狂気、闇、傘、雨
和泉茉樹
私、狂人なのです
◆
私が狂気に囚われている。そう評価する方も多いでしょう。
最初に私の狂気に気づいたのは誰でしょう?
誰かが私に言いましたね。
あなたが楽しそうにしているのが気にくわない。
お前は小さい時から狂っていた。
そうです、お父さん、あなたです。あなたがすべての引き金を引いたのですよ。
私が狂っているとして、世界の何が狂っていないのか? 私の狂って思考が、狂った瞳が描き出す、狂った私の中の、世界は、全てがやはり狂っているのでしょうか?
私が暮らす世界はどこですか?
私が吸っている空気は、足をつけている大地は、いったいどこなのですか?
そんなものはないのかもしれません。いわば私はあなたたちの世界に間貸している、全くの異邦人、根本的に異なる存在なのかもしれませんね。
聞こえてくる音は同じもの。見えている文字も同じもの。喋る言葉も同じもの。
しかし私は狂っている。私が感じるそれらは全て、歪みきったレンズを通した、間違った、本物とはかけ離れた何かなのでしょう。
私の命とはなんですか?
いっそ素早く消し去ってほしい。
私が狂いたかったと思いますか?
望んで狂ったと?
そんなことがあるわけがない。しかし狂ってしまった。
いいでしょう。狂っているとしましょう。
生まれてきたくなかった。こんな狂った意識しか持てないのなら、私は生まれてきたかったとは、とても言えない。
正気な人間とは、残酷なものですね。
正気というラベルがありますか?
狂気というラベルはあるのに、正気というラベルはない。
あなたたちが私の狂気に恐れ慄くことを、私は望みます。
あなたたちが定めたのですよ。
私が狂っていると。
狂っているも何もないじゃありませんか。
あなたたちが無謬を証明する日を、私は待つことにしましょう。
私という誤謬を抱えたまま、証明できますか?
私の存在という染みが、べっとりとというた正気という真っ白な生地を、どうやって綺麗にするか、純白を取り戻すのか、観察しましょう。
あなたたちの世界から、狂気を消し去るために、あなたたちが狂気に堕することを、見ようではありませんか。
◆
私はノートパソコンのキーボードから手を離し、軽く手首を捻る。ずっと続けていると強ばってしまう。
視線を窓の向こうに向けると、雨が降っている。梅雨時なのだ。
改めてモニターの中を確認し、一度頷いて、コーヒーに手を伸ばす。
締め切りがあったのは昔の話。今は自由な、何にも縛られない一人の人間になった。
仕事がないことは、あまり私には危機感を与えない。仕事のために生きているわけではない、というとあまりに投げやりだが、詳細に表現すれば、仕事があるから生きているのではなく、生きるために仕事をする、ということを言いたい。
これは長い遺言だから、仕事ではないし、気楽なものだ。
仕事として文章を書いていた時も、それ以前の夢というものへ向かって文章を書いていた時も、今ほど自由ではなかった。
その理由は私にはわからない。
まったくの想像だが、最初は助走、次が跳躍で、今はただ崖下へ向かって落ちていく、そういうことかもしれない。
もう何かを蹴ることも、踏み切る必要もなく、自由に落ちていく。
最後にはどこかに叩きつけられて、バラバラになる、という寸法だ。
一度席を立って、冷蔵庫の中を見た。大したものはない。
なけなしの食料で早めに昼食を作り、特に感慨もなく胃に収めると、洗い物をして、素早く身支度を整えた。
外へ出て、ビニール傘を広げる。雫が傘を打つ音は昔から好きだった。
雨の匂いも好きだ。
ゆっくりと前に踏み出し、私は歩き出した。
財布も持たずに外に出ることに慣れたのはいつだったか。もう欲しいものはほとんどない。今さら服を買っても仕方ないし、食べ物も最低限でいい。アクセサリーも、本も、何もいらないのだ。
お金さえあれば何でも自由にできるかもしれない。
時間さえも、あるいは買えるかのかも。
でも今の私の立場に立てば、お金に頓着しない生き方もまた自由だ。
ぼんやりと和菓子屋の前を通り過ぎる。欲望は一瞬で置き去りにされた。
グラグラっと目眩が来たけど、よろめくほどではない。最近、よくあるのだ。
図書館に入り、少しだけ傘を盗まれる不安を感じつつ、横目にそれを見てから、新しく入った本の棚を眺める。不思議と最新刊ではない本がいくつかある。
それも軽く流し見ただけで、すぐに外へ。もちろん、傘はちゃんとある。
雨の中へ踏み出したはずが、ほとんど降っていなかった。傘を畳んで、先へ。
これからどうしよう。
どうしようというのは、夕飯をどうしよう、とか、そういう日常的なものではなくて、どうやって死ぬのかな、自分の最後はどんなだろう、そんな疑問だ。
飢えて乾いて、そのまま眠るように死ねるのか。
どこかで車の前に飛び出すか。
それとも首を吊る?
