回顧録

夏目りほ

第1話

 水樹肇はゴミ捨て場で何かが動いていることに気がついた。覗いてみると、揺れていたのは真新しいルンバの箱だった。何かの拍子に電源が入ってしまったらしい。それはまるで誰かに助けを求めているかのように見えた。

「まだ働きたい」

 そんな声が聞こえてきた気がした。

 ゴミ捨て場の物を持ち帰ることは犯罪である。肇の外見でそれをして、誰かに見られてしまえば即通報される。罪を犯してまで「ゴミ」を持ち帰る理由がなかった。肇は後ろ髪を引かれながらもその場を去ろうとする。だがその瞬間、一際大きな音で箱が揺れた。

「お願い。行かないで」

「……!」

 息を飲んで振り向く。だが、そこには誰もいない。いるはずもない。もうルンバの箱も揺れてはいなかった。

 道の左右を確認する。朝焼け輝く道後の街には人っ子一人いない。連れ帰るなら今しかない。肇は素早い動きで箱を抱え、大急ぎで家路を走った。

 

 今朝の松山は二月下旬の気温に逆戻りしていた。昼になっても日差しは戻らず、学生達は春コートの襟を立てて足早に構内を行き交っている。私立松山大学文教キャンパスは、昼休みにカルフールへ向かう学生達で溢れていた。互いの息が触れそうな人波の中、肇は八号館下の駐輪場へ歩いていた。

「あ、落としましたよ」

 その時、すれ違う女子生徒のショルダーバッグから日傘が落ちた。肇は持ち前の反射神経でキャッチ。女性用の軽い日傘を壊さないように丁寧に差し出した。だが、

「あ、あ、あ」

「あの……?」

「差し上げますぅ!」

「え⁉︎」

 女子生徒は友人と一緒に脱兎の如く行ってしまった。視線で周囲に助けを求めるも、彼らはサッと顔を逸らし、他人とぶつかりながら肇から距離を取った。

 昔からそうだった。祖父譲りの人相の悪さとガタイの良さのせいで、肇はいつも恐怖の対象にされていた。本人は一切そんなつもりはないのに、周囲は肇を極悪人のように扱った。

 この傘どうしよう。持ち帰っても仕方がないし、あとで学生課にでも届けておくか。

 慣れっこではあったが、暗い気分になるのは止められない。肇だって友達と一緒に講義を受けたり、飲み会に参加したりしたい。だが、周囲がそれを許してくれなかった。もう一度溜息をついて歩き出す。すると、ポケットのスマフォが振動した。肇に連絡をくれるのは家族か、あとは一人、いや、一台しかいない。

「ルンバが助けを求めています」

 それは、肇の大学生活最後の癒し、ルンバからのヘルプだった。

 先日、肇はゴミ捨て場からルンバを拾ってきた。部屋に帰って箱を開けてみれば、本体も新品同様で、前の持ち主は何が不満でこのルンバを捨てたのか。ブラックとシルバーの機体を眺めれば眺めるほど、肇の疑問は膨らんだ。

 だが、いざ使ってみるとセンサーが故障していることがわかった。そのせいで家具にぶつかったり段差に躓いたりし、すぐ行動不能になる。放っておくと身動きが取れないままバッテリーを使い果たしてしまうので、肇が助けてあげなければならなかった。それでも準最新機種だけあって、問題が発生した場合は肇にヘルプを送ってこれるのだ。ポンコツぶりに拍車をかけている気がしないでもないが、肇にはそれが愛らしかった。物言わぬ家電だとしても、今の肇のそばにいてくれるのはルンバだけで、部屋にいる時は思わず話しかけてしまうほどだった。

 ルンバはすでに肇の家族になっている。ヘルプのメッセージを無視するわけがない。

 肇は赤い自転車を颯爽と飛ばす。愛媛大学通り過ぎ、道後商店街近くのアパートに帰り着いた。築五年のアパートの三〇五号室が肇の部屋だ。扉を開けると、

「お帰りなさいませ。ご主人様」

「……」

「お掃除になさいますか。それともお掃除になさいますか? それとも……お掃除になさいますか?」

 美しいメイドさんがいた。

「あ、すみません」

 肇は一言謝罪を呟き、ゆっくりと扉を閉めた。あれ、部屋間違えたかな。でも鍵は開いたし。

「お帰りなさいませ。ご主人様」

 そっと扉を開けてみる。変わらずメイドさんがいて、肇に向かって恭しく頭を下げている。

 再び扉を閉めた。慣れない一人暮らしに疲れが溜まっているのかと眉間をつまむ。しばらくそうして、最後にはカッと目を見開き部屋番号を確認した。

「三〇五か」

 三〇五だった。紛れもなく肇の部屋だった。え、じゃああのメイドさんは誰? 何? て言うか不法侵入じゃね? 警察呼ぶか?

「ご主人様、如何致しましたか?」

 混乱する肇だが、メイドさんにタイムは無いらしい。声は何だか機械じみており、感情というものが感じられない。特別な悪意や敵意は無さそうだが、それは逆に、メイドさんが何を思って肇の部屋に侵入しているのかを更にわからなくさせていた。 

 肇の身長は百八十八センチ。体重八十キロ。新田高校ラグビー部で鍛え上げた肉体は一種の凶器だ。もし、もしメイドさんが恐慌状態に陥って暴れてしまったら、肇も加減ができない。メイドさんに怪我をさせてしまう可能性があった。

「こうするしか、ないよな」

 コートを丸めて鞄に押し込み、左手に構えて盾にする。これでナイフくらいなら無力化できる。怪我をさせる前に取り押さえる。意を決して扉を開けた肇は、まず相手の出方を伺う。

「お帰りなさいませ」

 肇に三度お辞儀をするメイドさん。ショートカットの横髪がひらりと垂れる。

「あの、貴女はだれですか? どうして俺の部屋に……」

 できるだけ低い姿勢で、詰問にならないような声で問いかけた。

「はい。私はルンバです」

 実にシンプルな返答だった。

「……うん?」

「私、先日ご主人様に拾っていただいたルンバです。ご挨拶が遅くなり申し訳ございませんでした。どうか末長くよろしくお願いします」

「あ、ど、どうもご丁寧に。こちらこそよろしくお願いします」

 思わず流れでよろしくしてしまった。いや待てそうじゃないだろ。我に返って顔を上げた時、

 

 あ……。ホッと、した……?


 メイドさんが、胸の前で右手をギュッと握りしめた。

 肇にはそれが弱い者の仕草に見えた。謎だらけのメイドさんだったが、肇よりもずっと、何かに怯えている。彼女の様子を見て、肇は変に事を大きくすべきではないと思った。

「わかりました。お互い落ち着きましょう。どうぞ、上がってください」

「かしこまりました。どこをお掃除すれば良いですか」

「いや、掃除はしなくていいんで」

「かしこまりました。では充電モードに入ります」

「いや、だから充電ではなくてですね……あ、ちょっと!」

 僅かに目を逸らした隙に、メイドさんがコンセントのそばにちょこんと座ってしまった。黒のロングワンピースが花の蕾のように半球状に広がり、部屋の隅を陣取る。そしてそのままゆっくりと目を瞑り、動かなくなった。

 わけがわからなかったが、このままにしておけないとメイドさんの肩を揺する。だが、どんなに揺らしても起きない。肇が困り果てて立ち尽くすと、

「ビー、ビー!」

「うお⁉︎」

 突然メイドさんのティアラが赤く光った。光は三度点滅すると緑色に変化し、右から左へと流れ始めた。それは電化製品が充電をしている姿そのままだった。

 肇の心が騒つく。このメイドさんは妙に挙動や口調が機械的だし、美し過ぎる顔立ちは自然発生の限界を超えている気がする。よく見ると白い肌も皮膚というよりは陶器のようで、弾力や温かみが感じられない。良く言えば神秘的、悪く言えば非人間的だった。

「ちょっと。起きて下さい。起きて話を……ん?」

 不思議なものを見つけた。エプロンの腰からコードのような物が伸びて、コンセントと繋がっている。肇は本能でそれをぶちっと引き抜いてみた。すると、ブゥンという音でメイドさんの瞳が開いた。

「覚醒しました。では、どこをお掃除すれば良いですか」

 今の挙動、というより動作は、スマフォの充電器を途中で抜いた時と全く同じだった。このメイドさんは本当にコンセントに繋がって、電力を充電していた。

 それにさっきから薄々気がついているのだが、ルンバがいない。肇にヘルプを求めてきたルンバが、どこにもいないのだ。ルンバがいなくなった代わりに、メイドさんが現れた。これはいよいよ逃げ道がない。肇は最後の手段に踏み切る。

「なら君がルンバだって言う証拠を見せてくれないか?」

「かしこまりました」

 メイドさんは子供のようにこくりと頷くと、ボフン! という音と同時に肇の前から消えた。その代わりに、足元で見知ったルンバが動いていた。ルンバは回転しながらいつも通り掃除を開始している。ランダムに室内を動き回るように設定されているルンバは、何故か玄関へと進んで行き、そして上がり框からタタキへと落下した。センサーが壊れているのだ。

「ルンバが助けを求めています」

 スマフォにメッセージが届いたのを見て、肇は強い目眩に襲われた。しばらく頭を抱えて蹲っていたが、ひとまずはルンバを救出するために立ち上がった。

 

