305号室

ゆゆゆ

305号室

 ひらひらと舞い落ちる桜の花びら。

「ほんとに毎秒5センチなのかな」

 少しドスの効いた不機嫌そうな彼女の声は、不思議とわたしの耳に心地よく溶けていく。

「なにが?」

「桜の落ちるスピード」

「なにそれ」

 ふっと鼻で笑い、わたしを流し見るその目は自嘲するようだった。

「咲いてる時にはわからないけど、けっこうきついんだね」

「そりゃまあレンチンしてる訳だし、熱の入った花がいいにおいな訳はないよ」


 4年ぶりに電話してきた伊藤は、突然夜桜を見たいと言い出した。

 はやる胸の高鳴りを押さえつけ、なんでもない顔をして待ち合わせ場所に行くと、少し髪の伸びた彼女がガードレールに腰掛け、足をブラブラさせていた。

「久しぶり」

「うん、久しぶりだね」

 短い挨拶を交わし、側の桜を見上げる。まだ少し肌寒い5月の金曜日は、だいぶ花が散ってしまっていて、興醒めもいいところだった。

 よく冷えた発泡酒を飲み交わし、ぽつぽつと言葉を交わす。そうして1時間ばかり経った頃、酔いの回ったわたしはコンビニ袋に散ってしまった桜の花びらをかき集めた。

「それどうするのさ」

「持って帰って夜桜お七を演るんだよ」

「なにそれ」

 伊藤は口の端を吊り上げるように笑う。


 わたしの家に着くなり彼女は花びらの詰まった袋を電子レンジに放り込んだ。

 虫嫌いの伊藤曰く、消毒が必要なのだ、と。

 そんなわけで本当に虫が紛れていたのかもわからない桜を窓から放り投げることとなった。

 おそらく秒速5センチで地面に向かっていった花びらに、既に興味を失くしたわたしは煙草に火をつける。

 伊藤に目配せするが、彼女は無言で首を振るだけだった。

「あんたが煙草やめたなんて」

「うるさい、あたしにだって青い春はあったんだよ」

「わたしに教え込んだ張本人が何を今更」

「かってに唯がマネしただけでしょ」

 ああ、彼女に名前を呼ばれるのも4年ぶりか。忘れようとしていた気持ちが、むくりと顔をだす。

「あの頃は楽しかったね、唯」

「……そうだね、伊藤」


 4年前まで、伊藤と同じ大学に通い、同じ家に住んでいた。

 煙草を覚えたのは、彼女と暮らし始め、半年ほど経った2年生の冬。襟足を短く刈り込み、綺麗な金髪をかきあげる彼女が咥える煙草の格好良さに憧れたのだ。

 絵になる、という陳腐な感想しか浮かばないけれど、その一言だった。

 憧れに近づきたくて、真似をするというのはわたしにとって自然なことだった。

 彼女は彼女で面白がって、咳き込むわたしを尻目に、涼しい顔でぷかぷか煙を燻らせる。

 気づけば壁紙が黄色くなり、冷蔵庫すらもヤニで汚れていた。


「懐かしいね、この音」

 深夜に貨物列車が通過していく踏切の音は、伊藤と暮らしていたときと変わらない。

「とっくに引っ越してると思った」

 何か言いたげな瞳でわたしを射抜く伊藤には、まるでわたしの心の内まで見透かされてるようだった。

「……別に。たまたま就職先がこの沿線で、引っ越す理由もなかったから」

 灰皿に手を伸ばすのが億劫で、飲み終わった空き缶で乱暴に煙草を揉み消した。

「ふうん。ま、楽ではあるのね」

 相変わらず何か言いたげな瞳のまま、伊藤は小気味良い音を立てて発泡酒を開け、ごくりと音を鳴らして飲み下す。

 わたしは何も言えず、あの頃より色の濃くなった壁を睨む。

「……まだ、怒ってる?」

「なにが」

「いきなり、東京に行ったこと」


 忘れもしない。4年前の3月15日。卒業式の日に、伊藤は突然東京に行く、と書き置きを残して家を出た。

 慣れないパーティドレスを着て、死ぬほど退屈な謝恩会を終えて、家に帰ると鍵と書き置きだけがテーブルにあった。