お腹を包丁で切り開くかもしれない。
でも結局、私はそのどれも選択できない。どこにも辿り着かずに、ふらふらと、明日が来るのだ。
あまりにも愚かしい。どうして私が生きているのか、誰も教えてくれないし、答えなどないようである。
私の責任なんだろうか? しかし、なぜ?
私を生んだ母も、育てた父ももういない。妹とはもう何年も会っていない。
孤独を感じたことはない。むしろ孤独は好きだ。
だが、孤独は私に何ら意味を与えない。影にように寄り添い、時には私を暖めさえするが、それだけだ。
今日も部屋に帰って、その孤独と私はピタリと寄り添い、夜を迎えるだろう。
帰りがけにコンビニで豆腐を買った。ポケットに入っている小銭で事足りた。好きなわけではなく、ただ目に入って、これかな、という程度の理由しかない。
部屋に戻り、ああ、傘をコンビニに忘れてきた、と気づいた。明日まであるだろうか?
執着はあっさりと消えて、明日でいい、となった。
豆腐を冷蔵庫に入れて、部屋着に着替え、パソコンの前に座る。
続きを書かなくちゃ。
◆
あなたは私が子どもの頃、こう言い聞かせましたね。
自業自得だ、と。
私が狂ったのも自業自得なのでしょう。もっとも、生まれてきてしまったこと自体が業なのかもしれませんけれど。
では、狂った私をこの世に生み出したあなたは、どうして平然としているのですか?
私は生きたい。
しかし全てが私を否定している。あなたたちも私を否定しましたね。
良い気持ちでしたか? 楽しかったですか? 胸がスッとしたことでしょう。
私は私自身のことを、サンドバッグのようなものだと考えた夜がありました。
あなたたち、正気の人間は私を狂っているとなじり、徹底的に否定すれば、それで済むのでしょうね。
お前は狂っている、お前は間違っている。
私には反論できません。私は狂っているのでしょう。私は間違っているのでしょう。
あなたたちから見れば、と前置きしたところですが、あなたたちという言葉が大きすぎると、どうやら私の言葉は弾けるタガのように、無意味になるようです。
私はよく考えます。自分が生きている意味を。
誰かのいいなりになるために、私はいるのでしょうか? 誰かの正しさを証明するために、それとは正対する、間違った存在として、私はいるのですか?
私がいなくなれば、自分たちの存在の正しさが証明されるということですか。
人間がよって立つのに必要な、地面としての私。
これは少し冗談に聞こえますね。訂正しましょう。
地獄に落ちる人間を設定してこそ、天国が成立する、ということでしょうか。
汚れきったドブの中で這いずる存在がいてこそ、美しい街並みがより美しく見える。
素晴らしい考えですね。
あなたたちは、私の言葉には耳を貸さない。
あなたたちは、私の言葉を言葉とは受け取らない。
私は獣なのでしょう。人間以下の、ただの獣。人の皮を被った、野獣。
ただ吠えているだけ。唸っているだけ。
あなたちからはそう見えるのですね。あなたたちの平穏を乱す、騒々しい存在。集団を解さない存在。低い知性、弱い知能、何もかもが足りない、人間失格、人よりも程度の低い、人のようなもの。
素晴らしいじゃありませんか。
ではお尋ねしましょう。
あなたたちは何者ですか? あなたは何者ですか?