 メイドさんが現れてからというもの、肇の生活は今まで以上に息苦しいものとなっていた。一般市民の肇は「ご主人様」などと呼ばれても慣れようがなく、身体が痒くなってしまう。

 また、白いエプロン、黒のロングワンピースという古風なメイド服を纏っているルンバは、非常に場所を取る。申し訳ないが、はっきり言って邪魔だった。

「ご主人様。お部屋のお掃除が終わりました」

「あ、あぁ、ありがとう」

「次はどこをお掃除すれば良いですか」

「いや、もう掃除するとこないから、充電してていいよ」

「かしこまりました」

 それなのに、ルンバは何故かこうして人型でいようとし、常にどこかしらを掃除しようとする。いつも視界の中でメイドさんがウロウロしているせいで、部屋にいても全然気が休まらない。非現実的で得体の知れない者との共同生活は肇に猛烈なストレスを与えていた。

 このメイドさん、ルンバをどうしたらいいか。肇の思考はそればかりに囚われ、友人がいないとか講義がつまらないとか、現実的な問題に目が向かなくなっていた。大学生活は自分から行動していないと上手くいかなくなる。肇は早くも崖っぷちに立たされていた。

 とある昼休み、肇は二号館前の噴水の淵でげっそりと項垂れていた。噴水は生徒たちの憩いの場だが、肇に怯えて誰も近づいてこない。彼らの中では肇は暴力団の幹部ということになっている。酷い話だが、水面に映る自分の顔を見ると、そう思われても仕方ない気もする。

 深い溜息をつく。それだけで人波が遠くなっていく。

 その時、ザワッという音が聞こえてきそうなほど、生徒達の関心が一箇所に集まった。そこには、一人だけ色が変わったみたいな雰囲気を放つ男がいた。

「あれが、夏目先輩……」

 友人がいない肇でも、一目でわかった。二号館の階段を下りてきているのは、学内きっての有名人にして奇人、夏目懐先輩だった。彼のトレードマークは真っ赤な着物と高下駄に、季節外れのモッズコートとマフラー。誰もが二度見する奇抜な格好で構内を闊歩する姿は、誰が見ても常人ではない。伝説の八回生でもあり、松山大学のみならず、愛媛大学でもその名を轟かせている。

 肇は憧憬にも似た気持ちで夏目先輩を見る。きっとあの人は秤に載らないほどメンタルが強いのだろう。だから周囲から冷たい目で見られても、あんなにも堂々としていられるのだ。それは肇には天地がひっくり返ってもできないことだった。

 羨んでいても仕方ない。そう思って立ち上がった時、ふと綺麗な女子生徒と目が合った。肇は驚いて目を逸らしたが、女子生徒はずっと肇を見ている。ジロジロ見られることはよくあることだったが、こんなに堂々と面と向かって見つめられるのは初めてだった。

 なんだか嫌な予感がして、肇はその場から離れた。宗教の勧誘と似た視線を感じた。女子生徒に背を向け、駐輪場へと向かう。だが、肇はある事に気づいて振り返った。

「あの人も、着物だったな」

 件の夏目先輩とは違い、女子生徒は菜の花色の着物を実にお洒落に着こなしていた。二人に繋がりを感じてしまう。あんな奇怪な人物と見目麗しい乙女に繋がりなどあるわけがない、あってはならないとも思うが、肇は妙に引っかかって仕方がなかった。自宅に帰り着くまでの道、肇はずっとそればかりを考えていた。 

「ただいま」

 何とも複雑な気持ちで「ただいま」を言う。だが、今日はルンバの出迎えがなかった。充電中なのかと思って部屋の奥を見てみると、

「あ……」

 電子レンジの前で棒立ちになっているルンバと目が合った。先程の着物の女子生徒とは違い、今度は目を逸らせない。いつも無表情の彼女が、一目でわかるくらい茫然自失していたのだ。立ち尽くしている、としか表現しようのない状態だった。

「あ、こ、これは、その……」

 激しい動揺が見て取れる。肇も次第にその理由がわかってきた。

「電子レンジが、爆発したのか」

 電子レンジの中が、黄色と白の焦げ跡でベトベトになっている。この感じからして、卵だ。

 冷蔵庫の中を確認してみれば、卵が全てなくなっている。まず間違いないだろう。だが、わからないのがルンバの行動である。彼女は肇の部屋では掃除しかしていない。ルンバなのだから当然だ。それがどうしていきなり料理をしようと思ったのか。 

「あれ、洗濯物……」

 それだけではなかった。洗濯物が取り込まれ、ベッドの上に畳まれていた。だが、どれも恐ろしく不恰好で、シワになったり生地が傷んだりしてしまう畳み方だ。

「家事をしようとしたのか?」

「……はい」

「なんでまた」

「も、も、も……申し訳、ございません」

「いや、まぁ、怒ってはないんだけどさ」

 嘘でも遠慮でもない正直な気持ちである。それよりも、

「本当に、申し訳ございません、でした」

「う、うん。あのさ、洗濯物は俺が自分でするからさ。あと、電子レンジは、まぁ使い方に気をつけてくれよ。君にまで被害が出ることもあるんだから」 

 肇はルンバの怯え方が気になった。深々と頭を下げる彼女の肩が小刻みに震えている。怒られるのが嫌なだけなら、ここまでの怯え方はしない。まるで命の瀬戸際みたいな雰囲気だった。 恐がられたり、怯えられたりするのは肇にはよくあることだ。だが、相手をそういう気持ちにさせてしまうことは、いつも申し訳なく思っている。だからこそ、わかる。このルンバは肇の外見に恐怖しているのではない。

「とりあえず、一緒に掃除しようか。悪いんだけど、布巾を持ってきてくれないか」

「か、かしこまりました!」

 恐がられるのは仕方がない。だが、恐がっているのなら助けてあげたい。どんなに怯えられようと、距離を置かれようと、肇はそうやって生きてきた。

「あの! こちらでよろしかっ、ああ!」 

 ルンバが推定年齢三十歳のちゃぶ台に脚を取られてコケた。

「大丈夫か? どこか故障してないか?」

「大丈夫、です。問題ありません」

 危なっかしい手つきで電子レンジを掃除しているルンバ。不器用なのか要領が悪いのか、このまま彼女一人にやらせておけば半日はかかりそうで、肇は横からそっと手を貸す。

 ルンバは肇と一緒にいてくれるただ一人の存在だ。この子が怯えているのなら、それを取り去ってあげたいと、肇は思うのだった。

 

 卵爆発事件以来、ルンバが電子レンジに近づくことはなくなった。だが、家事を止めようともしなかった。肇がいない間に洗濯物を取り込んだり、簡単な料理を作ろうとしたり。充電モードに入る回数や時間が極端に減っている。何を思ってそんなにも働こうとしているのか、肇にはよくわからない。ただ一つ確かなのは、それがあまり肇の役に立っていないことだった。洗濯物を取り込めばベランダから外に落とすし、料理をすれば食材の半分をダメにしてしまう。どれもこれも上手くできているとは言えず、むしろいらん手間を増やされるばかりだった。

 だが、そんな幼稚園児レベルの家事でも、肇は怒ることはできなかった。失敗しかしなくとも、一生懸命に肇の役に立とうとする姿勢は真摯であり、ルンバの愛情のようなものが感じられたからだ。それに、さすがはルンバだけあって、掃除に関しては徐々に手順やコツを覚えてきている。初期の頃、ルンバである彼女は風呂掃除や窓拭きなど、立体、複雑な場所は上手く掃除できなかった。それでも最近は窓に傷をつけることも、風呂場を水浸しにすることもなくなった。少しずつではあるが成長の兆しを見せている。

「ご主人様。お風呂のお掃除が終わりました」

 たくし上げていた袖やスカートの裾を直しながら、ルンバが報告してきた。

「あぁ、ありがとう。蛇口はちゃんと閉めたか?」

「あ」

「……」

「し、閉めてきます」

 まだまだ詰めが甘いんだな。掃除してくれるのは嬉しいし助かる。だが、蛇口の閉め忘れは恐い。その辺を考えると、やっぱり肇が自分でやった方が早かった。また、ルンバが人型になってからの方が、機械だった時よりも会話が減っていた。おかしな話だが、人型のルンバは業務連絡ばかりで、昔のように肇の何気ない独り言や愚痴を聞いてくれない。肇が話さなくなった部分もあるが、話しにくいのも事実だ。

 悩みの種がどんどん増えていき、肇の頭を茹で上がらせる。少し清涼感を取り戻そうと、冷蔵庫から苺のパックを取り出した。砂糖でもまぶして食べようと思って水洗いしていると、

