詈雑言を数時間にわたって浴びせ続けるのも虐待ではなかったらしい。


「昼飯なんか一回食べないぐらいじゃ死なないよ!!」


 絵里は、罵声と共にリビングを出て行く。

 彼女の部屋の扉が手荒く開く音がして、叩きつけるように閉める音が響き、明の肩が二度跳ねる。


 ――もうこんな人生は、ごめんだ。


 だけど死ぬ勇気は、ない。


 ――あの女、殺してやる。


 だけど、自分の人生を終わらせる勇気はない。


 ――早く事故にでもあって死んでくれればいいのに。


 突然の幸運を願うしか出来ない自分の臆病さに、明はいつも愕然とした。







 海藤明の人生は、決して順風満帆ではなかったが、それなりに充実していた。

 以前通っていた高校には、少ないながらもオタク話の出来る友達が居たし、時折数人で秋葉原へ遊びにも行った。

 勉強は人並みに出来たから教師の評判も悪くなく、クラスメイトから注目を浴びる事はなくともオタクだからといじめられたりもしなかった。


 明の人生が一変したきっかけは、ある日の体育の授業で行った徒競走だった。

 運動神経が悪いなりに、なんとか三位の位置をキープしてバトンを渡そうとした瞬間躓いてしまい、アンカーだったクラスメイトを巻き込んで転倒してしまう。

 その際、明の全体重がクラスメイトの右足首にかかり、彼は足首を故障。短距離走でオリンピック出場も夢ではないと言われた大島俊介を引退に追い込んでしまったのだ。


 学校側は、大島俊介の両親と、明と絵里を呼び出して話し合いの場を設けた。

 絵里は、土下座をして謝罪。

 明自身も、地に頭を擦り付けたが許しは得られず、裁判一歩手前まで行ってしまう。

 最終的に絵里が大島俊介の治療費やリハビリ代等、一斉を支払う形で示談となった。


 その日以来、クラスメイトや教師が明へ向ける視線が侮蔑と嫌悪に染まっていく。

 彼等の瞳は、機嫌の悪い絵里が明を見つめる時と同じ光を放っていた。

 開き直って通い続ける事も出来ず、引っ越しと転校を余儀なくされ、前住んでいた家から車で一時間の距離にある川端区で暮らす事となった。

 転校した当初はオリンピック候補の人生を壊した過去がばれて、いじめのターゲットになると心配したが、そんな事はなかった。

 季節外れの転校生である明に対する反応は無関心だった。


 いじめられもしないが、友達もいない。

 オリンピック候補を壊した一大事件の犯人は、世界に存在してないかのように扱われる。

 悪意のない無関心は、悪意を向けられるよりも脳を溶かしていく。


 学校から家に帰ると、リビングのテーブルの上にコロッケとメンチカツの入ったビニールパックが二つ置かれている。上には、『昨日は、ごめんね』と破れたメモ帳の紙にマジックインキで書かれていた。

 絵里は、気分屋だ。いつも気紛れで当たり散らし、気紛れで謝り、気紛れで溺愛した。

 どれも機嫌次第で、行動は一貫していない。

 その時々の気分で、明に対する愛情の度合いが激しく変化する。

 昔からの性質だったが事件以降、さらに極端になった。


 朝激しく罵倒したかと思えば、ころりと人が変わったように甘くなったり、朝は機嫌がよかったのに、家に帰ってくると苛立ちながら煙草をふかしているなんて、しょっちゅうだ。

 明は、コロッケの入ったパックを一つ取ってコロッケの上からてんこ盛りに米を乗せると、自分の部屋に向かった。

 パソコンの電源を入れ、VRヘッドセットを被り、視覚と聴覚を現実から遮断する。

 このゲーミングPCも、絵里の気紛れな溺愛の典型例だ。

 彼女の機嫌が良い時にねだると、駄菓子でもあるかのように、すんなりと買ってくれた。


 結局どこまで行っても明は、絵里なしに生きて行く事が出来ない。

 恨もうと、疎んじおうと、蔑もうと、彼女の庇護なしに生きていけない矛盾。

 弱い自分が何より嫌いだった。

 少しでも現実の海藤明と距離を置きたい。

 ゲームの世界でなら明は、最強の魔法剣士ヴァルサスで居られるから――。

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