隣にいるその正気の男、正気の女に尋ねてみればよろしい。
私は正しいですか? と。
どんな返事が、反応があるでしょうね。
私の予測ですか?
おそらくその男か女は、無言でかすかに微笑むでしょう。
正しいとも、間違っているとも言えずに。
あなたたちは下を作っただけなのです。私という狂人、下の下にして、人間以下の存在。
だけど、それより上は?
狂人である私を徹底的に否定し、打ちのめし、壊し尽くしたあなたたちは、結局は一つの群れとして、蠢いている。
そしてそのぐちゃぐちゃした塊の中で下の方へ追いやられると、私を見るのですね。
狂人がいるぞ、終わった人間がいるぞ。
自分は下ではない。最下層ではないんだ!
私はそんなあなたたちを見て、笑うのです。
そして手招いてみせましょう。
私の狂気は、あなたたちの中にも隠れていることを、暴いてみせましょう。
◆
気付くと朝で、机に突っ伏して眠っていた。
鳥が鳴いている。雨は上がったのだろうか? コンビニに傘を取りにいかなくちゃ。
身支度をして外へ出ると、曇り空だった。それもどんよりと重い雲が空を覆っていた。コンビニにはまだ傘立てが表に出ていて、そこに私の傘はあった。良かった。
買い物をしてあげたかったけど、今は小銭すらない。
部屋に帰って、米を炊いた。待つ間に、何度も読み返した本を確認するように読んだ。ドキュメントで、テレビ番組から派生した本らしい。
創作はなかなか読めない。現実を上回る創作があれば、読んだかもしれない。
でも今の私の現実に勝る創作はないだろう。
私の精神の均衡が狂った時、私を打ちのめしたのは、理解、というものがいかに愚かしいか、ということだった。
世の中には理解という言葉があり、誤解という言葉がある。
私も理解か誤解、どちらかしかこの世にはないだろうと思っていた。
だけど、実際には違う。
解することをしない、そういう態度があるのだった。
無理解、という言葉もあるが、それとはどこか違う気もする。無理解な人間からは距離を置くことができるし、近づけなければいい。
しかし私のそばには、私を支えると言って、しかしその実、私のことを少しも考えていない人間が一定数、存在した。
私は必死だった。おそらく周りにはそうは見えなかっただろう。
低いところをウロウロして、進歩がない、そう思われていたはずだ。
それが私の精一杯で、つまり、沈んでしまわないようにしていたのが、私の努力の結果だった。もちろん今となっては、それさえも無意味だった、とわかったのだが。
狂っていく私の支援を申し出た人々は、正気を自負する人々で、私は彼らが、いずれ私を彼らの仲間として受け入れるために支援を申し出たのだ、と考えた。
実際にはそれは私の勘違いだった。
彼らは仕事として、つまりお金を稼ぐために私の支援を買って出たのだ。
これを社会では福祉というらしいが、すでに私からすれば形だけの言葉、むしろ唾棄すべき言葉、憎むべき言葉だ。
私も医療の現場や介護の現場をいくつか見たが、福祉ほど不自然なものはない。
医療は患者の治療や回復の見返りに金銭を得る。
介護は、生活の面倒を見て金銭を得る。
では、福祉とは?
私はあまり辞書を引かないが、福祉というのは、幸福のことらしい。
では福祉を仕事とする人間は、幸せを与えることとなるが、あの人たちは幸福を与えてお金を得る、という立場だったことになる。
幸福を与える?
私は幸福を与えられたことがない。幸福への道筋をつけることだろうか、彼らの行ったことは。本当に?
