第125話 間違っちゃった

 おかしいな、と周りを見渡すが、廊下を流れていく人の波の中に彼女の姿は見当たらない。

 待ち合わせの時間、間違えたかな。

 不安にかられてスマホを出し、メールを確認する。


「やっぱ……三時に視聴覚室前だよな」


 まだ、十分しか遅れてないんだが……今まで、待ち合わせに遅れたことのない彼女のことだから、それだけで心配になってしまう。

 校内で迷子になるなんてことはまず間違いなく無いんだろうけど、今日は文化祭で学外の人もわんさかいるし、変なやつに絡まれてたりしたら――なんて、嫌な予感がよぎって、ぞくりと背筋に悪寒が走った。

 居てもたってもいられず、クラスを見に行ってみよう、とスマホをしまって、歩き出そうとした時だった。


「圭くん!」


 喧騒の中でもはっきりと聞こえるその澄んだ声に、俺はハッとして振り返り――そして、息を呑む。

 ふわりと長い艶やかな黒髪をなびかせ、人ごみの中から現れた彼女に、一瞬にして目を奪われる。燦々と注ぐ朝日の如く、清らかで眩いそのオーラは目に見えるようで、彼女が現れた途端、その場がたちまち光に満ちるようだった。空気さえも歓喜に沸いているかのごとく、軽く感じる。

 慎ましくも優雅で、儚くも凛として。麗らかな野に気高く咲く一輪の花を思わせる。

 そんな彼女に、一瞬にして周りの視線も釘付けになり、どよめきが広がる。そんな注目の中、歩む姿はもはや神々しくて、身に纏う紺のセーラー服がまるで修道服に見紛うほど。


「遅くなってごめんね。――お待たせ、圭くん」


 俺の前まで来て立ち止まり、ちょっと照れたように身をよじらせ、嬉しそうに目を細めるその仕草のなんと麗しいこと。

 そんな純情可憐の権化たる彼女と、その隣に佇む、茶髪にピアスという派手な出で立ちの男とのギャップに、胃もたれさえ覚えて――。


「って……誰だよ!?」


 と、先に声をあげたのは、俺ではなく、その男だった。


「あ」と、彼女は思い出したように振り返り、開いた手の先で俺を指し示す。「お付き合いさせてもらってる彼です」

「え……!?」


 これでもかというほど目を剥き、愕然とする男。聞いてねぇよ――という心の声がはっきりと聞こえてきそうだ。

 その様子に、薄々と……いろいろ察し始めていた。


「印貴――この人は?」


 一応、訊ねてみると、


「さっき会ったの。お友達が急用で帰っちゃって、一人で暇してるんだって。どこか人気のない暗いところに行きたい、て言われて……良いところがあります! て連れてきたの」

「ああ……やっぱり」

 

 そういうことか――と、俺は頭痛のようなものを感じつつ、がくりと頭を垂れた。

 松江先輩の件もそうだったが……印貴の純真さは少し心配になる。もはや、無防備。疑心というものが感じられない。初めて会ったとき、蘭香さんが俺を試すようなことをしてきたのも、今なら頷ける。

 あまりに人を疑わないから危なっかしくて、こと男に関しては不安にもなる。でも、印貴のそういうところも好きなのは事実で、変わって欲しくないと思うから。だからこそ――と、俺は顔を上げ、にこりと取ってつけたような作り笑みを浮かべた。


「中で映画やってるんで、見てってください。真っ暗で、びっくりするくらい人もいませんよ。俺たちが付き合うきっかけになったキスシーンありマス」

「見るか、そんなもん!」


 かっと青筋立てて、男はそんな捨て台詞を吐いて、踵を返す。

 ですよねーと心の中で同意しながら、その背中を見送る俺の傍で、「え? え?」と印貴は戸惑いもあらわにあたふたとしていた。

 ショックそうな印貴を見ていると、良心が痛む。

 サド喫茶もあり、部員でもない印貴は、上映会の手伝いができず、気を揉んでいた。だから、『人気のない暗いところ』を探している『暇人』を見つけて、大張り切りで映画の呼び込みをしてくれた――つもりだったんだろう。

 さっさと去ってしまう男の背中を、心底残念そうに未練がましく見つめ、印貴は「あの……」と声をあげた。


「おととい、来やがれ――じゃなかった、また来てくださいね!」


 ぎょっとしたのは俺だけでなくて、周りを往く通行人もだった。

 可憐な少女の口から、やんわりととんでもない言葉が飛び出したんだから、当然だ。

 印貴はかあっと頰を染めると、口元を押さえて、隠れるように俺の傍に寄り添ってきた。そして、羞恥に揺れる瞳で俺を見上げ、


「間違っちゃった」

 

 くそう……と後悔がこみ上げ、拳を握りしめた。サド喫茶、行きたかった――。

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