パパと呼ばれたい!

國灯闇一

Action1

 かわいい……。目に入れても痛くないとはよく言ったものだ。

 明仁あきひとは愛嬌たっぷりに単語を鳴く赤ちゃんをあやしていた。

 アニマル柄のベビー服を着た女の子は、明仁の腕の中で揺られている。赤ちゃんはご機嫌なようで、しきりに弾むような音を発して、小さな手を動かしていた。


 羽毛のような黒髪は生え揃い、乳白色の肌はプニプニして、全体的に丸みを持つ。そして、なんと言ってもこの匂いだ。牛乳にハチミツをふんだんに入れて、三日三晩熟成させたみたいな、クセのある匂い。好き嫌いが分かれる独特の匂いは、一度嗅いだら病みつきになってしまう人もいる。明仁は、筋金入りのベビーパヒュームの中毒者だった。


 明仁は赤ちゃんの仕草や笑顔につられ、思わずニヤけてしまう。明仁にとって、この女の子は美しい湖のほとりに舞い降りた天使、よちよち歩きのペンギン、ポンコツ掃除機ロボット、つるっぱげのセーラー服おじさん。いや、失敬。とにかくかわいいのだ。

 赤ちゃんを抱っこする明仁の姿は、どこからどう見てもイクメンのかがみであった。


「明仁君」


 台所から柔らかな微笑を携えてくる佳弥かやは、2つのコップを乗せたトレーを手にして、リビングに入ってきた。


「お茶置いとくね」


「あ、すみません。ありがとうございます」


「ほんといつもありがとう。明仁君が手伝ってくれてすごく助かる!」


 佳弥は膝丈のテーブルにお茶を置き、言い尽くせないという風に感謝する。


「いえいえ、こっちがお礼言いたいくらいですよ。もうかわいくてかわいくて。食べちゃいたいくらいです」


 佳弥は笑みをこぼす。


「なに言ってんのもう、赤ずきんのオオカミにでもなるの?」


「オオカミにはなりたくないですけど、舐め回したいですねー!」


 明仁は高ぶったテンションのまま冗談を畳みかけた。だが、佳弥の顔がみるみる引きつっていく。その表情の変わり方はあまりに克明だった。

 黒いソファに座る明仁と、斜め前の床に膝立ちをする佳弥を取り巻く空気が、一瞬にして凍りついた。


「いや、冗談ですからねっ!?」


 明仁は慌てて補足する。佳弥はホッとした吐息と共に笑顔を取り戻す。


「あは、そうよね。てっきり明仁君がロリコンの達人になったかと思って心配しちゃった」


 明仁は世も末の言われように内心グサッと来たが、空気が和やかになったので良しとしようと思った。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。


「あ、帰ってきたかも」


 佳弥はいたたまれぬ空間から飛び出すように玄関へ向かう。

 明仁は佳弥がドアの向こうへ消えていく背中を見送り、モヤモヤする心を持ち直すべく、癒しのマイナスイオンを溢れさせる手元へ視線を戻す。

 かわいい……。ふと見せる無邪気な笑顔が忘れさせてくれる。極めて怪しいオオカミから優しいイクメンに戻っていく。


 足音が近づいてくる。半開きのドアが開けられると、佳弥の後からスーツ姿の祐賢ゆうけんがリビングに入ってきた。


「よっ!」


「おっ、悪いないつも!」


 祐賢はなじみの顔にくだけた挨拶をする。


「いいって、佳弥さん1人じゃ子育て大変だし、お前も仕事で回らないといけないんだから。いつでも頼れよ」


 明仁は気前よく言う。


「お茶でいい?」


 佳弥は開けっ放しになっていた引き戸の手前で振り返り、夫である祐賢に聞く。


「ああ、氷も頼むよ」


「はーい」


 佳弥は台所へ姿を消す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る