第26話 俺は誰だ
男は、完全に記憶を失っていた。自分が誰で、今まで何をしていたのかも思い出せなかった。しかし身体中に無数にある刀傷を見ると、自分はどうやら戦いに明けくれていたようだと思った。
ところが、今は心の底から戦いたくない気持ちで一杯だった。きっと、戦いが嫌いで逃げて来たのだろう、と男はそう考えた。
逃げる最中に、崖から転落して運良く海から突き出ている岩に引っかかったのではなかろうか?、と思った。
頭の中は、ずっと白いモヤで覆われていて、本当に何にも思い出せなかった。思い出そうとすれば、するほど、頭の中のモヤが大きくなって来るのがわかった。
「どうしたのですか? もしかして、記憶をなくしたのではないですか?」
海女さんの中で一番若い子が、優しく助け船を出してくれた。
「海に落ちた人には、よくある事ですよ。落ちた時の衝撃で、自分が誰か忘れてしまうんです。でも、何日か経つと思い出すみたいだから、今は無理して思い出さなくても良いですよ。無理に思い出そうとしても、簡単に思い出せるものではないですし、思い出せない自分が辛いだけです。取り敢えず、この小屋で体を休めてから今後の事は考えればいいじゃあないですか」
新之助は、彼女の優しい言葉に安心感を感じた。それと同時に、女性の声に何かが引っかかる感じがした。
「お心遣い、ありがとうございます、若い海女さん。しかし、いつまでもここに居たら貴女方のお仕事の邪魔をする事になります。どこか、空いている小屋でも有ればそちらに移動します。どうせ、記憶が戻れば自分の村に帰る事になると思います。それまでの仮住まいとして、雨露をしのぐ場所があれば良いのです」
男は、自分の名前を無理に思い出すのを止めて、しばらくこの場所に世話になろうと考えた。
「分かりました。確か私の小屋の裏に、今は誰も住んでいないあばら家があったと思います。どうぞ、その家を使ってください」
「ありがとう、若い海女さん。そうだ、お名前を聞いていませんでしたね。海女さんのお名前を教えてください」
「はい、私の名前は、おユウと申します。貴方の名前はどうしましょうか?」
「私ですか? 助けていただかなければ、そのまま深い海の底に沈んでいたと思いますので、シン、とでも呼んでください」
「分かりました、シンさん。それでは、私たちはもう一仕事して来るので、それまではこの作業小屋でお休みください。目立った傷は無さそうですが、あの崖から海に落ちたのですから、何がしの傷はあるでしょう。しばらくは体を休めてくださいまし」
「ありがとう、おユウさん」
そう言って、新之助は再び横になった。横になって、海に落ちる前の事を一生懸命に思い出そうとした。しかし、全く思い出せない。全ては真っ白い闇の中だ。
ただし、何か大事な事を守ろうとしていた事だけは覚えていた。失った記憶というよりも、心や体が覚えているといった方が良いのだろう。
何か、自分にとって一番大事な事をしている最中に、突然その仕事を取り上げられた、そんな感じだ。
俺は一体何をしていたのだろう? ここで、休んでいる場合ではないような気がする。しかし、それでは何をすれば良いのか? それさえもわからない。俺はなんて不甲斐ないやつなんだ!
*** *** ***
それから、約450年。何世代にも渡って生まれ変わって来たのに、その間に思い出せなかった事だった。新之助は、この時代の今になって、やっと思い出したのだ。自分が誰で、何をすべきなのか。
高校生で同級生の可愛い優香を守るために、代わりに暴走車に引かれて。やっと、今、思い出したのだ、450年前の真実を。
そうか、俺は優香姫を守るために、イエヤスの軍団と闘っていたんだ。そして、足元が崩れてバランスを崩して海に落ちたのか。
三河のイエヤスと言えば、歴史の教科書で出て来るのは、江戸を築いた徳川家康だろう。俺は、あの徳川家と愛する優香姫を取り合って喧嘩していたんだ。
結局、優香姫はどうしたのだろう? 無事に逃げおおせたのか? それとも、イエヤスに捕まって、大殿の側室になってしまったのか? 今となってはどうする事も出来ない。どうして俺は、そんなに大事な事を450年も忘れていたんだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます