二
「何か用ですか」
こちらに背を向ける格好で何やら机に向かっている容之進。
彼はそのまま、顔を上げることはない。
「…何読んでんだ?」
「何でもいいでしょう。邪魔をしに来たのなら、和泉さんの方に行ってくださいよ」
どうやら、昨夜後をつけたことは気付かれていない様子。
正太郎は腹を決め、どかりと容之進の後ろに座った。
「おい、ヒロ」
「何です」
「ちょいとこっちを向きな」
ちらりと肩越しに兄を見やり、その顔に不満を滲ませる容之進。
「まさかまた、蝙蝠だの蜘蛛だの蝶だのの死骸を持ってきたんじゃないでしょうね」
「いつの話だよ、十年も前の話じゃねえか」
「だって、ヒロ、ヒロ、いいもんやるよって言って手を広げたら、そんなものがぼろぼろ落ちてくるんですよ。忘れられるわけがありません」
「ったく、変なことばっかり覚えてやがるぜ。ちげえよ、ちっとばかし聞かなきゃならねえことがあんだよ」
「そうですか」
では、と体の向きをこちらに変える。
正太郎はあぐらのまま、咳払いをした。
「あのさ…その、おめえ、この間エゲレスがどうとか和親条約がどうとか言ってたよな」
「言いましたね」
「つまりだ。俺はただはっきりさせてえだけなんだが、つまりそれは、お上に対する不満って…そう取っちまってもいいのかい?」
「………」
容之進は微かに目を細めた。
怯えているわけでも、焦っているわけでもない。
ただ、目が細められるというだけの動作。
何を考えているのだろうか。
一つ年下のはずなのに、彼は正太郎よりもずっと大人びて見えた。
「兄上」
容之進の首が横に倒れる。
「私にも分かるように言っていただけますか」
平坦な声。
感情の起伏など、これっぽっちも感じられない。
こいつはいつの間にこんな喋り方を覚えたのかと考え、いや、元々こんな喋り方だったかと思い直す。
兄弟の視線が真っ向から衝突した。
「つまりのつまり」
正太郎も顎を上げる。
もう、なかったことにはできない。
「おめえ、幕府を倒そうなんて考えてんじゃねえのかってことを聞きたかったのさ」
風が入った。
ぬるりとした不快な風が。
容之進の一筋の髪のほつれが、それに合わせて揺れる。
ゆぅらゆらゆら、ゆらゆらゆぅら。
容之進はその一筋を、手でかき上げた。
豆のできた、剣を握る者の手。
すなわち、もののふの手。
「はい」
容之進は正太郎から目を反らさず、はっきりと首肯した。
「この間も話した通り、この国は非常に危険な状態なのです。誰かがなんとかしなければならない。しかし、その誰かは幕府であってはならない」
「なぜだ」
「変わらないからですよ。たとえ中身が変わろうとも幕府は幕府であり、異国から見れば名が違うだけの幕府なのです」
容之進の言うことはまるで謎かけのようでもあり、正太郎にはいまいち理解できなかった。
しかし、「結論」は分かる。
「私は数日前、ある方と出会いました。その方も、この国の行く末を案じておられた」
容之進の言う「ある方」とは、昨夜のうちの誰かだろう。
低い、野太い声だろうか。
おどおどした神経質な声だろうか。
それとも、余裕の見える落ち着いた声か。
分からないが、あの中のどれかではあるだろう。
「洋学所で異国のことを学び、私はずっとどうにかしたいと思っていたのです。兄上は…兄上は気付かなかったでしょうが」
そこで初めて声に揺らぎが出た。
視線も、束の間浮く。
正太郎は瞬きもせず、続きを待った。
「そう…その方と出会った時、私はようやく己の居場所を見つけたと思いました。同じ考えを持つ者たちが、同じ目的のために集まる…素晴らしいことです。己の場所はここであったのかと、目から鱗が落ちた気分でした」
正太郎は思わず言いかけた言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
