息子よ、父さんとイースポーツをやらないか?
澤松那函(なはこ)
第一章 イースポーツ
第1章 イースポーツ その1
「息子よ。父さんとイースポーツをやらないか?」
うだるように蒸せる七月十七日の夜。
突如放たれた大島哲郎の提案に、整然としたリビングダイニングの中心に置かれた四人掛けの白いテーブルに付いている家族の反応は、まちまちだった。
白いシャツとデニムをゆったりと着こなしている妻の大島香は、四十代とは思えない瑞々しい顔に冷笑を張り付け、無言だった。
ダブダブになったグレーのジャージを着た長男の大島洋介は、父親譲りの能面のようにぼーっとした顔でさんまを箸でほぐしながらスマホを弄っている。
哲郎に声を掛けられた張本人である次男の大島俊介は、箸に乗せていた米粒を黒いTシャツの裾とカーキ色のハーフパンツにポロポロ零しながら、母譲りの整った面立ちを困惑させていた。
「突然どうしたの?」
俊介の訝しんだ問い掛けに、哲郎が答えるより速く、香の声が三人の鼓膜を揺らした。
「早く食べちゃいなさい。冷めるわよ」
今日のメニューであるさんまは、香の趣味である釣りで釣ってきた鮮度抜群な物だし、米はコシヒカリ。味噌汁も京都から味噌と豆腐を取り寄せている。
小鉢に使っている湯葉だって豆腐と同じ店で購入した物だ。
グルメ漫画の如く大仰に感動しろとは言わないが、訳の分からない話をしている間に冷めてしまうのは、もったいない。
哲郎は、洋介以上にのっぺりした顔立ちのせいで、妻の香ですら彼が何を考えているのか、分からない事がある。
藍色の作務衣にでっぷりとした腹を詰め込んだ成りからも、容姿端麗な香が哲郎を選んだ理由を察せる者はまず居ないだろう。
こんな哲郎だが、料理人としては確かな腕を持っており、三階建て住居の一階で経営する小料理屋『洋俊』は、ミシュランの二つ星を獲得している名店だ。
「洋介も、詐欺まがいの事なんかやめてご飯食べちゃいな」
洋介は、定職に就いておらず、出会い系のさくらや治験等で日銭を稼ぐ日々を送っている。
食費や家賃と称して毎月一万~三万円の間で金を入れているが、それ以外は全て懐に収め、趣味のゲームの購入費や課金につぎ込んでいた。
フリーターで居るにしても、せめて真っ当なバイトで稼いでほしいの親心に、
「いいだろ。家に金入れてんだから」
洋介は、何時もうこうやって開き直った。
「数百円の小銭で偉そうにしないの。まともな仕事しなさいよ」
「例えば?」
「父さんの店手伝ったら?」
「やだ。あと母さん、味噌汁の味濃すぎ。さんまは塩薄い」
「まったく舌だけは肥えてんだから厄介な子だよ」
洋介の味覚センスは、父親譲りだ。
十年に一人の逸材と、哲郎は太鼓判を押し、親馬鹿な称賛に恥じない成績で調理師学校を卒業している。
だが卒業後は、哲郎の店を手伝うでもなく、かと言って資格を活かして就職するでもない。
こうして実家に居座り、香の料理に毎日文句を垂れる事のみに優秀な舌を使う、小姑のような生活をしている。
「とにかく捕まる前にやめな」
「捕まるかよ。夢を与えてるんだよ」
「叶わない夢ほど残酷な事もないんじゃ――」
香は窺うような目付きで俊介を一瞥すると、味噌汁と一緒に言いかけた言葉を啜った。
リビングに生じる沈黙。これ幸いと、哲郎は高らかに宣言した。
「俊介! 父さんとイースポーツをやらないか!?」
再び哲郎の熱意を受け止めた俊介だったが、その反応は、香以上に冷めていた。
「なんで?」
しかし哲郎も怯まない。
「昨日テレビで見たんだよ! 身体を動かさなくても出来るスポーツなんだそうだ。俊介は、スポーツが好きだからどうかなと思ってな。いい気晴らしになるんじゃないか?」
「ならねぇよ。ゲームとか普段しねぇし」
俺に構うな。
俊介の瞳が哲郎に訴えてくる。
けれど哲郎に、退く気配は微塵もなかった。
「でも、ただ家に居るよりはいいじゃないか」
「だからやりたくないって言ってんだろ!」
俊介が激情に身を任せ、飛ぶように椅子から立ち上がった瞬間、右足に堪えがたい熱が走った。
バランスを崩し、倒れそうになった俊介を哲郎が抱き留めてくれる。
しかし助けてもらった感謝は、俊介の中になかった。
ままならない右足への苛立ちと、
「もうスポーツなんかしなくないんだよ……」
哲郎の憐れむような瞳への怒りで、感情が埋め尽くされていた。
「俺はもう、あんたが望むみたいに走れないんだよ!! オリンピックにも行けないんだ!!」
俊介は哲郎を突き放し、右足を庇いながら荒っぽい足取りでリビングから廊下へ続く木製ドアを開けた。
離れていく息子の背中を哲郎は、見つめる。
どんな言葉をかけてやればいいのか。
どうしたら少しでも元気を取り戻せるのか。
二ヶ月前から絶え間なく考え続け、ようやく掴めたきっかけも儚く消え去った。
余計に傷つけてしまったろうか?