「……」

 ルンバがこっちを見ていた。いつもせこせこと仕事を探し回って視線を動かしている彼女が、ジッと苺を凝視している。

「食べるか?」

「いいんですか?」

「俺が聞きたい」

 機械が苺を食べるわけがない。だが、今は人型だ。

「まぁ、ルンバだしいけるか」

 ダストに放り込むようなものだろう。それだと食材を捨てるのと同じだが、

「……」

 なんかスゲェ欲しそうにしてるし。

「ほら」

 苺の皿を差し出すと、ルンバは恐る恐る手を伸ばし、そこで慌てて手袋を外して素手で一つ掴んだ。ごくりと喉を鳴らす。あ、喉があるのか、という発見。

「あむ」

 食べた。すると、

「ふわぁ〜〜!」

 白かった肌にぱぁっと赤みがさした。一番星を見つけた子供のように瞳が煌めく。

「回路が蕩けて……。モーターが弾けて……!」

 その感覚は人間には絶対わからないものだが、とりあえず幸せそうなのは伝わってきた。

「おぉ。ならもっと食え!」

「いただきます!」 

 ふわりとルンバが笑う。

「あ……」

 次の苺にかぶりつこうとするルンバの頬が緩んでいる。ロボットが笑っている。プログラミングではない、自然な笑顔で。ルンバが初めて見せた表情は、桜が咲くよりも晴れやかで、たんぽぽの綿毛が飛ぶよりも微笑ましかった。

 だが、そんな風の揺り籠のような時間に浸っている暇はなかった。三コマ目の講義が十五分後に迫っている。

「うわ、やべ! 大学行ってくる! それ全部食べて良いから! なんかあったらメッセくれ!」

「ふぁい。いっひぇらっひゃいまへ!」

「行ってきます!」

 自転車に飛び乗り、立ち漕ぎで大学へ向かう。

「は、はは!」

 胸がムズムズして、笑いが溢れてきた。

「なんだ、笑うじゃん!」

 肇はペダルを漕ぎまくる。信号のない一本道はどこまでも加速できそうで、八号館下の駐輪場に一瞬で到着してしまった。鼓動が耳に聞こえてくる。必死で息を整えていると、

「ねぇ、君!」

「……え?」

 背後から肩を掴まれた。振り返ると同時にこめかみを汗が伝う。

「やっと見つけた!」

 それは、かつて目が合った着物の女子生徒だった。今日は藤色の着物に薄黄の帯を合わせた涼しげな装いだ。一生懸命に背伸びをして肇の肩を掴んでいる。

「あの、な、何かご用っすか?」

 女子生徒からは快活そうな印象と同時に、大人っぽい空気も感じられる。初対面ということもあって、肇は無難な敬語で対応した。

「やっぱりそう! いやー見つかって良かったよ! 一年ぶりの新入部員やね」

「え? あ、いや、話が全然見えないんすけど……」

「あーそっかそっか。いきなりこんなん言われてもわからんよね。まぁ、一言で言うとやね」

 女子生徒は癖のある伊予弁で話しかけてくる。彼女の瞳は例の宗教団体の構成員と全く同じだった。危険を感じた肇は急いでその場を離れようとする。が、女子生徒の次の一言で停止さぜるを得なかった。

「家電が人型になったやろ?」

「……っ⁉︎ どうして、それを……!」

「まぁ、ね。ほら、付いてきて。君の知りたいこと、全部教えてあげるけん」

 女子生徒は嬉しそうに笑っている。その姿はルンバの笑顔と重なった。だからだろうか、どうしても尋ねてしまう。

「あ、あの。俺のこと、怖くないんすか?」

「んー? 怖ないよ。どうして?」

「いや、だって俺、こんな見た目だし」

「あはは。何言うとんよ」

 女子生徒は言う。

「物を大事にする人が、悪人なわけないやろ。ほら、心配せんと付いてき」

 そんなことを、こんな笑顔で言われたのは初めてだった。

 肇の本能は、この女子生徒に付いて行ってはならないと告げている。何か、途轍もなく面倒なことに巻き込まれそうな、予感というより確信めいたものがあった。 

 だが、肇はこの女子生徒に付いていくべきだとも思った。ルンバの笑顔に出会えたその日に、全てを知っているという女性が現れた。きっと道が拓けたということなのだ。大学生活数週間目、肇はやっと前向きな一歩を踏み出した。

 

 松山大学文京キャンパスから数キロ離れた場所に、御幸キャンパスという施設がある。建物は山の斜面を利用して階段状に造られており、十層からなる各階には体育館や武道館、トレーニングルームなどが設置されている。その他にもサッカーグラウンドやテニスコート、五○メートルプールなども併設され、ここに来れば大体のスポーツが楽しめる。また、四、五、六、七階は体育会系、文化系関係なく各部の部室棟になっていた。肇が女子生徒に連れてこられたのは、そこの七階の端の小さな部屋、「家電サークル」の部室だった。

 麗しき着物の女子生徒、笹原雪子はここの会員だと言う。

「ようこそ新人君! 我が家電サークル『回顧録』へ!」

「いや、入るとは言ってませんけど」

 扉の前でバッと両手を広げる笹原先輩をやんわり制す。初対面で自分を恐がらない女性は初めてだったが、怪しむことは忘れていない。いつまでも幸せに浸っている程、肇は呑気ではない。だが、そんな警戒をブチ破る高笑いが部室から響いてきた。

「クハハハハ! 逞しき肉体の電導士よ、残念ながらそれは不可能ですぞ! 君はすでに電導協会の名簿に登録されている!」  

 笑い声だというのに不気味な粘着性を持っていて、肇の二の腕に鳥肌を立たせた。笹原先輩も十分怪しいが、それとは段違いで怪しい声質。

「さぁ笹原君! 親愛と情熱の扉をいざ開きたまえ!」

 早く逃げなくては。肇は一歩後退する。ラグビーで鍛えた俊足を発揮するのは今だ。だかしかし、肇が駆け出すよりも早く扉は開かれ、中にいる人物と対面してしまった。 

「初めまして! そして墓場までこんにちは! ここは家電サークル回顧録! 共に歓喜しよう! 七十年の歴史と伝統、格式を誇るサークルに今日、君の名が刻まれた!」

 救急車よりも赤い着物に高下駄、そしてモッズコートとマフラー。松山大学絶対に関わっていけない人物ランキングで肇とデッドヒートを繰り広げる男。

「友よいざ行かん! 僕の名前は夏目懐! 回顧録二十三代目会長!」 

 松山大学きっての変人、夏目懐先輩が横ピースでウィンクしていた。他人の行動だというのに、肇は耳が赤くなるほど恥ずかしくなった。

 笹原先輩の親しげな態度で、もしかしたら自分の大学生活が様変わりするかもしれない。無邪気な肇は数分前までそんなことを思っていた。だが、そんなものは存在しなかった。

「ゲホッ、ガボッ! 一年ぶりの新人にらしくもなく興奮してしまったようだ。喉が痛む」

「もー。会長体力ないんやから、あんまハシャガとってよ」

 名高い変人と綺麗な先輩が仲良く会話をしている光景は網膜に悪かった。

「遠慮せず座ってくれたまえ。君の体躯だと少々手狭かもしれないが、席は用意してある」

 ほらほらどうぞ、と椅子をすすめられるが、全く座る気になれない。三角形の頂点の位置に夏目先輩、笹原先輩、そして肇の椅子がある。間に机などの緩衝材はなく、互いに手が届くほど近い。肇のパーソナリティースペースをこれでもかと侵略してくる距離感だった。そもそも部室が狭い。部屋中に大きな段ボールが積まれていて、壁や天井が見えないのだ。

「遠慮せんと。ほらどーぞ!」

 最後の抵抗とばかりに直立していた肇だったが、笹原先輩に肩を抑えられると呆気なく敗北した。男は美人に弱い。

「さぁ、まずは早速、君の身に起こっている出来事について説明しよう。君の家に出現している人型の家電、我々の業界では彼らを電士と呼んでいる」

「で、んし……」

「左様。彼らは一種の付喪神のようなものだ。持ち主から深い愛情を持って扱われた時、その恩返しをしようと人型になる。つまり、君が家電を大事に想う心が伝わったのだよ。これについては家電サークルの会長として強くお礼を言いたい。家電を大切にしてくれてどうもありがとう! ブラボォー!」

 パチパチと拍手された。

「電士は我々にとって良き隣人であり、愛すべき友だ。彼らにとっての我々もまた然り。だから何も不安に思うことはないぞ。これまで通り、君と家電の絆はマックスだ」

 夏目先輩が歯をキラリと光らせてサムズアップする。非常にウザい仕草だった。

「さて、まぁ概要はこんなものだな」 

 雑過ぎる説明だったが、笹原先輩も解説を入れてはくれなかった。

「では水樹君。何か質問はあるかね。何でも構わない。僕の胸に飛び込む気持ちでぶつけてくれたまえ」 

 こんな説明では肇は状況理解すらできていない。むしろわからないことが増えた。肇の脳内ではもうもうとした桃色の霧が立ち込め、上手く言葉が出てこない。何を聞けばいいのか。そもそも自分は何を知りたいのか。迷い迷って混乱した結果、肇の口から出てきたのは、

「ルンバとの接し方がよくわからなくて、困ってます」 

 という非常に人間的で平凡な質問だった。電士がどうとか家電サークルがどうとかは今は横に置いておく。ルンバのあの笑顔を見たことで、肇の中で欲が出てきた。彼女に心があるのなら、通じ合いたい。だが、そのためにはまず、ここ数日のルンバの怯えた必死さ。その理由を知らなければならない。