おめえの居場所は、ここじゃなかったのかよ。
そう言いかけて。
容之進は続ける。
「私たちのやっていることは、ひどく危険なことです。幕府側が、薄々感付き始めたことも分かっています。しかし、やらないわけにはいかないのです。同士も増えましたし、もはや計画は進んでいますから」
「計画?」
眉を潜める。
「計画って、何のことでえ」
「言えません」
容之進は頭を振った。
それはただ単に答えるのを拒否しているだけでなく、何かを払い落とそうとしているように必死だった。
それは幼い頃の彼と重なる。
虫の死骸をその手に落とした時の、あの幼子と。
だから、それ以上問い詰めることはできなかった。
「…露見したら、どうする」
そう聞くだけで精一杯だ。
容之進は僅かに笑んでみせた。
「どうしようもありませんよ。そうなったら、お上に従いましょう」
「そこは抵抗しねえのか」
「はい。それもおかしな話ですが」
「ほんとだよ」
まったく、とわざと大仰なため息をつく。
そうでもしなければ、息苦しくて仕方がなかった。
「失敗なんざ、許さねえからな」
「…認めてくれるのですか?」
容之進の目が瞬く。
そんな弟に、兄は下唇をつき出した。
「やめろっつって素直にやめるような、聞き分けのいい子じゃねえだろ」
「…まあ」
「な?じゃあ、はなっから無駄な努力はしねえ方がいい」
嘘ではない。
嘘ではないが、本心でもなかった。
認めることで破滅に対する怯えが付き纏うようになるのだから、本当は「やめろ」とわめき散らしてやりたい。
その体を筵で巻き付けて幽閉し、どこにも行かせないようにしてやりたい。
父に告げ口し、こっぴどく叱ってもらうのも一つの手であろう。
しかし、そうしたところで弟の気持ちを変えることなどできはしまい。
こうして話すことで、その志がどれだけ強いか悟ってしまった。
何より、ここが己の居場所と思える所を見つけた弟から、それを取り上げてしまうことはできなかった。
だったら、と思う。
だったら、腹を括るしかねえじゃねえか。
不意に、容之進が手をついた。
そして、低く頭を垂れる。
「なんの真似でえ」
「ありがとうございます」
くぐもった声が、耳に入る。
正太郎は腕組みをし、その頭を見下ろした。
「許してくださって、ありがとうございます」
「おめえ、勘違いすんなよ。許してはねえぜ。こんなことやめますって言うのを、俺ぁまだ待ってるんだ。あくまで、見て見ぬ振りをしてやるってだけだぞ。それに、俺だけだからな。父上どのがお許しくださるかどうかは、また別の話だぜ」
「それでも、心強い」
ゆっくりと、頭が上がる。
その瞳が潤んでいるのに気付き、正太郎は口をひん曲げた。
「なんで泣いてんだ」
「だって…」
「だってじゃねえよ。男が泣いていいのはな、女にふられた時だけだぜ」
「………」
一瞬で、その瞳は乾いた。
そして、容之進十八番のため息が漏れる。
「私が間違っておりました」
「おう、よく分かってんじゃねえか。ほら、もっぺん頭下げな。申し訳ございませんってよ」
「………」
「あっ、おい、すぐそうやって背中を見せる。武士が背中なんて見せてどうすんだ」
「花魁に通うことを己の夢と定める武士は、どうするんですか」
「いい夢じゃねえか。達成できたら拍手もんだぜ」
ぺらぺらと書物の紙が捲られる。
どうやら容之進は兄の相手をするのをやめたらしかった。
正太郎はそんな弟の背を見つめ、でかくなったなあ、などということをとりとめもなく考える。
どうか、この無謀な若者に災いが降りかかりませんように。
どうか、どうか。
そう、心の内で何度も願う。
荒波に向かう少年の背は、それでもなお幼子のそれと重なった。
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