何もしない方がまだよかったのだろうか?
それでも一つ確かなのは――。
「浅はかだな。俺は」
自分が何もしてやれない情けない父親であるという現実を受け入れるしかない事だった。
俊介は、部屋に閉じこもって深更の藍色が染みた天井を眺めていた。
哲郎の気遣いが嬉しくないわけではない。
けれど構われると、頑張らくちゃならないと思えてしまう。それが苦しかった。
百メートルを十・一七秒で走った時、オリンピックという目標が手を伸ばせば届く距離に捉えていた。
髪を撫でる風を感じて身体を包む大気の壁を切り裂いて、誰よりも誰よりも速く走る事だけを考えればいい楽な人生。
しかし最早、俊介の夢は叶わない。速く走るだけで良かった大島俊介の人生は、五月二十四日を境に永遠に変わってしまった。
きっかけは、俊介の通っている県立桐嶋高校の体育の授業で行った徒競走。
アンカーを務めていた俊介にバトンを渡す瞬間、クラスメイトが転倒。俊介の右足に倒れ掛かった。
足首の中で糸が切れた感覚の後、悍ましい痛みの奔流が迸る。
救急病院に運ばれ、医師から下された診断結果は、右足首靭帯の損傷だった。
リハビリをしても競技への復帰は、絶望的。
俊介にとっては、死刑宣告よりも恐ろしい響きとなって鼓膜にこびり付いた。
走れなくなる事は、大島俊介にとって生きる意味の消失に他ならない。
陸上に関しては、誰よりも努力をしてきた自負がある。
例えば年頃の少年が興味を抱くような、あらゆる娯楽を断ってきた。
小学生や中学生の頃、クラスメイトが当たり前に持っていたオモチャや漫画、ゲームの類を哲郎や香にねだった事はない。
そうしたものに現を抜かすと、オリンピックという夢が遠のくと分かっていたから。
しかしもう一つの理由は、ねだってはいけないと思っていたから。
陸上競技をする上で必要な資金は、ゲームや漫画の購入額の比ではない。
まずは食事だ。メニューは、全て俊介の身体づくりを考慮して香が作ってくれた。。
アスリートの資本は、身体だ。成長期に何を食べて身体を作るかは、体格で海外選手に劣る日本人選手には、重要なファクターである。
香の趣味の釣りだって、元は少しでも食費を浮かせようと始めた事だった。
香は、一言も言わなかったが、俊介も馬鹿ではない。家計のやりくりに追われていた事も俊介の世話のために、介護福祉士の仕事を棒に振って、人生を犠牲にした事を知っている。
哲郎が俊介のコーチ代やシューズ代に加え。最高のジムに通うため、どれほどの金を払ってきたかも。
哲郎は、常に一流を俊介に提供してくれた。これまでの出費は、数百万円どころではない。
ミシュランの星を持つ繁盛店の収入の殆どを俊介につぎ込んできたのだ。
俊介は、哲郎が趣味に興じている姿を見た事がないし、趣味があるのかも分からない。
洋介だって、年が離れているとは言え、生活の全てが俊介中心に回っている事に不平不満を漏らした事は一度もないし、怒鳴ったり殴られたりした記憶もなかった。
俊介のために、全てを犠牲にしてくれた大島家に出来る恩返しは、家族をオリンピックに連れて行く事だった。
それなのに、たかが体育の授業で十年の努力が無に帰した。
恩を返す機会を永久に失ってしまったのが、恥ずかしくて、もどかしくて、腹が立つ。
優しい家族に当たり散らしいる自分が何よりも嫌いなのに、口を開けば罵声ばかりが飛び出してくる。
感情の色は交じり合い、どどめ色に溶けていく。
恩を仇で返す息子の事なんて忘れてしまってほしい。
放っておいてほしい。
こんな人間に何もしてくれなくていいから、見捨ててほしかった。そして自身も何かを求めてはいけない。
いっそ迷惑になる位なら、死んでしまった方が余程家族の役に立つのではないだろうか?
