第2話 カノエ
それからカノエは普通の人間のように成長し、十の齢を数えるようになった。
秋のある日、籠を手に、カノエは森の中で山菜を探しあぐねていた。
探しているのは山芋の葉や茎に付いている実だ。炒って塩を振って食べたり米と一緒に炊くと美味しい。父のオドの好物だ。
オドは昔、片目を怪我したので見えなくなって眼帯で覆っている。
理由を尋ねても、オドは教えてくれない。グラーネも困ったような顔をするだけだ。
オドは片目が不自由でも腕が立つので、城塞の衛兵として務めている。
家庭持ちのオドは、大体、いつも朝早くにグラーネの作った弁当を携えて家を出て、完全に陽が沈む前に帰って来る。
たまに夜勤もあるが、今日は夕に帰って来る日だ。
どれくらい時間が経っただろう。ふいに視界が暗くなってカノエが汗だくの顔を上げると、大樹の枝葉から零れる空の光が少し暗くなっていた。陽が翳り始めたのだ。
カノエは森に夕飯の山菜を取りに行くよう母のグラーネから言いつけられて、昼に家を出たのだった。
だが母の言う山菜はなかなか見つからずに、森の奥まで来てしまった。
随分村から離れてしまったように思う。もう帰らなければ、道が不明瞭になり、夕飯にも間に合わない。
父のオドが仕事から帰って来る前に山菜を渡さなければ。
ようやく少しの収穫にあり付けた頃、徐々に肌寒さが増し、上着だけではしのげなくなりそうな気温になってきた。
カノエは帰りを急いだ。少ししか穫れなかったが、仕方がない。
似たような風景が続く森の中で、カノエはいつの間にか方向感覚を失ってしまっていた。
どちらが家のある方向なのか、わからない。せめて城塞の屋根でも見えればいいのだが、森の木々が高く生い茂っていて、まるで確認できない。
こんな時に限って、近所の老人から聞いた話を思い出す。
この森はひと昔前の争乱の時代に不死の丘が山賊の襲撃に遭った際に戦場になった場所らしい。女子供は城塞に逃げたが、男達は勇ましく戦ったということだ。
そのせいで、森には倒した敵や人々の骨が散乱していて、怨念が渦巻いているのだという。
グラーネの父、カノエの祖父もその戦で落命したらしい。
心細さも手伝って、木々の陰影が物の怪に見え始め、カノエはひどく怖ろしい気持ちになった。
足が竦んで弱っていると、暗い森の向こうから黒い装束を纏った人間がこちらへ歩いて来るのが見えた。
人間は若い男で、長い黒髪をなびかせて、悠然と歩いていた。
風格のある遠目にも美しい青年が誰だかわかって、カノエの心から恐怖が去り、今度は別の意味で立ち竦んだ。まだ一人で対峙したことはない相手、一族の王のアルジェだ。
アルジェはにこりともせず、カノエに近付いて来た。訝しんでいる様子だ。
「お前はオドの息子だな? 名前は確か……」
「カノエです。アルジェ様……」
「陽が沈んでいるのに何をしている? 親が心配するぞ」
「母の言いつけで山菜を取りに来たんですが、道に迷ってしまって……」
「では私と来い」
アルジェはカノエの手を取り、来た道を引き返した。
茂みから虫の音が聞こえる足元もおぼつかない夜道を歩きながら、カノエは隣を歩く青年を見上げた。
黒ずくめの青年は闇の化身のようで、横顔は皓々と照らす月のようだった。
「アルジェ様はどうして……こんな暗い森の中に? ここは、昔戦があった場所だと母から聞きましたが」
「その通りだ。未だに浮かばれない魂が浮揚している場所だ。夜の闇は彼等の負の心を助長させ、物騒な場所となる。波長が合うと存外に心地よいのだ」
「波長が合う……」
「私だとて、心が荒れる時はある……」
突如、黒い霧のようなものが二人の前に立ち塞がった。
人の形を取ろうとして、すぐに崩れ、輪郭がはっきりしない。
アルジェはカノエを自分の背に隠し、呪文を唱えた。
黒い霧は霧散して、辺りに静けさが戻った。
「怖れることはない。私がいる」
アルジェは怯えるカノエの肩に手を載せた。
冷たいかと思われた彼の手の平から温もりが伝わってきて、カノエは安堵した。
霊魂がうろついている怖ろしい場所でも、彼がいれば怖ろしくない。
森を抜けて家に戻ると、家の前でオドとグラーネが待っていた。
傍らにいる王の存在に驚きながら、オドはカノエに近付いて抱き締めた。
「カノエ、一体どうしたんだ。暗いから心配していたんだぞ」
「山菜を採りに行っていたの。でも道に迷って……アルジェ様とお会いして……助けていただきました」
「そうだったのか。王よ、感謝いたします」
オドとグラーネは深々とアルジェに礼をした。
その頃にはアルジェの側近達が彼の元に集まっていた。
「無事に親元に送り届けたので私は帰る。オド、カノエの森の幸を堪能するとよい」
アルジェは言って、一家に背を向ける前にちらりとカノエを見た。一瞬、彼の冷徹な双眸は和んだ。
そして王の一行は城塞に戻って行った。
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