第17話

 綺麗な夢を見ていた。

 まだ自分が生まれていない頃のことだ。

 世界は輝いていて、本当に綺麗で、まるで、水の中にただよう魚になった気分で、自分はどこかの世界を泳いでいた。

 だが自由になろうとして足をもがくと、そこにあしひれはなく、水は抵抗となってハヤミの行く手を遮る。

 チューブのようなものが体にまとわりつき、ハヤミは自分の体にそれが絡みつく、不愉快さを覚えた。

 すべてがふわふわしていたが、自分をのぞき込む誰かの目を見た気がする。

 その目は自分を見て、たしか笑ったような気がした。ハヤミはそれを見て、自分も微笑んだような気がする。それが本心からなのか、それとも、作られた本能からなのかは分からなかったが、自分はその目を、母だと思った。

 世界が泡で満たされ水が引き、目が自分を世界の中からすくい上げる。それは堅く、冷たく、ぬるりとしていたがハヤミにとってはそれがすべてだし、母は自分を抱きかかえて何かの保育器に入れた。

 そうして赤く輝く母の目は、自分に、ハヤミという名前をつけた。

 ハヤミは最初、自分に名前がつけられた意味がよく分からなかった。


 この世に生を授かった者は、等しく母の教育を受けるようになる。

 ハヤミは他のクローン達と同じように、施設で育てられ、クローニング工場から出荷され予め定められたプログラム通りの人生プロセスを渡され、ジオの街に出荷された。

 ジオの街には人が溢れ、機械、人間、クローン、兵器、すべてが平等の管理された世界だった。もっともハヤミというクローンは、あるクローンとクローンを掛け合わせ、マザーが計算した膨大な数の人物パターンと照らし合わせ、パターン通りの手足、体、胃袋、腸、骨格、大小様々な腫瘍、先天的な病気遺伝子、優性遺伝子、劣性遺伝子を組み込み、事前にマザーが決定したプロセス通りの人生プロセスをクローンに送らせ、生活させるという、非常に効率的な社会構成の一つだった。

 クローンは一つだけのパターンにあらず、多種多様な作りをして町中で生活を営み、すでに絶滅寸前まで減った人類の代わりとなって、このジオノーティラス地下都市を基礎から支えていた。

 ハヤミも千差万別のクローンの一つとして、ジオの世界に送り込まれた。

 自分は人間であると認識してこの世を生きている。世界に不満はない。目立った思いもない。

 たまに、クローンとしては失敗作だと誰かに笑われることがあった程度だ。

 他のクローンより器用さがなく、よくクローニング工場に再教育に行くことがあった。

 ハヤミだけ別のクラスに再配属され、バーチャルヘッドセットを使った再講習プログラムを何度も受けて、街に帰ることがあった。

 それでもハヤミは、よく分からないことがあった。なぜ自分は生きていて、ここにいるのだろうと。

 ハヤミはいつしかクローニング工場とジオの外、生命の住まない外の世界を見ていた。


『道は、自らが決めた自由です』

 気づくとハヤミは、白い天井を見ていた。

 病室は白くて、誰もいなくて、窓辺には小さな花瓶と白い花が入っている。

 見舞いはいない。誰もいない。

 窓からは、さんさんと輝く太陽の光が差し込んでいる。しかしそれがジオの人工灯の光だと分かると、世界の色が急に暗く感じてしまった。


 若い軍医はハヤミを診て、墜落の際に受けた外傷が原因の急性記憶障害だろうと言ってくれた。

 しばらく投薬し静かにしていれば元に戻ると言われ医者には帰宅を許されたが、ハヤミはまるで気が抜けたように外を見続けていた。

 軍の衛生隊施設のある基地ゲートを出て隊舎のある基地に帰ろうと思ったが、なぜかどこにも帰れず、ハヤミは基地近くの小さな公園にふらふらと入っていってベンチに座った。

 とある晴れの日。昼下がり。

 町は静かで、平和で、自分がいま病院の帰りであることすら一瞬忘れてどこかへ出かけてしまいそうなほど平穏だった。

 制服を着たハヤミはそのボサボサな髪をぐしゃぐしゃに掻き上げ、制帽の内側を整える。目の前では親子連れが砂をつついて遊んでおり、それ以外には誰もいない、静かな住宅街だ。

 太陽を見上げ、温かい風を感じる。どこか遠くのことのようだ。あのとき感じていた風は、冷たく、肌を刺すようだった気がする。でもその風が、いったいどこで感じた物なのかをハヤミは覚えていない。


 ハヤミの住む隊舎と基地は、自治地下都市国家ジオノーティラスの中でも底辺にあり、基地に所属する部隊のほとんどは実働部隊と、それをサポートする整備科、施設科で構成されていた。

 ジオを構成する層はすべてで四つ以上あり、下からゾーンフォー、ゾーンスリーと並んでいて、今ハヤミがいるのは緑地地区と高級住宅街の並ぶゾーンツーになる。

 ゾーンツーは、平たく言えば地下都市の中での一等地で、通常で人が入れるゾーンの中ではもっとも地価が高く、また地上にもっとも近いゾーンとしての位置だった。これより上は人の住まないゾーンで、主に行政やジオを統括管理するマザーの実働組織や委員会がその地域層を占める。

 逆に下層は地価も低く、また治安も下に潜れば潜るほど悪化していた。

 ハヤミが生まれたゾーンは地下都市の中で下から二番目で、今ではハーレム(無法地帯)区画として通常の立ち入りを規制されているゾーンフォーた。噂ではゾーンフォーのさらに下、ゾーンファイブに層があるとも言われているが、ジオにハーレム化の波が押し寄せてきてからゾーン同士の往来は著しく制限されており、またゾーンのハーレム化は近年に増してさらに顕著になっておりその事実を確かめられる者はいない。

 人は次第に、地下の底から湧いてきている無法化と暴力の影に怯えながら、ぎりぎりの生活を営んでいた。

 この地下要塞都市に底辺から広がりつつある病的な現象、ミームというか、法の無秩序化や土地計画が頓挫する現象、ハーレム化は、誰にも止められていなかった。

 だが、このゾーンツーにいる間ははそんなことも忘れられる。

 あたたかい春のような気候。温暖な風。温かい日当たり。太陽。

 青い壁ぞいにエレベーターが走り、人々を乗せて他の階へと連れて行く。

 ハヤミは胸元のポケットをさぐりたばこを探した。

 無かった。

「今まで、オレは何をしていたんだっけか」

 公園には誰もいない。子供も、老人もいない。

 草が生えた小さな園庭、腰あたりまでの背丈の低木で柵が作られ、また他方にはとても小さな噴水がある。水は出ていない。

 ベンチから少し離れた場所にはゴミ捨ての籠が置いてあって、中には昨日の新聞が捨てられていた。

 行方不明だった軍人、敵の基地を発見し徒歩で帰還。敵はいまだ健在。

 そんなだっただろうか。

 隙間から覗く写真には、たしかに自分と自分を抱える仲間の姿があった。

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