旦那、訝しむ


たかの屋の戸には、心張り棒はかかっていなかった。


こんな朝早えのに、もう開いてんのか。


そう不思議に思いながらも、正太郎はするりと戸を横に滑らせる。

と同時に「ああ、やっぱり」という声が聞こえた。


「なんでえ、いつからたかの屋は朝から開くようになったんだい」


敷居を跨ぎながら、正太郎は声の主に向かって茶化す。

弥吉は机の上を布巾で拭くのをやめ、入ってきた二人に苦笑いを向けた。


「ちげえやすよ。昨日、なんだか慌ただしかったんで、こりゃ明日もここで集まるにちげえねえと思ってたんです」

「大した勘だな。おめえ、岡っ引きに向いてんじゃねえか」


ふふんと笑う正太郎。

弥吉は「旦那ももう、うちの常連ですから」と眉尻を下げた。

そして、そのまま奥へと行ってしまう。


正太郎と総司は、いつもの席に座った。


「熱いですから気を付けなすってくだせえ」


弥吉は盆に湯飲みを二つ載せて戻ってくると、そんなことを言いながら二人の前にそれらを置いた。

どうやら湯も沸かしてあったらしい。

本当に気の利く店主である。


「ありがとう」


総司はにっこり笑うと、さっそくずずっと一口すすった。

しかし、やはり正太郎は手を付けない。


「あの」


ことりと湯飲みを置き、小さく首を傾げる総司。

正太郎は肘をつきながら視線を彼に向けた。


「さっき、土方さんのことでタカと笑ってたじゃないですか」

「ああ、笑ってたな」

「何のことなんです?」


正太郎は口角をにやりと吊り上げた。

総司がこのことについて聞きたくて、ずっとうずうずしていたことに気付いたのである。


「知りてえか」

「ぜひ」


らんらんと光る目。

それはまるで、無邪気な子どもを装った、狼のような目だった。

そんな総司を見て、こいつも大した狐だぜと舌を巻いてしまう。


「俺がまだ見習いだった頃、奉公人がつまみ出される、まさにその瞬間を見たことがあるのよ」

「まさかその奉公人が、土方さん?」

「まあそのまさかなんだが、そう急ぐな。おもしれえのはこっからなんだ」


正太郎は身を乗り出した。

総司も「なんですか」と耳を大きくする。


「たまたま俺が亀店の前を通りかかった時に、こう、店の前に大の男が何人も並んでてよ、まだガキの手代に向かって、恩知らずだの犬畜生だの喚いてたんだ。しかも大通りでだぜ。そりゃまあ、野次馬もたくさんできるわけだ」

「そのうちの一人が」

「俺ってわけなんだがよ」


けらけらけらけら。

正太郎は声に出して笑う。


「でも、まさかあの土方さんが、黙って大人しくやられてたはずないですよね」

「あたぼうよ。あいつも啖呵切って、ざけんじゃねえ、揃いも揃ってひょっとこみてえなツラしやがって、それで女の一人や二人孕ませられんのかよ、と、こうくるわけだ」

「やけに詳しいですね、旦那」

「あんなおもしれえ場面、忘れられっか」


本当に楽しかったぜ、と正太郎はにやにやが止まらない様子。

総司も思わずつられて笑ってしまった。


「なーんて、まあ実は土方が消えちまってから、店のやつらに根掘り葉掘り聞き出したんだけどな」

「どうしてそんなことができたんです。まだ同心じゃなかったでしょうに」

「へっ、見習い同心だぜ。立派な同心さ」

「そういうの、なんて言うか知ってます?屁理屈って言うんですよ」

「いいじゃねえか。ちょろっとそいつらの一人を呼び出して、この騒ぎは何事か、事によっては番所まで来てもらおうかって言っただけだぜ」

「それもなんて言うか知ってます?職権乱用って言うんですよ」


総司の、実に適切な言葉たちに、正太郎は肩をすくめるだけである。

反省の色は、まったくない。


「まあとにかく、そのつまみ出された理由ってのが、女だったんだ」

「女?」


茶を飲んでいた総司がむせた。

ごほごほと苦しそうである。

しかし、正太郎はそれを眺めているだけだ。

そして、彼が落ち着くのを待って、続けた。


「なんでも、店の女中を孕ませたらしくてな。じゃあ所帯持とうかって話にもならず、店としては迷惑でしかねえってわけだ。で、どっちか放り出さなきゃならなんねえ、どっちにするってんで、選ばれたのが土方ってわけだ」


瞬きを繰り返す総司。

それに対し、神妙に頷く正太郎。


「でもあの人、ことあるごとに女には気を付けろって…後腐れがないようにしろって言ってますよ」

「そりゃ、経験者は語るってやつだろ」


その言葉を聞き、総司は「ふっ」と吹き出した。

あはははと体を曲げる。


「そうなんだ!あはっ、あはははは!なんだ、土方さん、あはははは!」

「お前、いくらなんでも笑いすぎじゃねえか?」


とは言うものの、彼につられてなんだか正太郎までにやにやと顔が緩んできてしまう。


「今はあんなにすました顔してるのに、何やってるんですかね。あははは」

「まあ、ちげえねえな。それにしても、憐れなのは相手の女だろうよ」

「それはそうですねえ」


ぴたりと笑い声がやむ。


「その女中はどうなったんです?」

「さあ…そういやあ、聞かなかったな。子を産むまであそこにいたのか、まだいるのか…どうだろうなあ」


正太郎は首を捻り、すぐに元に戻した。

大事なのは「お堅いふりをしている土方が、実は遊び人」という事実だけらしく、その前後関係にはあまり関心がないようである。


「そういや、他の二人、今日はいねえのか」

「ああ、来てないですね。平助の方は玄武館かも」

「そうか」


で、とようやく湯飲みに手を伸ばす正太郎。

やっと飲める具合に茶が冷めたらしい。


「聞き込みは?」


小さく首を振る総司。

微かに眉が寄っている。


「出てきませんでした。誰に聞いても、おうめさんしか知らないと」

「うーん」


正太郎は拳骨で、己の頭をコツコツと叩く。

そうすることで、何か妙案が浮かぶかもしれないとでもいうように。


「なぜだ?なんで埃が出てこねえ。絶対にあるはずなんだ」


そうでなけりゃ、納得できねえ。


「たまたま…ってことは、ないか」


総司もそう言って、目を伏せた。

そう、「たまたま」ではないのだ。


誰が?

なぜ?

どうやって?


不自然な今回の事件に、その三拍子は必ず揃っている。

「故意」の三拍子が。

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