 目の前が暗くなる、とはこういうことなのだとか、伊藤の荷物って全然なかったんだなだとか、どこか冷静に分析をしている自分が情けなかった。

 震える手で伊藤に電話をかけ、あっけらかんと笑う彼女の声に怒りなんて湧かなかった。

 あるのはただ悲しみと、大きすぎる喪失感だった。

 彼女と暮らした2年半はあまりにも大きく、突然放り出された彼女への想いのやり場を探せないでいた。

「わたしは、そもそも怒ってなんかない」

「その割には声が震えてたし、あれ以来連絡してこなかった」

「それは!」

「ああいいの、唯を責めてるわけじゃない。ただ怒ってるんだろうな、って勝手にあたしが思ってただけ」

 声が震えていたのは、必死に泣くのを堪えていたのだし、連絡できなかったのはあまりにも呆気なく終わってしまった暮らしから目を逸らしていたから。きっと、伊藤から電話が来なければ、このままずっと連絡することもないと思っていた。

 何も言えないわたしを見て、伊藤は腰掛けていた窓辺から立ち上がり、ベッドに座るわたしの隣に来た。

「ごめんね。訳も話さず出てったりして。唯に話すと甘えてしまいそうだったから」

「……甘えてもらえないくらい信用されてなかった、んだね」

「違うよ。きっと唯は応援してくれると思ったし、励まされたかったけど、そんな生半可な気持ちじゃきっとやってけないと思ったから。あたしね、ずっと夢だったデザイナーになったんだよ」

 知らなかった。伊藤がずっと服が好きで、デザイン画をしたためていたことは知っていたが、まさか東京でデザイナーになっていたなんて。

「でもね、もう限界。東京でデザイナー志望なんて掃いて捨てるほどいて、あたしはその中じゃ平々凡々で、才能なんてなか--っ」

 思わず伊藤を抱きしめていた。綺麗な金髪を撫でていた。

 震える彼女の肩はあの頃より華奢で、壮絶な戦いをしてきたことを窺い知るのは難しくなかった。


「ごめんね、唯。カッコ悪いとこ見せて」

 しばらく静かに涙を流した彼女は、赤い目をして笑った。

「そういうわけで、あたしこの街に帰ってこようと思って」

「うん」

 また一緒に暮らそう。その言葉をうっかり吐いてしまわぬよう、必死で堪えた。

 彼女はきっと、わたしに甘えるのは今だけなのだ。さもなくば泣いていたのを誤魔化すように笑ったりはしない。

 しばらく無言で見つめ合い、寝よっか、と絞り出すのが精一杯だった。


 あの頃のように、豆電球を点けて、背中合わせで横になっていると泣き出してしまいそうで。

 伊藤が時々鼻を鳴らすのは、まだ眠れないのだろうか。

 そんなことを思いながら声をかけられず、寂寞たる時間ばかり過ぎていく。

 もし、もしも。彼女がわたしの想いを知った上で、今日こうやって弱みを見せているのだとしたら。

 それは、わたしが望んだ結末をもたらすのだろうか。

 しかし、彼女は本当にそれを望むのか。

 甘えたくないと出て行った彼女が、わたしを断ち切って強く在ろうとした彼女が、夢破れ傷付いた彼女が。

 人の傷心に漬け込み、甘い誘惑を囁こうとするわたしは--それでも。

「ねえ、伊藤」

「んー」

「わたしは、あんたが、好き」

「……うん、あたしも好きだよ、親友」


 空が白み始めた頃、彼女は穏やかな寝息を立て始めた。

 親友、といったその声は、わたしに再び目の前を暗くさせるのに余りある力で。

 ベッドから抜け出し、煙草に火を点ける。優しく吸うのがコツなんだよ、とケラケラ笑う声を思い出す。

 とうにぬるくなった発泡酒を飲み、今度はきちんと灰皿で煙草を消した。

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