第32話 思い浮かばない謝礼と原稿

末期とはいえ締切を落とすわけにはいかないし、落としてまた仕事があるとも限らない。

だから喫茶店が閉まる少し前まで、いつもの席で頑張った。

マスター、いつもコーヒーと場所の提供ありがとうと心の中で呟きながら。


会計して帰ろうとすると、マスターから珍しく声をかけられた。


『封筒を届けて頂いたことを覚えていらっしゃいますか?』

「え?あ、はい」


音無さんから奏さんへと連想が繋がり、

少し悲しい気持ちになったのは内緒だ。


『あの謝礼がまだだったなと思いまして』


約束なんかしてないし、謝礼なんか初めから貰うつもりでやったわけじゃない。


「気にしないでください、いつもあの席で長居させて貰ってますから」

『でもそれは注文をちゃんとしてくれているから当然の権利ですよ』


マスターの言うこともまた的を得ている。

少しだけ考えて…


「なら、もしも…もしもまたあの席に音無さんの封筒が忘れてあるようなことがあったら、また俺に届けさせてくれませんか?」


なぜか口走ってしまった自分の言葉に、

どんだけだよと思ってしまう。


『謝礼がまたお使いでは…』


困るようなマスターに被せ気味に答える


「ですよね!だからえっと、あ、今度大事な打ち合わせの時にでも、あの席を予約させてください」

『そんなことでよろしければ』

「ありがたいです、それじゃ」


急いで店を出る。

変なやつだと思われてないといいなぁ。


もう外は暗くて、足早に家路を急ぐ。

シャワーでも浴びてスッキリしてから追い込み作業にしようと、とりあえずパソコンに電源を入れるだけ入れてシャワーに向かう。


シャワーを浴びている間、

パソコンのメール受信ボックスが、受信を知らせていることを俺はまだ知らない。



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