私が狂っているとして、狂人を一か所に集めたとして、彼らは何をやったのか。
様々なことがあったはずだが、私のことに関しては、つまるところ、私という人間を利用した、ということになる。
彼らは私を招き入れ、どこかからお金を受け取っていた。
私はそれを深く考えなかった。
彼らが私を狂人と改めて認識し、支援が不可能と表明するまでは。
素晴らしいことじゃないか、と私はさすがに感嘆した。それ以外に何ができるだろう。
人間を一人、良いように操って、それで生活ができる。
私は彼らこそが狂っていると感じた。何かがおかしい。結局、彼らも世の中の正気というラベルと、狂気というラベルが貼られていない、という形で保障する、そういう役目を負っているのだろう。
私は本を読みながらも、そのことばかりを考えた。
私が狂っている。私は狂っている。
誰も私に寄り添わないし、私を理解しない。影だけが、私のそばにいて、じわじわと私を食い潰していく。
楽なことじゃないか、と私は本を閉じた。
何もしなくても、私の周囲では何かが起こる。
そのうち、私も死ぬだろう。
それこそが、最大の救済なんだろう。
私はじっと目を閉じて、そこにある不完全な暗闇を睨み据えた。
◆
あなたたちが狂人を意識する時、なぜそんなに平然としているのか、私には疑問でなりません。いえ、それこそが大多数である正気の人間の余裕なのでしょうけど。
私が包丁を持っても、あなたたちは平然としているでしょうね。
狂人が狂気に駆られている。あなたたちは笑うでしょう。
可笑しいでしょうね。私も可笑しいです。
さあ、あなたの隣人を一人、物言わぬ形に変えてみせましょう。
次にもう一人、さらに一人。
さあ、あなたはどんな顔でそれを見るのですか?
ここに一台のテレビがあります。
では画面の中に、そんな生きていない人たちを入れてみましょうか。
ほら、余裕でしょう? 笑うでしょう? 嘆くでしょう?
さっきまであなたの隣にいたのに?
あなたたちは私を狂人だという。実際にそれを理解しているのでしょうか。
あなたたちは一人の人間を決定的に狂わせているのですよ。
何をもたらすのか、わかってそうしたのなら、見上げたものです。
私は狂っている。
狂っているとは、なんでもできるということです。
あなたたちは私という人間を暴走させ、暴れ回らせている。それが制御できる間は愉快でしょうね。叩き伏せ、罵り、私が意気消沈して倒れこんで、動かなくなれば、これこそ、してやったぞ! というものでしょう。
そんなことを続ける人間に正気が欠片でもあるとは思えませんが、少なくとも、あなたたちはそれを形にした。
形にして、私を潰しに潰して、全てを破壊し尽くしたのです。
そして私はグズグズに溶けて、流れ出しました。
さあ、足が汚れますよ、服が汚れますよ。
お逃げなさい。お逃げなさい。
汚いものからお逃げなさい。
私という狂気の泥から、逃げなさい、逃げなさい。
あなたたちが生み出した狂気が、あなたたちに触れる前に。
見えないように。
聞こえないように。
私の狂気をどこかに押し込めて深く埋めてしまいなさい。
あなたたちは正気なのでしょう?
あなたたちは正しいのでしょう?
さあ、あなたたちの正気を、証明しなさい。
私という汚れがない、美しい世界で、何が真に美しいかを、競えばいい。
あなたたちの中から、汚れを探り出して、暴き出せばいい。
あなたたちが見つける新しい狂気が、そこにありますよ。
◆
私は夕日を見ながらキーボードから手を上げて、また手首をマッサージした。
夕飯は豆腐と白飯、ワカメの味噌汁で済ます。風呂に入って、じっと考えた。
あとどれくらいの時間を生きなくてはいけないのか。
どこかに幸福が見えるだろうか? いや、見えない。
お金がない、住むところがない、食べるものがない、そんなこと全部の以前の問題として、私には希望がない。
誰が間違ったのか。私が間違ったに決まっている。
もっと別のやり口があっただろう。でも私は選択を間違った。
自分を支えてくれるものを見誤った。正気の人間の善意を信じすぎた。
人間というものの汚さ、ずる賢さを学ぶには遅すぎたな、と私は湯船の中でぼんやりと思った。もっと早く気づいてもよかった。それこそ、子供の時に。
ああ、でも私は狂っていたんだった。
気づけなくても当然か。
最初から間違っているのだ。
視界の隅でカミソリがキラリと光った気がした。自然と視線が吸い寄せられ、離された。
いつかは死ぬのだ。形はどうあれ。
あのくだらない支援者気取りの人たちは、今も楽しく生きているだろう。私のような狂人の面倒を見ることで、お金を儲ける人々。狂人が狂気を見せれば、体良く切り捨てて、平然とするあの正気の方々。
まったく、ありがたいとしか言えないな。
幸福とはなんなのか。少なくとも、私を不幸へ落ちていくのを、誰も止めなかった。支えてくれる人がいないのは、私の不徳だろうか。それとも運が悪いだけ?