「ふむ。君の電士はルンバなのか」

「え、知らないんですか」

「そりゃあ、もちのロンさ。協会の名簿に載るのは君の名前だけだからね」

「な、なんすかそれ。普通におかしいでしょ。どういう理屈でそんなことになってるんすか」

「電士の顕現にはエネルギーが発生するんよ。エネルギーは電士から持ち主である君に流れ込む。そしたら電導協会の名簿がパッと光るんよ」 

「なんで説明されてるのに謎が深まるんだ……」

「そこから我々の所に君の情報が届き、こうして笹原君が君を見つけ出したということさ」

 肇の名前だけでは飽きたず、外見や住所、通っている大学まで公開されたということだった。

「安心したまえ。公開先は全国の大学に点在する約七百の家電サークルだけさ。人数で言えば三千人程度。我が松山大学在学生の半分だ」

 協会があるのだからそれなりの規模だとは思っていたが、まさか日本全国にあるとは思わなかった。こんなに特殊な存在はもっと閉鎖的で少数的な集まりな気がしていたのだ。

「余談はここまでにして、ふむ、電士との接し方か。電導士永遠の命題に早速メスを入れてくるとは、期待の新人ぶりだな。水樹君には十点加点だ。百点になるとイオンの商品券二千円分が貰えるから、ぜひ頑張ってくれたまえ」

 不覚にも家電サークルってちょっと良いな、と思ってしまった瞬間だった。こういう小さな積み重ねが取り返しの付かない事態に発展していくのだが、肇は気づいていない。

「僕個人は、電士は友であり我が子だ。あまり難しいことは考えたことがないな」

「うちは、弟て感じかな。正直、うちはウチの子を使うことってほぼ無いし」

「子供……? いや、でもうちのルンバは俺とおんなじくらいの外見ですし」

「ふむ。水樹君の電士はどんな子なのかな。詳しく教えてくれないか」

「え、電士って性格違うんですか?」

「おおっと! これは大きな誤解があったようだ! 誤解を生むような説明をしてしまったとは、僕の落ち度だな。僕は五点減点だ」

「会長、これで通算マイナス二千四百五十点やね。ドMなんは別に勝手やけど、サークル総ポイントに関わってくるんやから、もうちょい自重してや」

「自分に点数をつけるのは難しくてね。減らす方が簡単なのだよ」

「話戻してもらっていいすか」

 この二人のペースに任せていれば陽が落ちるどころか昇りそうだ。

「家電と一口に言っても、形態や用途は様々だ。外見や目的が違えば性格に個性が出るのは当然だろう? 水樹君の電士はどんな性格なのかな? 外見でも構わないよ」

「外見は……何というか、その、メイ……ドです」 

「りぁりー⁉︎ それはワンダフルじゃないか!」

 夏目先輩大興奮。

「なんでか料理とか洗濯とかもやろうとして……。それに、機械だった頃からセンサーが壊れていたみたいで、よく物にぶつかったりコケたりしますし」

「……?」

「あと、なんだかスゲェ怯えてビクビクしている感じがして……。それが一番接し辛いというか……ん、どうかしました?」

 先程まで死ぬほど五月蝿くてウザかった夏目先輩が、唐突に黙りこんだ。右手で口と顎を隠して物思いにふける姿は不思議と賢そうに見える。その仕草の直後に発した声も、今までとは違って低く重みのある音程だった。

「色々気になる点はあるが、元からセンサーが壊れていたという部分がわからないな。不良品だったということかい?」

「あ、いや、俺が買ったんじゃなく、その、ゴミ捨て場から拾ってきて……」

「……なるほど、そう来たか。少し見えてきたよ」

 夏目先輩は静かに呟いた。だが、それ以上は何も言わなくなってしまった。わかったのなら早くそれを教えて欲しい。そう思った肇がもう一度聞き直そうとした時、

「ぃよし! では出発しようか!」 

「え、ちょっと!」

 夏目先輩が勢いよく膝を叩いた。このタイミングでどこに行こうというのか。

「さぁ水樹君。漢と漢の盃を交わそうぞ!」

「会長の奢りで飲み会するんよ。君の歓迎会や!」

「くはははは! ステキな夜になりそうだ! 大丈夫! 度数三パーセント以上の物は出さないさ! 僕が飲めないからね!」

 厄介な人達に捕まってしまったらしい。マイペース過ぎて付いていけない。だが、肇はこの二人を嫌いにはなれなかった。肇の外見を恐ることなく、普通に接してくれた二人は肇には得難い人間だ。そして何より、夏目先輩も笹原先輩も、物を大切に扱う人だとわかったからだ。

 

 肇の歓迎会は大街道の飲み屋街ではなく、夏目先輩の自宅で開催されるらしい。なんと夏目先輩の自宅は、御幸キャンパスのすぐ裏手、ロシア兵墓地の真横にあるのだ。

「さぁ到着だ。ようこそ我が城、ふれあいコーポへ」

「……」

 夏目先輩が指差す建物の異様さに、肇はただただ絶句した。二階建てのアパートは、廃墟同然のボロ屋だった。ロシア兵墓地は街の人の協力で常に美しく保たれている。こんな建物が近くにあったら景観を著しく損ねるのではないか。

「一階は全て空き部屋だ。安心して乱痴気騒ぎを起こせるぞ」

「でしょうね。いや、起こしませんけど」

 こんな幽霊屋敷に住む一般人がいるとは思えない。いるとしたら夏目先輩のような変人だけだ。外階段は一歩上る度に耳障りな音を立て、錆びた手すりは掴んだら危ないほどボロボロだ。身体の大きな肇は冷や冷やしながら先輩二人の背中を追う。

「おっと。鍵が壊れているな。あははは」 

「ボロやからね。しゃーないね。あははは」

 何故か楽しそうに笑っている。今鍵が壊れていることに気づいたというのは、事件性すらあるはずなのに、この人達は笑っている。多分頭のネジが緩んでいるのだ。

「ただいま。さぁ、ようこそようこそ」

「お、お邪魔します」

 迷宮に乗り込む覚悟で玄関をくぐった。中はどんな魔窟なのかと警戒する。玄関は意外と綺麗だったが、その先がどうかはまだわからない。上がってすぐの扉を夏目先輩が開いた。

「えぇ⁉︎」

 そこには、アパートの外観からは想像できないほど清潔で整頓された1LDKが広がっていた。予想の遥か上を行く事態に、肇はらしくもなく声を上げてしまった。銀色のオープンキッチンには様々な調理道具が吊るされ、シンクには錆どころか水垢一つない。さらに、十畳のダイニングには薄緑色の三人がけソファーと4K液晶テレビが堂々とした態度で部屋の一画を占拠している。それはまさしく、大学生活をエンジョイしている人間の部屋だった。

「会長は見た目は終わっとるけど、中身は綺麗好きやからな。ばり意外やろ?」

「くはははは! 笹原君、それは褒めてるのかな?」

「ははは! さぁお酒飲も! お酒お酒!」

「笹原君はすでにアルコールしか見えていないようだな。水樹君もほら、この『人を駄目にするクッション』を使いたまえ。これさえあれば現世の面倒事の全てがどうでもよくなるぞ」

 夏目先輩がこんな風になってしまった原因はこいつか。肇は手渡されたフワフワなクッションをそっと傍に置いた。

 水樹肇、笹原雪子、夏目懐。年齢は違えど、同じ松山大学に籍を置く三人の男女が丸いローテーブルを囲んだ。着物姿の二人に挟まれて酒を飲むという状況はあまりに新鮮で、まだ一口も飲んでいないというのに肇の体温は上がった。

「では改めて、ようこそ水樹君! 我々は君を心より歓迎するよ!」

「あ、ありがとうございます」

 サークルに入るとは一言も言っていないが、もう立ち止まれなかった。

「では、乾杯!」

 いつの間にか用意されていた三つのビールジョッキが涼しげな音を上げた。 

「でさぁでさぁ、水樹君の電士ってメイドなんやろぉ? もしかしてそういう趣味ぃ?」

「ちょ、笹原先輩近い!」

 飲み会が始まって十五分。紅一点の笹原先輩はすでにベロンベロンだった。アルコールに白い頬や首筋を火照らせ、艶っぽくなった瞳で肇の顔を覗き込んでくる。

「くははは! 笹原君はなかなかの酒豪だかすぐに酔う。公共交通機関が大の苦手なのさ」

「酔いやすいの意味違わないすか!」

「だが、潰してオイタしようなどとは思わないことだ。笹原君はこう見えて柔道二段、合気道初段の猛者だ。非力な手弱女だと思っていると地獄への片道切符が十枚手に入る」

「あははー。素人に技かけたりせんよー」

 肇は笹原先輩からも距離を置いた。人をダメにするクッションと別の意味で人をダメにする笹原先輩に挟まれて完全に逃げ場がない。堕ちるか落とされるか。

 ここでビール瓶が空になっているのに気がついた。追加を先輩に取りに行かせるわけにはいかない。夏目先輩に断ってキッチンに行こうとし、

「間に合ってるわ」

 小学生くらいの女の子に通せんぼされた。白い着物に薄い青の帯の少女は、二本のビール瓶を両手に持っている。青い髪と瞳。その両方が不機嫌な空気を放っている。

「冷子ちゃん、こっちこっちー!」

「もう。飲み過ぎてゲロしないでよ」

 冷子と呼ばれた少女は、大人びた動作で肩をすくめる。少女が肇の横を通り抜けた瞬間、

「っ⁉︎」

 凍りつきそうなほどの寒気を感じた。肇の吐息が白くなり指先がかじかむ。

「あ、あの……」

 肇はすでにあの少女が電士であることは感じ取っている。美人である笹原先輩よりも遥かに整った造形に、渦を巻くような冷気。それはルンバと同じ、人ならざる者の気配だ。だが、ルンバと大きく違うのが、少女には歴戦の猛者の風格があること。日本刀のような強烈な存在感と怖気を、この少女は発していた。

