Chapter 10. 湖の異変

 愛車のレガシィを1号線沿いの駐車場に停め、柴田しばた康造こうぞうは運転席を降りた。


 釣りの解禁から一カ月と六日。箱根の山々にも春の暖気が訪れようとしているが、早朝の空気はまだ冷たい。柴田は小さく身震いし、トランクから釣り具一式を引っ張り出す。


「休みらしい休みは久しぶりだな、っと」


 荷物を担ぎ、歩き出す。


 本当なら解禁直後に来たかった。しかし、ここ最近の慌しさを振り返れば諦めもつく。新製品の液肥が見事に当たったことで、柴田の勤める会社は空前の増収に沸いていたのだ。年度末に重なったことも大きかった。休日返上で働いたとまでは言わないにせよ、週明けの激務を意識しながら羽を伸ばせるほどの器用さを持ち合わせてもいなかった。


 柴田は研究職ではない。当然、肥料を開発したのも柴田の部署の手柄ではなかったが、社運のかかった製品だけに、巻き込まれずにいることも難しかった。


 ――まあ、ここらで一息ついても罰は当たらんだろ。


 件の液肥については県外からの問い合わせも来ている。しばらく電話が鳴り止むことはないだろう。だが、それはむしろ歓迎すべきことではないか――命からがら決算を乗り切り、新年度初の週末に漕ぎ着けた今、そう達観できるくらいには柴田は余裕を取り戻していた。


 十分ばかり歩くと、行く手に湖が見えてきた。


 柴田が芦ノ湖あしのこを訪れるのは毎年の恒例行事である。いつもと雰囲気が異なることにはすぐに気付いた。


 ――おかしい。


 ――水面はあんなに白かったか? 


 ――このドブのような臭いは何だ?


 浮き立っていた気持ちにかげりが生じた。ECHOエコーに封鎖されることもなく観光地として生き残っている地域とはいえ、ひとたび違和感を覚えると途端に心細さが膨らんでくる。早く来たのは失敗だったかもしれない。この時間ではさすがに出歩いている町民もおらず、あたりに自分以外の人影はない。


 それでも柴田が引き返さなかった理由は単に「諦めきれなかったから」というだけのことに過ぎない。まだ危険があると決まったわけではないのだ。ほとんど意固地になっていた。心の奥底で「まさか自分に災難が降りかかるはずがない」と高を括っていることに気付かぬまま、一歩ごとに強まる臭気にむせ返りながら、背筋を這い上ってくる怖気おぞけに逆らって湖へと近づいてゆく。


 やはり、湖面が白く染まっている。


 ――凍ってるのか?


 そんなふうにも見えた。このあたりは標高が高い。ただでさえ夜から朝方にかけては冷え込むはずで、そのうえ今日は霧も出ている。季節外れの凍結もあり得ないと断言は、


 ――まさか。ワカサギ釣りに来たんじゃないんだぞ。


 かぶりを振って馬鹿げた考えを追い出した。いくらなんでも氷が張るような気温ではない。そんなコンディションであれば禁漁期間が解かれているはずがないし、だいいち悪臭の説明がつかない。


 ――じゃあ、どこかのホテルか温泉宿から排水が流れ込んだとか……。


 これはいい線じゃないかと思う。少なくとも先程の想像よりは現実味がある気がした。改めて目を凝らしてみれば、泡や油膜が浮いて白濁しているように見えなくもない。


 さらに歩いていく。


 無人のバス停を通り過ぎ、土産物屋の脇を抜けて裏手に回った。石造りの階段を下り、砂利の敷かれた小道を渡れば視界がひらける。そこはもう湖のほとりだ。


 ようやく水面がはっきりと見て取れた。


 脳が理解を拒絶した。


 目の前の光景を呑み込めない。予想が的を外れていたことだけは確かだ。このまま全てを無かったことにして回れ右をしたいという柴田の心からの願いとは裏腹に、情けも容赦もまるでなく、事実がゆっくりと浸透してきた。


 ひと繋ぎの大きなものが湖を塞いでいるのではなかった。遠目からは氷や泡のように見えた「それ」には、どろりと濁った眼と、弛緩しきったヒレがあった。鱗に覆われた白い腹が浮かび、朝霧の中に差し込む光を照り返していた。


 おびただしい数の魚の死骸だった。


 柴田の喉から、甲高い悲鳴が迸った。

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