第4話 そして私は罪を犯した

 その日から私は毎日病院に通い詰めた。

 学校があるから日が暮れた時間になってしまうが、それでも足繁く通った。


 あやは、そんな私をいつも優しく微笑みながら迎えてくれた。


 絢の記憶は以前として戻っていない。戻る兆候さえない。

 医者の話では戻る可能性もあるという事だが、絢が目覚めてから一週間経った今でも誰一人として思い出せずにいた。


 人や物、風景や学校の話を色々聞かせて、思い出すキッカケを作るのが大切だとも言っていた。


「絢、果物買ってきたの。良かったら食べない?」


「ありがとう、いただきます」


 今日はお土産に果物を買おうと決めていたので、予め鞄に入れておいた果物ナイフを取り出して林檎に刃を当てる。

 林檎の皮をナイフで薄く切っていく。赤い絨毯のように小皿の上に折り重なる皮を見て、絢は不思議そうに呟いた。


「皮切るの、上手なんだね」


「うん。昔から林檎の皮を剥くのは得意だったから。絢がうちに来たときにも同じように目の前で剥いてあげたの、覚えてる?」


「……ごめん」


 謝る絢のおでこに、私は指で軽く突っつく。


「謝るの禁止って言ったでしょ。絢は悪くないんだから」


「……そうだったね。ごめん、結梨ゆうり


「また謝ってる」


「ふふ、ほんとだ」


 笑い合う私と絢。

 この瞬間が、すごく幸せだった。

 勿論、絢の身体は一刻も早く治ってほしいし、記憶だって戻ってほしい。

 でも、こうして二人きりで笑って過ごせるこの時間は、何よりも幸せだった。


 三日月のような形にカットした林檎を小皿に並べて絢に差し出す。


「絢、林檎できたよ」


「ありがとう、結梨」


 絢は努めて私の呼び名を気にしているところがある。まだぎこちないけれど、ちゃんと結梨と呼んでくれるのは嬉しい。

 ベッドの横に付けられたボタンを押すと、ベッドがゆっくり持ち上がり絢の上体を起こす。

 小さなフォークを絢に手渡してあげた。


「ねぇ、今日は学校では何かあった?」


「うーん、そうね……」


 林檎を食べながら会話を弾ませる。

 絢の記憶を揺り起こす助けになれば良いと思って、学校での生活や授業の内容とかを話している。

 絢は静かに頷きながら聞くけれど、を聞いているような反応で、少し寂しくなった。


「そっか……そんな事があったのね」


 寂しそうに笑う絢を見ると、胸が大きな手で握られたように苦しくなる。

 陽だまりのように暖かだった絢の影はどこにもない。

 それが、とても悲しい。


「私の友達って他にもいるの?」


「いるよ、沢山。絢は明るくて元気だから、みんな絢のこと好きだったよ」


「そうなんだ……。

 じゃあ、私に好きな人はいた?」


 びきり、と何かがひび割れる音が聞こえた気がした。

 私は右手で胸を押さえて、心臓が割れていないかを確認する。


 絢の好きな人…………。


「…………」


「……大丈夫? 結梨」


 絢の好きな人──葉波はなみ順平じゅんぺい

 彼の名前はまだ一度も出していない。ピアノや音楽などの、葉波君を連想させる言葉もまだ絢の前では出したことがなかった。


 それはきっと、私が嫌だったからだ。

 葉波順平の存在で絢の記憶が戻ったりしたら、絢の中では私よりも葉波順平の方が大きな存在になっていたことになってしまう。

 私は、それが怖かった。

 私の名前で記憶が戻らないのに、葉波順平で記憶が戻るなんて、耐えられない。


 だけど────


「結梨?」


「あ、ごめんね。絢の好きな人ね、確かにいたよ」


 正直に言おう。

 私は絢の親友で、相棒だ。

 絢の記憶が戻るなら、それに越したことはない。万々歳だ。両手を振るってお祝いできる。


「ど、どんな人なの? 私が好きな人って」


「それはね──」


 絢が横を歩く。幸せそうに腕を組みながら、登下校を共にする。

 ……その横にいるのが、葉波順平だとしたら。

 葉波順平と付き合うことになれば、そういったことも増えるだろう。私と一緒に過ごす時間も減るだろう。恋人らしくデートにも行くだろう。手を繋いで、キスをして、ひょっとしたらそのまま上手くいって結婚するかもしれない。


 そうしたら、私は────




「──絢の好きな人はね、私なの」


「え?」


「私たち、付き合ってたの。女の子同士だけれど、互いを愛し合っていたの」


 その日私は、一つの罪を犯した。

 永遠にゆるされない、重い罪を。


「そう、なの……?」


「うん。私たちは、恋人なの」




 ひび割れた何かが音を立てて崩れていくのを、遠くに聞いた気がした。

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