人間を理解するべき、といった人がいたな。
今でも愚かしい言葉だと思う。あの人は人間を理解していただろうか。
少なくとも、私を理解することはなかった。
愚かしいことだ。私も、なんて愚かなんだろう。
そう、生まれてきた意味はあったのかもしれない。支援者にお金を恵む、そういう装置としては、私は役に立ったのだろう。
不愉快だが、私の不愉快で笑う人間がいるのだ。
私は湯船から出て体を拭い、居間に戻った。髪の毛をタオルで拭いつつ、外を見るともう日が暮れている。
長い夜が始まる。
夜は好きだけど、嫌い。
静かは好き。明日が来るのが、嫌い。
私は椅子に座って、パソコンの様子を見る。
◆
私には楽しいと思えることがないのです。
世の中には光が満ちているのですか? でもそれは私には見えませんでした。
私の狂った瞳には、何も映らないのかもしれません。
あなたたちが笑いますね。私も笑えるのなら、笑ったでしょう。
お前が笑っているのは気にくわない。
私の光が失われた時、あなたはどんな気持ちだったでしょう。
怒りですか? 嗜虐ですか? それとも言った後に、しまった、と思いましたか?
どちらにせよ、あの一瞬で私の命は終わり、光が永遠に消えたことを、ここにはっきりさせておきましょう。
あなたたちは愉快でしょうね。
狂人が家族からいなくなり、実にスッとしたことでしょう。
この狂った存在はもう関係ない。都合よくそう思ったことでしょう。
私の苦しみ、地獄の始まりに、あなたたちは笑ったのです。
私が苦しみ、のたうち回ってもあなたたちは平気だった。
見えない光を探して地面を手探りで進んでも、あなたたちは手を貸さなかった。
優しさ? そんなものではないですね。
あなたたちは楽しかったのでしょう。一人の人間が潰れていくこと。
それともう一つ。
あなたたちは人間を潰すことが、楽しかったのです。
ずっとそばにいた人間を傷つける。まともな神経ではできることではありません。
しかしあなたたちはそれを実際に形にして、私を打ちのめし、そして潰すことができた。
それも全部、私が狂人だからなのでしょうね。
狂人ならいくらでも打擲し、再起不能になっても、それは自分のせいではない。
お前が狂人だからお前は立てないのであって、私たちのせいでは断じてない。
そういう主張なのでしょう。
私にはわかりません。私は一人で立つことができたのか、それともできなかったのか。
あなたたちが何もしなければあるいは立てたのかもしれない。
実際はもう過ぎたことです。あなたたちは私を決定的に破壊して、私は今、這いつくばっている。ほとんど地面を舐めるようにして、ここにいる。
恨む? 憎む?
当然のことでしょう。私があなたたちを憎悪しなければ、私はまさに狂人だったでしょう。
狂人のラベルが貼られているのは私です。それがあなたたちを救っていると、理解しているでしょうか。
私は私の中にある憎悪を、狂気というものと同じ容器に入れて、封じているにすぎません。
もし私が狂人ではなく、あなたたちが狂人であれば、様相は違ったでしょうが、そんなもしもは考えても仕方ない。
私は持て余した憎悪を必死に封じ込めて、苦痛や苦悩に耐えて、地に這っているのです。
いいですか?
