第13話 オドとグラーネ
十年前。不死の丘。
ある日の早朝、グラーネは洗濯をしに籠を頭に載せて川へ向かおうとしていた。
グラーネは早くに親が死に、兄弟もおらず、一人で暮らしをしている三十路近い女だった。
明るい茶色の髪を後ろで束ね、細面の顔は化粧気はないが割かし整っていて、光を取り込んだ琥珀色の瞳はよく動き愛嬌があった。
いつも通る道端にうつ伏せに男が倒れているのを発見したグラーネは飛び退いたが、籠を放り出して男の元へ走った。
体格の良いその男は旅装なのかもしれないが、腰に帯刀していて、少し物騒な雰囲気を漂わせていた。
「貴方、どうかしたの? 具合でも悪いの?」
黒い癖のある蓬髪の中からうめき声と共に出てきたのは、意外にも凛々しい眉をした彫りの深く男らしい端正な顔立ちだった。
男は顔が赤く、黒い目もどんよりしていた。病に冒されているようだ。
グラーネは男の額に触れてみた。熱がある。
「大変」
グラーネは男を抱き起して腕を肩に乗せると、そのままひきずるようにして家に引き返した。
家の戸を開けてベッドに寝かせると、男がうわ言のように何かを喋り出した。
しかし体力を消耗しているのか、男は唇だけ動かしているようにしか見えず、グラーネは耳を近付けた。
「水……水をくれ」
「わかったわ」
グラーネは水甕から水を汲んで来て、男を起こしてからコップの水を口元に近付ける。
男はほとんど身体をグラーネに預けている状態だったが、コップを傾けると喉が動いた。
しばらくしてからコップを離すと、男の唇から吐息が流れて、それから初めてグラーネの方を見た。
「ありがたい。俺の名はオド。わけあって諸国を流浪している身だ。旅の途中で病に冒されて参っていた。この借りは、必ず……」
「いいわよ別に。倒れている人を放っておくわけにはいかないから……ただそれだけよ」
男の黒目は聞いているのかいないのか、上を向き始めた。よほど身体が辛いのだ。
陽が沈み始める頃、男は虫の息となった。
死にゆく男を見守るグラーネは、悲嘆にくれていた。
孤独な身の上で、さらに人の死を目の当たりにするのはどうにも辛かった。
(そうだ。アルジェ様)
族長のアルジェ王に頼ってはどうだろう。
アルジェは霊的な力で不死の丘の民人を外敵から守り、病んだ者を治癒することもできる尊い存在だ。
窓から見える、夕陽に染まった王の鎮座する城塞に一縷の望みを託し、グラーネが家を飛び出した時だった。
王のの側近、ロシス将軍に遭遇した。見回りをしているらしく、歩きの小姓を従えて馬に乗った、銀髪と澄んだ水色の大らかな優しい瞳の二十代半ばの大男は、名家イサイ家の長男だ。
「ロ、ロシス様」
「グラーネ、何事だ?」
ロシスに言われて、グラーネは自分が涙していることに気付いた。
気が動転してうまく説明できずに、泣きながらロシスに家の中を指し示した。
異変を感じて馬から降りたロシスは、グラーネを軽く押しのけて小姓と共に家の中に入った。
「この男は?」
閉鎖的な集落の者らしく、ロシスはよそ者の存在に過剰な反応を示した。
ロシスは鋭い目付きでグラーネを睨み付ける。
「洗濯の途中で見つけて……道端で倒れていたんです」
「病のようだな。息絶えようとしている」
「アルジェ様のお力をお借りするわけにはいかないでしょうか」
「王はよそ者は助けん。お前もわかっているだろう」
絶望的な言葉を叩き付けられて、グラーネは哀しい溜息を漏らした。
オドの顔色は、刻々と不吉な様相を呈していく。
見殺しにするしかないのか。
ロシスは意気消沈するグラーネに憐みの眼差しを注いだ。
「お前がこの男と結婚するというのなら、話は別だが」
「え……」
「丘の者なら、アルジェ様は慈悲の手を差し伸べてくださるだろう」
グラーネは少し考えた。
家族がいてくれたら、と思うことはよくあった。
一人よりも、二人の方が心強い。
グラーネは、今にも息絶えようとしているオドの元に歩み寄り、彼の手を取って膝を着いた。
「……私の夫になってくれる? そしたら、命が助かるかもしれないわよ」
返事はなかった。オドはもはや言葉を発する力を失っていた。