「おぉ、まだ水樹君に紹介していなかったね。これは失礼。仲間の紹介を忘れるなんて、僕はダメな会長だな。五点減だ!」

「いよっ! 減点ドM男!」

 笹原先輩が意味不明の合いの手を入れる。

「この子は冷子君。冷蔵庫の電士だ」

「冷蔵庫……」

「食材の鮮度を保つこと、食品を冷やすことにおいては他の追随を許さない家電さ。ちなみに得意技は空気を凍らせること。僕と笹原君は絶対零度言動と呼んでいる」

 改めて少女に目を向ける。絵物語の雪女のようだとも思えた。全体的に色素が薄い。

「ジロジロ見るな。凍らせるぞ」

 そして態度が途轍もなく冷たい。肇のことをゴミを見る目で見ていた。

「デカイ割りになんだか頼りなさそうね」

 冷子はふん、と鼻を鳴らす。この時もブリザードのような冷気が肇を襲った。

「悪く思わないでくれ。冷子君は誰に対しても霜対応なんだ」

「でも勘違いしたらいかんよ。冷子ちゃんはツンギラやから。常にツンツンギラギラしとるから」

「ワケわかんない造語で呼ばないで」

 冷子が缶チューハイを笹原先輩に投げつける。笹原先輩はそれをほとんどノールックでキャッチ。プシュ、とプルトップを親指で上げた。ここの女子達の凄まじさを垣間見た気がした。常人の集まりだとは思っていなかったが、変な人達どころの騒ぎじゃないかもしれない。

「ふんっ。そんな様子じゃ、協会は学費出してくれないわね」

「学費?」

「電士が顕現できるのは、電導士が大学に在学している間だけなのさ。不思議なことにね」

「夏目みたいな優秀な電導士には協会が留年の費用を払うのよ」

「やからぁ、水樹くんもメイドちゃんと長く居りたいんなら、留年するしかないよぉ」

「ま、マジか……」

 最長で八年。それが長いのか短いのか、肇には判断できない。家電は種類によっては何十年も使い続けられるが、ルンバはその類に入らないだろう。持って数年。だとすると、肇が留年する意味などない。

 だが、まだ出逢って間もないのに、こうもはっきりと別離の時を知らされるのは、言い知れぬ虚無感があった。それが物に対する感情の域を越えていることも、肇の心を締め付ける。家電なら数年で壊れたり捨てたりするのは仕方ない。どんなに大事に扱ってきても、動かしているのだからいつかは動かなくなる。だが、それが家族ならば、そんな割り切り方ができるわけがない。

「家電が電士になった時点で、人と物の関係は崩れ始める。だから、水樹君には色々と知ってもらわなくてはならないのさ」

「な、何をすか」

「ずばり、交流戦だ」

 笹原先輩が杯を置いた。酒に頬を赤くしながらも、真剣な表情で顎を引く。

「交流戦とは、我々松山大学家電サークル回顧録と、愛媛大学家電サークル『雷媛』が行う旗取り合戦。互いの電士を使って戦うスポーツだ」

「電士で、戦う?」

「毎月第一、第三金曜の深夜二時から一時間行われる。これの成績に応じて、正月に東京で開催される家電一武道会に出場できる」

「すみません。真面目に言っているのはわかるのですが、真面目に捉えるのが難しいです」

 隣で笹原先輩が日本酒の瓶を開けた。米の匂いが室内に漂い、肇の脳をクラクラさせる。

「あの、俺もそれに参加しないといけないんすか?」

「モチのロンだ。これは電導士と電士の連携を高める意味もある。家電サークルにいる以上、参戦は義務であり、強制力が発動される」

「わかりました。なら辞めます」

 キッパリ言った。冷子が目を見開く。今日、先輩と電士の個性にたじろんでばかりだった肇が、強い口調と視線で前を見つめる。

「家電は物ですけど、武器じゃない」 

 家電は日常生活を豊かにするためのものであり、誰かと競うものではない。

「……ぶぉー」

「え?」

 俯く夏目先輩が何か言った。そして叫んだ。

「ブラブォー‼︎ 素晴らしい! その通りだ! 大学生活最後の後輩がこんなにエクセレントだなんて、僕はなんて幸せ者なんだ! 五十点減点だ!」

「ナゼ減点⁉︎」

「いよっ! 変態ドM野郎!」

 合いの手を入れる笹原先輩もとにかく嬉しそうだった。

「水樹君の言う通りだ。家電はスポーツ用品ではない。ましてや武器なんてとんでもない。だが、本当に、本当に残念なことに、そうは思わない連中がいる。人型の家電という一般人にはよくわからない力を使って悪さをする者がいるのだよ」

「電士によっては小型戦車並みの戦力を持っとる子らもおるんよ。そう言う子が、持ち主の悪意のままに動かされたらどうなる? 世の中大混乱や。そう言う阿呆をしばき倒すのと、電士を助けるために、うちらは日々精進せないかんのよ。交流戦はその一環」

 そこから先輩諸氏が語った電士の歴史は、明治にまで遡る。家電黎明期の明治、すでに電士は顕現していた。もちろん彼らは持ち主に丁寧に扱われ、幸せな家電生を全うしていた。だが、清国との戦争に突入したことが彼らの生活を一変させた。一部の軍人が電士の力に目をつけ、戦線に投入したのだ。

「電士達に戦う意思などなかったが、持ち主にお願いされては断れない。日清、日露で電士達は目覚ましい戦果をあげたそうだ」

 そして時代は進み、兵器開発によって「家電」が兵器と成り代われる時代は終わった。

 だが、第二次大戦中の日本には戦力になり得る物を温存している余裕はなかった。生活を豊かにするための家電は「電士」ではなく、「電兵」と呼ばれ、持ち主の意思も関係なく最前線に放り込まれた。

 そして、沢山の家電が灰も残らず消えた。

「だが、そんな人の愚かしさを知っても、電士達は現れ続けてくれている」

 人の役に立ちたい。ただそれだけの想いを胸に、家電は電士となって舞い降りる。

「君の想いはよくわかる。だが、守るために闘ねばならぬ時もある。それが交流戦なんだ」

 夏目先輩の瞳は真っ直ぐに肇を見つめている。彼の背後に立つ冷子も同じ目をしていた。

「辞めると言うなら、僕が協会に話をつけよう。だが、少し考えてみてくれたまえ」

 歯をキラリと光らせ、サムズアップする夏目先輩。なんてキモくてウザい仕草なんだろう。

「だが、僕は君の電士に会ってみたいな」

 肇は黙り込んだ。最初は強制力があると言っていた夏目先輩は、肇に選択権をくれた。安直に嫌だという気分だけで決めていいことではない。

「僕、メイドさん大好物だしね! デュフフフ!」

 やっぱ辞めようかな、そう思う肇だった。

 

 家電サークルの歓迎会から帰ってきた翌日、肇は自室で頭を抱えていた。昨日は興奮と酔いで気づかなかったが、ルンバとの共同生活を良くするアドバイスが何も聞けなかった。人間関係が複雑化し、訳の分からない問題が増えただけだ。

「……」

 そして、ルンバがさっきから肇をチラチラ見ている。朝方帰宅した時も様子が変だったが、今はそれとは違う理由で見られている。

「……苺はもうないぞ」

「えっ」

「いや、えって言われても」

 今日のルンバの働きはいつも以上だった。汚れてない風呂を磨き上げ、窓をキラキラにし、今も床のゴミを吸引し続けている。大車輪の働きは、どうやら苺目当てだったらしい。だが、大学生の肇に苺は高級品だ。手に入る機会はなかなかない。また、やすやすと買えるものじゃない。

「なぁ、ちょっと話を聞いてくれるか」

「お掃除ですか?」

「違う」

「じゃあ苺……?」

「……違う」

 わかった。近いうちに買ってこよう。

「実はな……」

 そこから肇は、昨日あったことを全て話した。酔って忘れてしまわないように、ノートにメモしていたことも含めて。

「それで、その交流戦が明日の夜にあるんだ」

 明日は五月の第一金曜。ゴールデンウィーク直前で、今シーズンの二戦目らしい。

「夏目先輩は無理強いはしないって言ってくれた。俺も無理に参加することはないと思う」

 家電と家電を戦わせるなんて、肇には受け入れがたいものがあった。

 ベッドに腰を下ろす肇は、黙って自分の指を見ていた。ルンバの顔が見れなかった。本当に参加する気がゼロならば、こんな話をルンバに聞かせる必要がない。ルンバに知る権利があるとか、そういう意図ではなかった。

「外に、出るのですか……?」

「え? う、うん。そうなる」

「外……」

 消え入りそうなルンバの声に、肇もやっと顔を上げた。そこには、いつかと同じ、胸の前で右手を握るルンバがいた。右手が小さく震えている。

「外が、恐いのか?」

「はい……」

 それは、そうか。だって家電は外に出ない。ラジカセとかならまだしも、ルンバが外に出るなどまずあり得ない。あり得るとすればそれは、あの日のようにゴミ捨て場に行く時だけだ。