私の世界を暗闇のどん底に叩き込んで、あなたたちは笑っているのですよ。
愉快でしょう、愉快でしょうとも。
それは良かった。
私という存在が、あなたたちを愉快がらせたのですから。
私という存在が失われることにも、意味があるのでしょう。
ただ無駄に、ただの怒りの標的として消える。
素晴らしいではないですか。
◆
目をさますと、私は居間の真ん中に転がっていた。
久しぶりにしっかり眠った気がしても、どうにもすっきりはしない。肩が痛いことで、まだ生きていることが理解できた。
私はよく、死ぬなら眠るように死にたい、と思う。
塩素ガスでそんな風に死ねるのだろうか。練炭も、どうなのだろう。
理想的な死に方は、命を終わらせるスイッチをパチンと弾くようなイメージ。ドラえもんの道具にありそうな感じだ。
昨日炊いた白飯が保温されているので、それに賞味期限が今日の生卵を入れ、醤油と少しの砂糖を加えて、卵かけ御飯にして流し込んだ。
外を見ると、やはり今日も曇っている。そういう時期なのだ。
やることもなくリビングでさっきまで眠っていた場所に寝転がってみた。
何をやろう。何でもできる。
それなのにやる気は少しもなかった。私という人間を今まで動かしていた原動力は、全部がごっそりとどこかへ運び去られたらしい。
ちらっとパソコンを見る。
ずっと前に、死ぬ日はいい日、という歌詞の曲を聴いた。
今日は少なくとも、死ぬのにいい日ではない。
でも本当に?
実は今日こそが一番、いい日なんじゃないか?
来るはずの明日に期待している自分が、なんとも情けなく思えた。立ち上がって台所へ行く。さっきまで使っていた茶碗を手に取る。
思い切り、壁に叩きつけた。
甲高い音を立てて粉々になった茶碗の欠片が飛び散る。
じっと壁を見て、床を見た。
何も感じない。
何も感じない自分に、余計に絶望した。
明日から、何でご飯を食べようか。
居間に戻る途中で、茶碗のかけらを踏んだ。痛みも私の心を大きく揺することはない。今の真ん中で、やっと傷を確認し、ほんの小さな切り傷だった。お風呂で滲みるだろうな。
しばらく足を投げ出して座ってから、のろのろとパソコンの前に移動した。這い上がるようにいて椅子に座る。無意識に手首を回していた。
死ぬにはいい日。
椅子の上からもう一度、窓の向こうを見た。
曇り空から、雨はなかなか落ちてこない。
◆
あなたたちが正気を理解するのに、私の狂気を利用したとして、それは私の狂気には関係ないのでしょう。
私の狂気は私の狂気。
あなたたちの正気は、あなたたちの正気。
私には今、正気と言えるものは一つもありません。まさに全てが失われ、汚され、傷を負っている。そうしたのはあなたたちですが、あなたたちには何の罪悪感もなければ、そもそも、私を打ちのめしたことさえ、記憶に残っていないのでしょう。
そろそろ長い夢が終わるときでしょう。
あなたたちのすぐそばに、私がいないことを祈ればいい。私があなたたちに怒りを、憎しみを叩きつけないことを、願えばいい。
祈ろうと、願おうと、私の狂気を止めることはできないけれど。
あなたたちが私の狂気を加速させ、今もまだ走らせ続けている。
私の狂気に、私自身が疲れました。
私は自然でいたい。普通でいたい。
でもあなたたちは、お前は狂っている、お前は間違っている、と繰り返している。
私の自然はどこに消えたのか? 私の自然では、狂っていることなのか。
もうこれ以上は狂えない。これ以上は、私が私でなくなってしまう。
私の中の私までが、全て狂気に塗り替えられてしまう。
助けてください。
私の狂気が私をとり殺してしまう。私が私の内側に飲み込まれて、私は本当の虚ろになってしまう。
何も感じない私。
何も口にしない私。
もう私はどこにもいない。
狂いに狂った私という存在は、いなくなってしまうのが定めですか?
