最終章
第118話 順調です……おかげさまで
「ねえねえ、あの人? 噂の……」
「そうそう! 意外だよね。もっと目立つ人なのかと思ってたけど。なんていうか……地味? すごい真面目そうだけど」
「インテリっぽいよね。頭良さそう〜」
「いや……眼鏡だからって、頭いいとは限らなくない?」
ほんの少しだけ開けた視聴覚室の扉から中を覗きながら、そんなことをコソコソと話している女子生徒が二人。重苦しい紺の分厚いそのセーラー服は、間違いなくうちの高校の冬服。そもそも、あの噂の話をしてるんだから、間違いなく、校内生だろうが……。
俺はわざとらしく咳払いをして、
「あの……今、中で上映中なんで、扉は開けないでもらえますか?」
ハッとしてこちらに振り返った二人は、「はーい」とか「すみませーん」とか悪びれた様子もなく口々に言って、視聴覚室の扉を閉めた。
「もうすぐで、次の上映始まるけど、どう? ついでに見ていきません?」
一応、言っておこうか、という事務的な口調で、俺の背後から顔を出した万里が言った。
すると、二人は顔を見合わせて何やら視線でやりとりをして、にこりと満面の笑みでこちらに振り返った。
「結構でーす」
「ノンノン先輩が好きだ、ていう津賀先輩、見に来ただけなんで」
「あ、あと国平先輩も!」
「やっぱ、かっこいいよねー、国平先輩! なんで、国平先輩じゃなくてあっちの先輩なんだろうね? 私だったら、絶対、国平先輩だよー」
「えー、私はイケメンすぎて無理かも〜。絶対、年上の彼女とかいるよ。人妻と不倫とかしてそう!」
「分かるー!」
全く分からない。人妻と不倫なんて……国平先輩、アナフィラキシーショック起こすよ。
きゃっきゃきゃっきゃ、とそんな話で盛り上がる二人に、こちらの生気を吸い取られていくようだった。一気に疲れが……。
俺も万里も言葉も出ずに立ち尽くしていると、すれ違いざま、
「あ、永作先輩! セラちゃん先輩とは順調ですかー?」
先輩、と俺を呼ぶということは一年か――。
たった一つしか、学年は違わないのに……キラキラと若さ漲る期待の眼差しは眩しいほど。その情熱は羨ましいが、もっと別のことへ向ければいいのに、とも思ってしまう。
俺はふうっと一呼吸置いてから、
「順調です……おかげさまで」
こうして見知らぬ生徒からやたらと祝福の声をもらうようになり、嫌という程鍛えられた表情筋を駆使して、作り笑顔で手を振った。
すると、きゃーと二人は自分のことのように大喜び。「お幸せに」なんて言って、嵐のようにあっという間に去っていく。
名前と顔くらいしか知らないような人のことで、これだけ全力で喜べるというのは尊敬すべきことではあるよな、なんて思いながら、階段へと流れる人だかりの中に消えていく二人の背中を見送っていると、
「そんな律儀に答えんでもいいでしょうに」
視聴覚室側の壁に背をもたれかけ、隣で万里が呆れたようにぼやいた。
「いや、まあ……別に隠すようなことでもないしな」
「へえ……」
意味ありげにそう相槌打って、万里は持っていたイチゴミルクの紙パックにストローを差すと、口に咥えて飲み出した。
わいわいと活気溢れる喧騒が校舎の中に響き渡っていた。ときたま、校内放送で、体育館の出し物の案内が流れてくる。ポスターやら風船やら、手作りの装飾やらで、いつもより賑やかに彩られた廊下を、見慣れた制服に混じって、私服姿の保護者やら、卒業生やら、他校の生徒やらやら……まさに老若男女が忙しく行き交っていた。
夏休みが明け、新学期に入り――十一月。あっという間に文化祭の時期になっていた。
葉が色づき、肌を焼くような日差しは柔らかな陽気へと変わり、街を駆け抜ける風を薄ら寒く感じるようになってきたころ、約半年ぶりの学ランに袖を通した。
学ランや紺のセーラー服がうろつく校舎の中は、心なしか重苦しい雰囲気に変わり、受験を控える三年生の教室からは、張り詰めた緊張感が漂ってくるようになった。
窓から見える景色も変われば、校舎の中もまるで季節の移ろいに合わせるように変わっていき、そして、噂も……。
「変わったよね、圭」
ふいに、ストローを口から離して、ぽつりと万里が切り出した。
「余裕できたっていうかさ……なんか、男らしくなった……?」
「何だ、急に……俺の誕生日はまだだぞ!?」
「知ってるわ! 来月でしょ。てか、誕生日に何を期待してんのよ!?」