「わかった。この話はやめよう」 

 肇は努めて明るい声を出した。暗くなった空気を手を振って払い取る。

「これからも、今まで通りよろしくな」

 この話題を完璧に片付けるため、二世代前のノートパソコンを出して課題に取り掛かる。だが、あの言葉が何度も肇の頭をかすめる。

「一般人にはよくわからない力を使って悪さをする人間がいる」

 ルンバがそれになるなんてカケラも思っていない。肇が恐れているのは、この子がその被害対象になるのではないかということだった。交通事故に遭うことを恐がるような無意味な懸念だ。だが、電士なんてものが存在し、肇はそれに出会っている。その被害に遭う確率だってずっと上がっているはずだ。

 守るために闘わねばならぬ時がある。八年分の重みを床の汚れのように綺麗さっぱり忘れることはできなかった。

「ご主人様は、私が外に出るべきだと思いますか?」

 ルンバが言う。肇は画面から目を離せない。頷くべきか、首を振るべきか。まだ迷っているのだ。

「ご主人様が望むなら、どんなお掃除も私は遂行します」

「そんな、簡単に決めていいのかよ」

「はい。私は家電ですから」

 肇は少し目を瞑った。そして、

「苺買ってくる。だから、一緒に行かないか?」

 ルンバに手を伸ばした。

「はい」

 ルンバがその手を取った。一つ屋根の下に暮らすようになって二週間。肇とルンバが触れ合った最初の瞬間だった。

 

 夜の学校が不気味なのは、大学でも同じだった。そこに怪しい赤い着物の男がいれば気味の悪さは二割増しだ。

「なんてワンダフルな電士なんだ! 僕の心に眠るピンクの魔物が叫び出しそうだ!」

「あの、怖がってるんで、離れてもらっていいですか」

 松山大学の正門前に三人の電導士と三台の電士が集結していた。夏目先輩の赤い着物は相変わらず怪しく、笹原先輩の桜色の着物は美しい。不機嫌そうな冷子が腕を組み、笹原先輩の横には白の特攻服を着たリーゼントの男がしゃがみこんでいる。着物が二人と一台、特攻服が一台、メイド服が一台。普通の服装をしている肇が一番浮いていた。

「姐さん。なんスかこいつら。ゼンッゼン気合い入ってないんスけど。こんなんでカチコミ行けっスか?」

「まぁ初陣やからね。ソリオは兄貴らしく、ルンバちゃんを引っ張ってやってよ」

「姐さんが言うならしゃーねぇスけど」

 ソリオと呼ばれた特攻服がガムを噛みながら肇を睨み上げる。それは一昔前の暴走族まんまの見た目だった。あぁ、ちゃんとした電士なんていないんだな、と肇は無言で諦めた。

 そして当然、初めて遭う変人と電士達に、ルンバは怯えてしまっている。外出するというだけでも清水の舞台から飛び降りる覚悟だったのに、その結果がこれではあまりに不憫だ。

「水樹君、ルンバ君。今日の作戦を説明するからこっちに来てくれ。そう。そうだ。恐がらなくていいよ。そう。おいで。そうだ」

 ルンバか夏目先輩を完全に不審人物と認定したらしく、常に肇の背後に隠れている。

「僕らは今日、互いの大学構内に隠された十一本のフラッグを奪い合う。白いフラッグが十本、赤いフラッグが一本。白が一点、赤が十点で合計二十点だ。そして、僕らの守るべきフラッグがどこにあるかは知らされていない。つまり、最初は自分達のフラッグ探しからだ」

「この広い構内をですか⁉︎」

 フラッグが隠されている場所は三箇所。色や数はばらけている。

「よって、僕らはいち早く赤のフラッグを見つけなくてはならない。そこからは僕と冷子君がいれば十分だから、君達は好きなように動いてくれたまえ」

 雑過ぎる。だが、これが回顧録の伝統的な戦い方らしい。

「よし。ではルンバ君は隠れていてくれたまえ。打ち合わせ通りに行こう」

「は、はい」

 ここでルンバと肇は別行動になる。これも作戦の内だった。

 すると、平和通りから学ランを着た女性が歩いてきた。

「こんばんは夏目! 新入部員がいるらしいわね」

「こんばんわ! 彼が新入部員の水樹君だ」

 愛媛大学家電サークル「雷媛」の会長、永易時雨先輩だ。黒縁眼鏡が似合うおっとりした外見の女性だが、六人の会員を束ねる才媛らしい。交流戦前の挨拶とルール確認をしに来たのだ。

「ルールはいつも通り。良い交流戦にしましょう」

 会長同士が時計を合わせ、永易先輩は自陣に帰投して行った。カチカチカチ、腕時計の音が聞こえる程の静けさが回顧録の会員達を包む。

「ごー!」

 とうとう、家電サークル交流戦が始まった。 

 

 文京キャンパスは一から九号館、図書館、本館、東本館、研究センター、学生寮、第一と第ニ体育館、温山会館、東、西のサークルボックス、カルフールで構成されている。中でも八号館は七階、九号館は十階の高さがあり、三人と三台の家電で三つの拠点を見つけ出すのは体力が必要になってくる。さらに、本来家電は外に持ち出されることがないため、彼らは自宅外では電導士の側を離れられない。実質三組に分かれるしかないのだ。

「九号館、ありません!」

 肇は無線に向かって叫ぶ。フラッグは各建物の最上階に設置されているが、当然エレベーターは動いていない。自らの脚で上るしかないのだ。肇は八号館と九号館を担当させられていた。

「二号館に赤一本、白二本発見!」

 無線から笹原先輩の声がこだまする。

「第一体育館、白四本発見」

 夏目先輩も発見したらしい。これであと一つ。

「と、図書館、白四本発見」 

 そして、ルンバが発見の報告をあげた。三箇所全ての発見までに約十分。全員が捜索最初の建物で発見する幸運に恵まれた。

サークルの備品だという無線機を通して夏目先輩からの指示が出る。

「では僕はこれから防衛態勢に入る。笹原君達は噴水広場に集合。攻撃を開始してくれ」

 肇は全速力で噴水広場に向かう。半年ぶりの階段ダッシュは量の乳酸を生んでいた。

 笹原コンビとルンバは先に到着していた。笹原先輩もかなりの距離を走ったはずだが、息一つ切らしていない。

 このメンバーで愛媛大学に攻め込む。松山大学と愛媛大学は二、三百メートルしか離れておらず、また行き来するための道は北側と南側しかない。人通りが少なく狭い北側か、四車線以上の広さがある南側か。正門から南北に走るカレッジロードをどちらに進むかによって進路が決まる。そして、肇達か進むのは北側の狭路だ。人数差を埋めるために狭い道で一対一に近い状況を作り出す。愛媛大学は攻撃に人数を送り込んでこないので、その防衛ラインを突破できるかどうかが勝利の鍵なのだそうだ。

「あの、いっつもこの作戦じゃ、向こうにバレてませんか?」

 夏目先輩が防衛し、笹原先輩が狭路から攻撃する。この作戦を二年間続けているらしい。

「別にかまんよ。どの道二人じゃ似たようなことしかできんかったしな」

「おい新入り。勘違いすんじゃねぇぞ。勝負に小細工なんざ必要ねぇ。あるのは……」

「正面からの突撃のみ!」

 笹原先輩が右手を振り上げる。

「くぅー! 流石は姐さん。シビれるぜ!」

 あぁ、やっぱりダメだと思った。

「それに、今回はそれだけやないしな」

 今回の作戦の肝は、ルンバの唯一無二の特徴、持ち主がいなくても自立移動できる能力を活かすことだった。家電は遠隔操作はされても、部屋の中をウロウロするものではない。そのため、電士は屋外では電導士の元を離れられないのが通常だ。だが、ルンバはその常識を覆す。

 つまり、笹原コンビと肇が相手を引きつけて囮になっている間に、ルンバが単独で愛媛大学に潜入。守護をしていない拠点の旗を奪取し、勝利する。これが松山大学の秘策だった。

「名付けて、夜の松山をメイドさんが走る! ドキドキ☆潜入大作戦だ!」

 子供のように大はしゃぎする夏目先輩は目に痛かった。作戦名も痛い。

「さぁて突撃するよ。外は永易会長の電士、ポータブルラジオレコーダーの能力で通信機器は使えんからね。使えるんやけど、嘘の情報とか深夜ニュースとか流れてくるから」

「それは凄い、のか?」

「凄ぇに決まっとるだろが。中予全体を覆うジャミングだぞ。電導士ランキング五十六位は伊達じゃないぜ」

 日本全国に散らばる電導士は約三千人。永易先輩はその中の五十六位に位置していた。他の会員達も優秀で、雷媛は全国的に見ても強豪なのだそうだ。

「大丈夫? 水樹君、えらい緊張しとるね」

 笹原先輩の言う通り、肇はかつてないほど緊張していた。花園での試合も、センター試験も、ここまで緊張しなかった。

「ハァ。全くシマんねぇな」

 肇の様子を見かねたのか、ソリオががしりと肩を組んできた。

「カチコミは度胸が命た。ブルってたんじゃ話になんねぇ。それにおら、テメェの電士をよっく見やがれ」

 その先には、右手で心臓を掴むようにして必死に震えを抑えるルンバがいた。

「下のモンが恐がっとるのに、上までブルっててどうすんねん。漢なら覚悟決めて、引っ張ってやらんかい」

 パシンと頭を叩かれた。

「大丈夫。戦う言うても壊し合いやない。君がルンバちゃんを大事に思とけば、ちゃんと帰ってくる」

「……はい」

 肇は頷いた。その姿をルンバは見ている。

「行こう」

「はい。かしこまりました」

 不安に飲み込まれそうなルンバの右手を握ると、握り返された。

「……っ⁉︎」

 その時、強烈な冷え込みが肇の脚を襲った。何が起こったのかと周囲を見渡す。すると、松山大学の建物が徐々に分厚い氷に覆われていくではないか。数秒後、松山大学の建物という建物、全てが氷漬けになった。