何が望まれていたのですか? 望みを叶えられなければいなくていい存在ですか?
私はどこから来たのですか? 誰が望んだのか、教えて欲しいのです。
私には、何も残っていない。
あなたたちは私に何を望んでいますか?
私にただ、傷つくことを望んでいるのですか?
私を最後のひとかけらまで、すり潰すことが、望みですか。
私はもう、生きてはいない。
死んでいないが、生きてはいない。
無です。
揺らがない波。
広がらない波紋。
刹那で凍りついた、終わらない闇。
私は生きていない。
あなたたちが私をそこで、永遠の苦しみに陥れている。
苦しい。
恨みます。憎みます。
しかしそれさえも私には許されない。
私は狂っている。狂っている人間は何も感じてはいけないのです。
私は何も感じない。
私には何も残されていない。
狂っていること以外は。
◆
私はふと目元に光が差した気がして、目を細めた。
顔を上げると、雲の切れ間から光が差していたけれど、見ている前でそれはふっつりと途絶えてしまった。
私に何ができるだろう。
生きているだけの私にできることは、何もない。
誰のためにもなっていない。
ただ呼吸して、消費するのみの、虚しい存在。
早く全てに別れを告げたかった。いや、別れを告げる間もないほどあっさりと、全てから手を引きたかった。
どこか、行ける場所があるだろうか。
誰もいない場所。誰も来ない場所。そんな場所が近くにあるだろうか。
片道切符でもいいのだ。私には戻るべき場所もない。
行けるところまで行って、そこで全てを終わらせれば、それでいいじゃないか。
癖になっている動作で手首をほぐしてから、立ち上がった。
散らばっている茶碗だったものを避けながら、玄関へ。途中で思い返して、久しぶりに財布を手に取った。今度こそ外へ。
どこか蒸しているのはさっきの日差しのせいもありそうだった。
今日は傘は持たなかった。雨に濡れるくらい、なんでもないだろう。どうせ私は狂っているのだ。一人で昼間に雨に濡れながら歩いていても、誰も気にしないし、私も気にしない。
いっそ、奇声でも上げて歩こうか。
そうすれば周りの皆さんは、さぞかし不審がり、それで夕食の席を盛り上げることだろう。
私は特に決めずに歩き続けた。
雨は降らない。雨が降れば、何かが洗い流されると妄想するのは、やはりおかしいだろうか。
と、頬に何かが当たった。
ポツポツとアスファルトに黒い点ができたが、それが見る見る間に増えて、アスファルトの色が変わった。
雨だ。私の黒い感情を、洗い流してほしい。
もっと、もっと降ってくれ。
私の全てを、どこかへ、押し流してほしい。
気付くと、部屋の前に立っていた。全身、ずぶ濡れで、私はそこに立ち尽くしている。
鍵は? ポケットを探るけど、感触がない。
落としたのか。探しに行かないと。
外を見ると、雨はザアザアと降りしきっている。
鍵を探しに行く気力はあっさりと消えた。
ドアに背を預けて座り込み、私は空を見上げた。
雨だ。もっと降ればいいのに。
全部が見えなくなるくらい、強く、強く。
私が見ている前で、雨のカーテンの向こうがみるみる霞んで行った。
◆
私の正気がどこに消えたのか、私にはわかりません。
私の狂気は、私の正気。
私はずっと狂っていたのでしょう。
最初からないのですから、少しも正気などないのです。
狂気に塗り込められたこの私という闇を、あなたたちは好きに利用すれば良い。
傷ついても、闇は傷つくことがない。
やりたいだけやっつけても、闇には形がない。
それでも私の闇は傷つき、私の闇は激しく歪む。
しかしそれはあなたたちにはわからないのでしょうね。
私は今の苦しんでいる。
あなたの存在に苦しんでいる。
私という狂気に、苦しんでいる。
苦しんでいるのです。
狂うほどに。
(了)
狂気、闇、傘、雨 和泉茉樹 @idumimaki
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