「俊介」
回り続ける悪感情の円環を断ち切るように、洋介の声とノックの音が響いた。
「入るぞ」
部屋に入ってきた洋介は、電気を点けなかった。俊介がつけてほしくないのを察したからだろう。
洋介は、白い木製のドアを閉めると、そこに背を預けた。
「さっきの事だけどさ」
さすがの洋介も怒っているのだろう。
飄々とフリーターを気取っているようで、洋介は両親を尊敬している。俊介が両親に生意気な態度を取ると、よく諭されたものだ。
身構えていると、闇の中で洋介の口元に笑みが灯った。
「父さんは、お前の走る姿が好きなんじゃない。お前の笑顔が見たいんだ」
予想だにしていなかった言葉の意味を俊介は、上手く咀嚼出来なかった。
けれど洋介は、お構いなしに続ける。
「俊介さ、最後に笑ったのいつだ? 覚えてるか?」
問われて、すぐに思い出す。
「……二ヶ月とちょっと前かな。練習で高タイム出せた時」
その時は、今までで一番のタイムが出た。
オリンピックという夢にまた一歩近づけて、怖気を覚えるほどの強烈な歓喜が脳天からつま先まで打ち抜いたのを覚えている。
「覚えてるんだ?」
「うん。そりゃもちろん」
「な? 最後にいつ笑ったのか正確に覚えてるなんて、普段笑ってない証拠だ」
「あ……」
足首を故障したあの日以来、俊介は一度も笑っていない。俊介自身、それを自覚していた。
全ての事が虚無に感じたのだ。自分が最も誇れるモノを失ってしまったから。
「父さんはさ。お前にオリンピックに行ってほしかったわけじゃない。仮にお前が俺より足が遅くても良かったんだよ。父さんが見たいのは、お前が笑ったり、楽しんでる姿だ」
「楽しんでる姿……」
「俊介。もう一度好きな事を探してみたらどうだ? 好きな事しろ、が父さんの口癖だろ。あれで結構苦労してるからな」
「そうなの?」
「今の仕事が特別好きってわけじゃないんだってさ。一度だけそう聞いた事がある」
哲郎は、のほほんとした人だという印象が強くて、彼の苦悩を感じた事はない。
好きで料理人になり、好きで料理屋の店主になったのだとばかり思っていた。
「でもさ、俺たちや母さんが笑ってるの見ると、うれしそうなの見ると、そんなの吹っ飛んで頑張ろうって気になるんだって言ってたよ」
「なんだよそれ、俺初めて聞いたんだけど……」
「初めて言ったからな。他にも俺達の知らない父さんがあると思うぞ」
「兄ちゃん。例えばどんな? 教えてよ」
「さぁな?」
知りたいなら自分で確かめろ。そう言われている気がした。
「確実なのは、俊介がこの先どんな道を選んでも、それがお前にとっての幸せなら父さんも母さんも、それでいいんだ。ってほぼニートの兄貴が言ってみた。エラそうだよな」
「ううん。そんな事ないよ」
「ゲームなんて気が向いた時にやればいい。たださ、一番楽しい事が出来なくなったとしても、他の楽しいから目を背けるのは、少し臆病じゃないか?」
「うん……臆病だと、俺も思う」
「明日父さん休みだし、お前も夏休みで暇だろ。一緒にアキバ行こう。実際に体験した方がいいよ」
洋介が部屋を後にすると、俊介の五感は、再び無音の闇に抱かれた。
しかし心の内で、灯火が揺れるのを俊介は感じていた。
明日は、哲郎と話をしてみたい。ゲームには興味がないけど、そのきっかけになればいい。
俊介は、何ヶ月かぶりに抱いた希望を逃さぬように、ぎゅっと瞼を閉じた。
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