「な、なんすかこれは⁉︎」

 松山に突如として巨大な氷塊が現れた。建物を覆う氷は五十センチ以上の厚みがある。

「冷蔵庫は三種の神器やけんな。ああ見えて会長は電導士ランキング日本二位。こっちは会長に全部任せとったらいいんよ」

 電士は小型戦車並みの戦力があると言っていたが、これはそんなレベルじゃない。

「姐さん、一番乗りいただきますぜ!」

「あ、ズルい!」

 肇が呆然としていると、ソリオが一台で突っ込んで行ってしまった。

「ご主人様。行って参ります」

「あぁ」

 ルンバとはこ再びここで別れる。肇は覚悟を決めて走り出した。

 松山大学を出て百メートル程の所で、ソリオが雷媛の電士と闘っていた。電気シェーバーの電士である彼は、右腕を巨大な剃刀に変化させることができる。一対一ではかなり強力な電士、という風に肇は聞いている。だが、相手もアイロンの電士という片手を強力な武器に変える電士で、拮抗した攻防が繰り広げられていた。ソリオの剃刀が電士の身体を切り裂こうとするが、巨大なアイロンに阻まれる。火事の原因になる程の高熱はソリオの剃刀を無効化していた。

 なんでバトル漫画みたいになってるんだと肇は引いた気持ちで観戦していたが、確かにあれに襲われたら人間はひとたまりもない。振り下ろされたアイロンがコンクリートを溶かした。

「姐さん! こいつ強いっス!」

「漢が泣き声言うな!」

「うす! すんません!」

 笹原先輩の体育会系な命令が飛ぶ。電士の動きは電導士と気持ちが重なることでより強くなる。笹原先輩が殴れと思った瞬間にソリオが殴ると、パワーが倍加するのだ。言ってしまえば格ゲーの実写版だ。だから電導士は電士の闘いを間近で見なければならない。笹原先輩はアイロンの熱が髪を溶かしそうな程近くにいた。そんな笹原先輩の気迫に押されたのか、相手電士がジリジリと後退していく。その瞬間、ソリオの後ろ回し蹴りが電士の顎に命中した。

「ふぇ……」

 情け無い断末魔で電士が倒れると、道の中央にアイロンが転がった。電士は行動不能になると元の形に戻る。これでアイロンは脱落、また、アイロンへの追撃は反則になる。注意深く見てみると、アイロンには汚れも傷もなかった。よほどのことがない限りは故障しないみたいだ。

「次!」

 六人になった雷媛の電導士達は、迎撃に出てこなかった。構内にまで誘き寄せるつもりだ。

「ちょっと休憩しよか」

 このまま突っ込むと陽動にならない。ルンバを楽に潜入させるために、こっちは一時停止だ。

「ルンバちゃんは今どの辺?」

「多分、構内に入ってます」

 通信はできなくても、肇にはルンバの位置が何となくわかった。今は愛媛大学の正門から侵入して、一番近くの建物内を捜索している。

「アイロン野郎は様子見の先遣隊だ。新人電士を調べに来てたっスね」

「せやね。ならそろそろ気づかれてもおかしないかな」

 肇の姿は確認されているが、電士がいない。ルンバの特性全国的に知られているため、雷媛が勘付くかもしれない。正門側にいるルンバを援護するため、こちらは北通用門から攻撃する。

「よし! ソリオ特攻!」

 まだ体力回復し切っていないソリオを全力ダッシュさせる。すると、北通用門には二台の電士が待ち構えていた。

「っ!」

 その時、ルンバがフラッグをゲットした。肇にはわかる。

「笹原先輩! 成功です!」

「おっけ! 帰還! ソリオは気合足りんからもちょっと闘っとき!」

「うす!」

 ゲットしたのは二点だけだったが、あとはこちらのフラッグを守り切ってしまえば勝ちだ。

 雷媛にもそれは伝わっている。ここは笹原先輩に任せて、肇はルンバとの合流を図る。電士は相手電導士に攻撃できないので、二台の間を駆け抜けて愛媛大学構内に侵入する。

「ルンバ!」

 正門へ走る。雷媛の会員達が付いてこようとするが、肇の俊足には追い付けない。松山大学とは違い、東西南北にクロスした道を右へ左へ曲がりながら進む。

「ルンバ! どこだ⁉︎」

 正門に辿り着いた。だが、ルンバがいない。

「どこだ⁉︎ もう出て来ていいんだぞ! 早く帰ろう!」

 近所迷惑な大声で叫び回るが、ルンバが出てこない。近くの建物内を片っ端から探し回る。

 さっきまでは何となくわかっていたはずなのに、何故かルンバの位置がわからなくなっていた。本当に数秒前までわかっていたのだ。だが、今はどんなに叫んでも、頭の中でルンバを呼んでも、その姿が見えない。強い焦燥が肇を襲う。もしかして、と思うのだ。もしかして、またどこかにぶつかって停止しているのではないか。それならまだいい。これから探し回れば済むのだから。だが、何かそれ以上の……

「ちょっとどうしたの⁉︎」

 建物内で永易会長とばったり遭遇した。

「俺の電士が、ルンバがいないんです!」

「いないって……。位置がわからないの?」

「そうです! どこにもいない!」

「わかった。わかったから落ち着いて」

 永易会長は肇の腕を掴むと、逆の手で電話をかける。相手は夏目先輩のようだ。

「そう。そうよ。えぇ。連れて帰るわ。交流戦は、私達の負けね」

 両会長の判断で交流戦は打ち切られた。電士が不測の事態に陥った場合は必ず打ち切る。交流戦は、電士を壊すためではなく、電士を守るためのものだからだ。

「これから捜索に入るわ。大丈夫。構内に居たことがわかってるんだから、すぐ見つかるわ」

 永易会長の目に誇張はなかった。ようやく冷静になった肇も黙って頷く。

 その時、スマフォが震えた。ヘルプのメッセージが来たのかと画面を開く。

「え……?」

 これまでルンバから届いていたメッセージが、全て消えていった。


 交流戦から三日。未だにルンバは見つかっていなかった。夏目先輩や笹原先輩だけでなく、雷媛の会員も捜索に尽力してくれているが、果報は届いていない。愛媛大学構内はすでに探し尽くしている。それでも発見されないとあって、捜索は手詰まりになっていた。

 三日間、肇はほとんど眠っていない。肇の捜索範囲は徐々に広がり、あり得ないと思いながらも数キロ先に向かうこともあった。何故居場所がわからなくなったのか、どこに行ってしまったのか。何一つ手掛かりはないまま、時間だけが過ぎていく。

 何度も眠ろうとした。ベッドに入って目を瞑った。だが、そうするとルンバの姿が頭に浮かんで、またスマフォを確認してしまう。

 たかだか家電一つがなくなっただけでこんな気持ちになるなんて、肇は自分でも信じられない。十九年間の人生の中で、辛いことや苦しいことは数え切れないほどあった。だが、眠れない夜を過ごしたのは初めてだった。

 いつの間にか、あのポンコツルンバは肇の一部になっていた。

「どこにいるんだよ……」

 情けない声で言って、自分で更に落ち込む。

「っ‼︎」

 スマフォが鳴った。飛び付いて確認すると夏目先輩からのメールだった。アドレス交換をした覚えはないが、それは問題じゃない。何かわかったことがあったのかと、肇はジャージのまま乱暴に部屋を出た。道後からロシア兵墓地への数キロを自転車で飛ばす。

「先輩!」

 肇の全力疾走に耐えられなかった手摺が外向きに落ちたが、夏目先輩の家に駆け込んだ。

「何かわかったんすか⁉︎」

「何もわかっていない」

「っ! じゃあ、なんすか!」

「不審な男が構内をウロウロしていると、愛媛大学から連絡があったのだよ」 

「お、俺は、別にそんなつもりは……」

「迷惑だなんて思っていないさ。少し落ち着いて欲しいだけなんだ」

 冷静になれと言われても、今の肇には不可能だった。むしろ落ち着けと言われると腹が立ってくる。当事者じゃないからそんなことが言えるのだ、と。呑気な赤い着物が余計に癪に触る。