グラーネは振り返り、ロシスを見上げた。
「ロシス様、私はこの男を夫として迎えます。説得しますから、どうかこの男を助けてください」
「では連れて行こう。こいつを馬に乗せろ」
ロシスは側にいる小姓に命じてオドを馬まで運ばせた。
瀕死のオドを馬に乗せ、三人は王のいる城塞に向かった。
木材と石で造られた堅牢な造りの城塞の奥にある謁見の間にて、高座にある椅子に背後に帯刀を控えさせて座るアルジェの前に、ロシスは片膝を着いた。
不死の丘の人間を不思議な力で守護し導くアルジェ王は、常に漆黒の衣装に身を包み、白皙の肌に長い黒髪、全てを見透かしたような黒い瞳の超然とした美貌の青年だ。
アルジェが先代の跡を継いで王になってから、数十年経つ。だが彼は就任した二十六歳当時のままの容貌を留めている。修養を積んだ彼は、気を操り若さを保っているという噂だ。
「何事だ?」
「グラーネが道端で行き倒れた男を介抱しております。死に瀕しておりますので、王のお力を借りたく参上いたしました」
「私は同胞しか助けない。それはお前もわかっているはずだ」
アルジェの閉鎖的で冷たい言葉にロシスは一旦頷いてから、言葉を継ぐ。
部屋の外には小姓とグラーネと瀕死のオドが控えていた。
「承知しております。ですが、グラーネはその男を夫として迎えたいと考えております」
「夫として……よそ者をか」
「独自の歩みを遂げたこの丘に住む者達は同郷の者との婚姻が多く、今や丘の者ほぼ全員が遠縁ではありますが血族となってしまっています。果たしてそれは、良いことでしょうか。どうか、ご寛恕くださいますよう」
ロシスの額には汗が浮かんでいた。
廊下に待機しているオドの容態が刻々と悪くなるのが、不死の丘の名家の者に義務付けられた霊的な修行によって感覚が鋭敏になっているロシスには手に取るようにわかるからだ。
それはアルジェも当然、わかっている。それでいて、ひじ掛けに肘を付き頭を預けてけだるげに考えあぐねているのだ。
アルジェは、しばらくして少しだけ頷いた。
「ロシス、お前の言う通りだ。身内ばかりの婚姻では、子孫に悪影響を及ぼす。グラーネがその者を気に入って夫に迎えたいと言うのなら、助けてやろう。ここへ連れて来い」
それを聞いてロシスはすぐに廊下の三人を呼んだ。
担架で運ばれて来た男を見て、アルジェはおもむろに椅子から立ち上がった。
高座から降りたアルジェは、目を閉じ、息絶えようとしているオドの前で深呼吸を始めた。
半死人の微かな吐息に合わせて、静かに息を吸い、吐き出す。
完全に呼吸を合わせてから、冥府から呼び戻すように力強い呼吸を始める。
ロシスとグラーネ、ロシスの小姓は息を飲んでその光景を見守った。
アルジェに寄り添う黒い長髪の帯刀だけが王の力を信じ切っているのか、表情を変えずに静観していた。
数十回の呼吸が繰り返された後、オドの胸が上下するのが見て取れるようになった。
土気色だった顔色は血色を取り戻し、全身に生気が漲り始めた。
それはまるで死人が蘇ったような光景だった。
やがてオドの閉じていた瞼が震え、次第に開いていった。
見慣れない天井を見て驚いたのか、オドは弾かれたように起き上がり、左右を見回した。
「流れ者にしては端正な顔立ちをしているな」
観察するアルジェの声に、オドは彼の方を向いた。
「あ、貴方は……? 病に冒され向こうの岸に向かっていたのが、不思議な力でこちらへ引っ張られました。貴方のお陰なのですか?」
「左様。私はこの不死の丘の王、アルジェだ。お前を同胞として認める。これからは側にいる女の夫として生きるがよい」
振り返ったオドはグラーネの親愛の瞳にぶつかり、頭を掻きながら、弱ったような安堵したような複雑な面持ちをした。
「私に安寧の地が与えられるとは……しかも、こんな美しく優しい妻まで。ずっと介抱してくれていたの、憶えているよ」
「──有難うございます、アルジェ様」
グラーネは頬を染めて、アルジェに感謝した。
アルジェは微笑を浮かべて帯刀と謁見の間を後にした。
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