鏡1
かがみ【鏡/鑑/鑒】の意味
Ⅰ・人の姿や物の形を映し見る道具。古くは青銅、白銅、鉄などの表面に水銀に錫をまぜたものを塗って磨いて作った。形は方円、八つ花形などがある。
Ⅱ・(鑑・鑒)人の手本。模範。「人の鏡」。
私の行為が、あの黒い禁忌を開け放ったことが私に直接的な死を齎すことはなかった。しかし、報いがあったことは確かだった。
ある時から、私の狭い世界が慌ただしくなる。ご主人様は日毎に忙しくなり、今までのような生活をすることが出来なくなった。ご主人様はその理由を口にはしなかったが、ご主人様の仕事に何かしらの……恐らくは、悪い方の変化が起きたのだということだけは理解できた。
不思議なのは、こうしてご主人様と私との生活が緩やかな下降線を描いて没落しつつあるというのに、私は何処かご主人様と自身の心の距離が縮まったような、そんな感じがしていたのだ。私があの禁忌に触れたことで得た感覚は、優越感や不安感といった嫌悪されるべきものもあったが、それ以上に、ただご主人様のその心に近付くことが出来たというある種の自信と、不均衡な安心感の方がずっと強かった。
そうした予感、予兆の後、とうとうある時を境にして、ご主人様と私のこの狭い世界は、唐突に終わりを告げた。
「青薔薇。この家を引き払おうと思う」
そう言ったご主人様の目には、明らかに疲れの色があった。
「家にあるものはどうするのでしょうか」
「捨てる。このマンションの焼却炉に殆どのものを投げ込む。流石に本を焼くのは忍びないから、何とかしようと思うが……もし、家にある持ち運びの容易いもので、君が要ると思うものがあるなら、それは先にとっておいて欲しい」
「差し出がましいでしょうが、これからの生活は……」
「金は何とかなる。ただ、色々な事情があって、ここを出て行かなければならないことだけは変えようがない」
「私達は、逃げるのでしょうか」
「そうだ、青薔薇。私と君とで、逃げ出すんだ」
私とご主人様は、互いの顔を見つめ合う。家中に、沈黙が広がっていく。
ご主人様はしきりに手元の時計を見ては、何度も私の顔を見直した。私はその顔を見て、悲しくなった。何か、彼を、ご主人様の心を和らげるような、そんな言葉をいえたら。そう思った。
私は、言った。
「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す」
ご主人様は目を見開いた。
「あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたをより強く支配することになる」
ご主人様の顔に、笑みが浮かんだ。
ご主人様は言った。
「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのせいで呪われてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、茨と薊を生えさせ、あなたは野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得て、ついにあなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだったのだから、ちりに還らなければならない」
私は言った。
「創世記第3章。第16節から19節」
「アダムとイブをエデンの園から追い出した時に神が言った壮大な恨み節だな」
「酷い話ですよね。ちりですって」
「事実、聖書において人間はちりから生み出されているからね」
私はその顔に微笑を浮かべ、言った。
「じゃあ、アクターは何から生み出されたんですか?」
「培養液と成長促進剤。そして創造された受精卵からだね」
そう言い合って、私とご主人様は朗らかに笑った。私達は今この家というエデンの園から追い出されようとしているのに、その心は例えようのないほど晴れやかだった。
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