「ふん。しょーもないわね」

「あ?」

 いきなり冷子が割って入ってきた。

「初陣でいきなり迷子? どこにいるかもわからない? 本当にポンコツだったのね」

 血が煮え立つような感覚に、肇は思わず拳を振り上げた。誰かに暴力を振るおうとしたのは初めてで、加減がわからない。

 血走った肇の瞳に、冷子の瞳が氷のように焼きついた。

「……っ!」

「ワンダフルだ、肇君。よく思い止まった」

 夏目先輩が指を鳴らすと、冷子が冷蔵庫に戻った。

「もし拳を振り切っていれば、それはモノに当たるという行為だ」

 心の底から恐怖していた冷子の表情が、肇の記憶に刻み込まれた。モノ言わぬ物は、人の暴力に抵抗できない。そして、それは彼女達が最も恐れることだった。

「今のは冷子君が悪い。僕が罰を与えるから、どうかここで収めてくれ」

 言葉は冷たいものだったが、あれは冷子なりに肇の発奮を促すものだったのだ。

「水樹君を呼んだのは他でもない。これを渡したかったんだ」

「これは……」

 渡されたのは、A4の茶封筒だった。何もおかしなところのない、普通のものだ。

「これは許可証だ。水樹君がもし警察に職質されても、これを見せれば解放してくれる」

 どんなルートで入手したのか、強力な力を持った許可証だ。今の肇にはこれほど心強いものはない。深夜だろうが極悪な外見だろうが、これさえあれば松山の全ての場所を捜索できる。

「僕もこれに助けられている。真夏にコートを着ている男なんて怪しすぎるからね」

 怪しいという自覚はあったのか。

「じゃ、じゃあ、なんでコートなんか着てるんですか」

「僕の電士が冷子君だからさ。僕は常に彼女の冷気に包まれている。夏は大助かりだがね」

 つまり、人に怪しまれてもコートを着なければならないほど、夏目先輩ら常に極寒の中に身を置いているのだ。夏は良くても冬場は地獄のようなものではないか。

 だが、それでも夏目先輩は冷子を大事にしている。自分のために頑張ろうとしてくれていることをわかっているからだ。ルンバのポンコツさを受け入れる肇と似た部分があった。

 勇気付けられたわけではない。体力が回復したわけでもない。ただ、こんな変人でも肇と同じ感情を持っていることを、知ることができた。何故かそれが、肇の心落ち着かせてくれた。

「さあ! 優しき心の電導士よ! 程よく急ぎたまえ! 明朝からは雨が降る!」

 夏目先輩が玄関を指差す。それは奇しくも太陽が昇る方角でもあった。

「はい! 行ってきます! 見つけてきます!」

 肇は駆け出した。眠くて怠くて脚がフラついて死にそうだったが、それでも走った。

 

 肇の捜索は三時間が経過した。暗くなった構内では排水溝や植え込みがよく見えない。懐中電灯を買いに行くべきかと思い始めたその時、

「もしもし水樹君⁉︎」

 高らかにスマフォが鳴った。これは笹原先輩の着メロだ。

「金曜の夜にメイドを見た人がおった!」

「メイド⁉︎ ど、どこですか⁉︎」

「放送大学!」

 愛大と松大の間にある大学だ。最高の手がかりが、とうとう肇の元に舞い込んだ。

「ありがとうございます! 俺、探しに行きます!」

「うちも行くよ!」

「いいえ!」

 走りながらの通話でも、はっきりと意思を伝える。これはもう、肇の意地だった。

「俺が見つけないとダメなんです!」

「っ! わかった。頑張ってね!」

 すぐに通話を切ってくれた。愛媛大学を突っ切り、塀をよじ登って放送大学の敷地に入る。

 沢山の人が協力してくれた。自分だけじゃない。皆んながルンバを大切に思ってくれた。肇にはそれが嬉しすぎて、疲れなんか忘れて走っていた。

「ここにいるぞ! 俺は、ここにいるぞ!」

 叫ぶ。口ではない。心で叫んだ。放送大学は建物が少なく、かなり遠くまで見通せる。ところどころに灯った電灯が雲に反射しているのが希望の灯台だった。

「ルンバが助けを求めています」

「っ! よし! 待ってろ!」

 そしてとうとう、何度も何度も見たメッセージがスマフォの画面に現れた。

 近くにいるのだ。絶対に近くにいるんだ。

「ルンバが助けを求めています」

 東に向いて走ると、またメッセージが届いた。近づけば近づく程、メッセージが届きやすくなっている。だが、即座に予期せぬ出来事が起こった。

「ル@2*<が/タnけォp1い3す」

 故障か、それともバッテリー切れか。メッセージが狂い、そして何も言わなくなった。

「くそ! もう少し頑張ってくれ! すぐに見つけてやるから!」

 肇の頬に冷たい雫が落ちた。予報よりも二時間早い雨は、一気に雨脚を強くする。

 ここまでなのか。俺ではダメなのか。俺とルンバには、そこまでの絆はなかったのか。

「出てこいよ! 出てきてくれよ! また俺の部屋を掃除してくれよ! 下手くそな料理をしてくれよ! 洗濯物をダメにしてくれよ!」 

 成功したことなど一度もない。だが、肇はそれで良かった。大勢の中にいて味合う孤独と、部屋で一人でいる孤独。両方が肇を襲っていたら、もう大学に通えていなかったかもしれない。

「苺、苺!」

 肇も限界だっだ。切羽詰まった人間がすることは得てして意味不明になるものだ。頭に浮かんだ単語をただ叫ぶ。だが、それが一番効いた。

 

 ぶ。ぶぶ。


 震動音。どこかで何かが震えている。肇は音の方へ走るが、まだ見つけられない。

「ルンバ!」

「」

「苺!」

「ぶぶ、ぶぶ」

「苺に反応するのか!」

 肇の髪は汗と雨でぐしょぐしょだった。雨音で震動音も聞こえづらくなってくる。やけくそになった肇はひたすら苺苺と叫びまくる。

「戻ってきてくれよ!」

 視界の端に、一瞬電灯が映った。肇はそれを見逃さなかった。見逃すはずもなかった。

「いた!」

 チカチカと光る電灯の足元、少し溝になっているところに、ルンバがあった。肇がルンバに駆け寄った途端、電灯は音もなく消えた。

 

「ごめんなさい」

 三種の神器の威光はどこへやら、しゅんとした表情の冷子が頭を下げてきた。

「いや、俺もごめんな」

 未遂で終わったとは言え、肇は手を上げてしまった。冷静になった肇は、そのことを強く悔いている。

「ところで、どんな罰をもらったんだ?」

「……電源を切られたの。卵と麺つゆとヨーグルト、腐らせちゃったわ……」

「オッケー。悲しそうなのは伝わった」

 冷蔵庫にとって、中身を腐らせるのはこの上ない恥辱らしい。

「くははは! 人も家電も失敗して成長するものさ! 雨降って地固まる! 何もかもが上手くいったんだから良いではないか!」

「やねぇ。一時はどうなることかと思たけど」

 三リットル近い焼酎を飲み干した夏目先輩と笹原先輩は、過去最高に上機嫌だった。場所は夏目先輩宅、開催されているのは、ルンバ無事帰還記念の飲み会である。

「あぁ、今だから言えることだが、水樹君。すまなかった」

「え、どれがですか?」

「ルンバ君のメンタルケアをしないまま、外に連れ出したことだ」

 夏目先輩が机に手をつく。

「ルンバ君は一度持ち主に捨てられている。だから、今度は捨てられまいと必死に君に尽くしていたのだ。その傷が癒えぬまま、交流戦に参加させてしまった。全て僕のミステイクだ」

「そう、かもしれません。でも違います」

 交流戦の話があまりに急過ぎたのは確かだった。だが、参加すると決めたのは肇であり、ルンバの気持ちに気づけていなかったのも肇なのだ。ルンバが遭難した責任は、全て肇にある。

「でも、やっぱり交流戦はしばらく不参加にさせて下さい。それに、期待されている隠密行動はできませんし」

 ルンバが遭難した理由は、電灯にぶつかったという単純な問題だった。自宅外にいる不安と仕事を果たした高揚感が相まって、いつも通りのミスをした。機械型に戻ったルンバは、あえなく充電を使い果たしてしまったということだ。

 だが、それならどうして、ルンバはヘルプのメッセージを送ってこれたのだろう。肇の気持ちがルンバに届いたのか、ルンバが最後まで頑張ったのか。それとも……。

「そう言ってくれると嬉しい。なら水樹君。早く帰宅してあげたまえ。君のメイドが今か今かと待っているはずだ」

「え、でも飲み会途中……」

「そんなんかまんよ。今は、ルンバちゃんのそばに居ったり」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

 両手横ピースを決めるウザい夏目先輩と、缶チューハイを振り回す笹原先輩に礼を言い、肇は家路についた。

 春の夜空は雲一つなく、満天の星々が輝いていた。ロシア兵墓地からは星がよく見える。

 肇は赤い自転車を颯爽と飛ばす。愛媛大学通り過ぎ、道後商店街近くのアパートに帰り着いた。築五年のアパートの三〇五号室が肇の部屋だ。肇はいつものように扉を開いた。

「お帰りなさいませ。ご主人様」

「……」

「お掃除になさいますか。それともお掃除になさいますか? それとも……お掃除になさいますか?」

 そこには、美しいメイドさんがいた。

「……ただいま」

「はい」

「苺、買ってきたんだ。一緒に食べよう」

「はい……っ」

 一人と一台は静かに微笑みあった。

 


 

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回顧録 夏目りほ @natsumeriho

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