怒りで興奮したせいか、頰を赤らめて「ああ、もう」とため息つき、万里はイチゴミルクを俺のほうに差し出してきた。
「甘すぎ。あと飲んで」
「まだ一口だろ!? 珍しく、甘いの飲んでるなーて思ったら……やっぱ、飲めねぇんじゃん」
「飲んでみたくなったの。あるでしょ、そういうとき」
「よく分からん……。好きじゃないのになんで選ぶんだ?」
呆れながらも受け取って、俺も万里の隣で壁によりかかった。
壁の向こうから、俺や国平先輩の棒読みが漏れ聞こえてくる。去年もそうだったが……上映を始めてしまえば、もういろいろと手遅れなわけで。恥ずかしいを通り越して他人事になってくる。下手だなーと呑気に思いながら、イチゴミルクを口にして……引くほど甘くて、思わず吹き出しそうになった。これじゃ、万里は飲めないわけだ、と同情すら覚えた。
「すっかり、『噂の彼』の座、奪われちゃったね」むせる俺の隣で、茶化すように万里が切り出した。「――津賀先輩に」
「だな」と、苦笑してしまった。「津賀先輩、胃潰瘍にでもなるんじゃないかと思ったけど、思いの外、気にしてないみたいでよかったよ」
「まあ……早見先輩が三年生の間でとんでもない情報統制を敷いて、津賀先輩の耳に入らないようにしてるみたいだから、本人は気づいてないだけだと思うよ」
「情報統制……!?」
そうだったのか。知らなかった。
早見先輩……とんでもない情報統制ってなにやってんだ? さすが、というか……恐ろしいというか。津賀先輩のためなら手段を選ばず、徹底的にやりそうだ。
なるほどな。
通りで、あの津賀先輩がケロッとしてるわけだ。色恋沙汰になると途端に石化してしまう津賀先輩のこと。『ノンノンが三年の津賀道広を好きらしい』なんて噂を耳にしていたら、どうなっていたことか。まず間違いなく、花音と顔を合わせた瞬間、大志を抱けそうにもないひ弱なクラーク博士像に早変わりだ。そんなことになっていたら、と想像するだけで胸が痛む。せっかく、津賀先輩と映画を観に行くようになって、花音も楽しそうにしてるのに……。
よかった――と心底思う。どんな手を使っているのか、想像するのも恐ろしいが、早見先輩には感謝すべきだな。
「それにしてもな〜」急に、万里がほとほと残念そうに情けない声を漏らした。「思ったより、今年もお客さん入らないね。結局、津賀先輩の身内と国平先輩のファンばっかり。せっかく、印貴ちゃんとあんたのキスシーンを押し出して宣伝してたのに。二人が付き合うきっかけになったキスシーンありマス、て」
「そんなことしてたのか、お前は!?」
こっちはこっちで、とんでもない情報操作してんじゃないか。
「本当のことだし、いいじゃん」と万里は唇を尖らせて小憎たらしく言った。「印貴ちゃんも『そういえば、そうだね』て喜んでたよ」
「印貴……」
ああ、もう……どんだけかわいいの。
万里に怒る気がすっかり失せてしまって、
「まあ、結局のところ、噂してる奴にとっては他人事だからな」ぼんやりと向かいの窓から秋晴れの空を見上げて、俺は力なく苦笑していた。「せっかくの文化祭で、自分の貴重な三十分が映画に奪われるとなれば……話は別なんだろ。そこまでじゃない――てだけの話だよ」
それに……と、ふと思い出し、思わず、持ってるイチゴミルクを握り潰してしまいそうになった。
「印貴を観たかったら、わざわざ映画見に来なくても、本人に会いに行けばいいだけだからな」
ぼそりと言うと、万里が「あ」と納得したような声を漏らす。
「そっか、迂闊だったわ。そりゃ、そうよね。印貴ちゃん目当ての客は、あんたとのキスシーンなんかより……そっちに流れるか。しかも、印貴ちゃんのクラス、メイド喫茶だったっけ?」
「いや……」
メイド喫茶だったら、まだよかったのかもしれない。
イチゴミルクの甘みが一瞬にして吹き飛ぶほどの苦々しさを覚えながら、俺はぐっと堪えるように顔をしかめて答える。
「サド喫茶だ」
「サ……なに!?」
「サドと茶道をかけた――メイド服を着た女の子が、ものすごい蔑みながらお茶を淹れてくれるという新感覚の喫茶店らしい」
「新感覚すぎでしょ! 誰が喜ぶのよ、そんな接客!?」
正直、俺もちょっと行きたい――とは言えず、「本当になー」とやはり無様な棒読みで相槌打った。
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