俳優

はい―ゆう【俳優】の意味

Ⅰ・舞台に立って、また演劇・映画などで、演技することを職業としている人。役者。

Ⅱ・〈Ⅰの意味から転じて〉ヒトクローン技術によって生み出された人々によって俳優業及び女優業が独占されたため、デザインされたクローン人間を俳優(アクター)と呼ぶ。







浴室の中。シャワーから流れ出る湯が私の身体の泡を、汚れと一緒に流してくれる。排水口から、水の吸い込まれる音がする。私は、曇り止めのついた浴室の鏡を見た。

ボディソープの泡は私の汚れを流してくれる。私の身体の表面についたあらゆる不愉快なものを流してくれる。ただし、私の身体に取り付く青い痣だけは残されたままだった。

「汚い……」

 まだ私があの店に居た頃、時間の許す範囲で青痣を洗い流そうと、必死で身体を洗っていた時期があった。だが、あの青痣の上に赤い擦り傷が出来るばかりで、青痣が取れることはなかった。

私は、この青痣が嫌いだ。そしてこの青痣があるが故に、私は自分自身も嫌いで嫌いでしょうがなかった。この青痣は足枷であり、汚れであり、呪いだ。私はこれを持つが故に様々な困難に遭遇し、安売りされた。そして何より、この呪いは永遠に消えはしないのだ。

それでも、実のことを言うと、以前よりも青痣は減っている。私のことを嫌う他のアクター達によってつけられた『本物の』青痣が、ご主人様に買われて以来、治癒しつつあるからだ。そのようにして消える青痣がほんの僅かであると自覚はしながらも、私は内心喜びを隠せないでいた。

身体を洗い終えた後、私は自身の身体を拭き、服を着る。店に居た頃は面倒で仕方のなかったロングヘアの手入れも、ご主人様が買ってくれた最新のドライヤーのお陰で、すんなり済むようになった。

浴室を出て、私は今一度この住居に存在する部屋をおさらいしておこうと考えた。

この住居にはフローリングを中心に、六つの部屋が存在し、部屋の扉がそれぞれ別の色で塗り分けられている。

先程まで私が居た浴室と洗面器のある部屋は青い扉。キッチンのある部屋が赤い扉。寝室が壁と同じ白い扉。トイレが黄色の扉。書斎が茶色い扉。そして最後に、絶対に立ち入ってはいけないと言われた黒い扉の部屋。

部屋の一つ一つが、私が昔寝床にしていた場所よりも広く、清潔であったので、ご主人様が命じれば私はトイレの部屋の中でも眠れそうだと思った。何せトイレですら、かつての私の寝床よりも広いのだ。

六つの部屋のうち、私が中を見たのは四つ。青の浴室、赤のキッチン、黄のトイレ、そして白の寝室だ。それらの部屋のどれもが過剰と思えるほど清潔で、日々使用しているはずなのに目立った汚れ一つついていない。円盤型の掃除ロボットが隅々まで掃除してくれているのもあるが、何より、どの部屋も極端に物が少なく、極端に生活感が薄いのも、清潔感の維持に一役買っているのかもしれない。

そうだ。そう言えば、まだ私は茶色の扉の部屋……書斎の中を見ていない。黒の部屋と違って見てはいけないと言われているわけでもないのだから、見ても構わないはずだ。

私は茶色の扉の前に立ち、ドアノブを回して扉を開く。

中を見て私は思わず、間の抜けた声を出した。

「はああ……」

 部屋の中一面に、隙間なく本棚が配置され、その中には様々な言語の本が乱雑に詰め込まれている。そして本は床にも積み上げられており、力を加えれば今にも倒れてしまいそうだった。窓からは半透明のレースカーテン越しに日が差し、その光が宙に浮かぶ細かな粒子のような埃を浮き出していた。

思わず私は、後ずさるように部屋を出て、フローリングをちらと見た後、今一度書斎を見た。確かにフローリングは、清潔感に満ち溢れた、無機質的な空間が広がっていたが、同様に、やはり書斎もまた、あの本が山積みとなった、一つの世界があった。奇妙なことにこの二つは、それぞれが独立した世界観を持ちながら、その境目はこの茶の扉以外に存在しなかったのだ。

「……ここに居たのか」

「わっ!」

 私は驚いて、思わず叫んだ。いつの間にか、ご主人様が私の真後ろに居たのだ。

「いつから居たんですか」

「いや、ついさっき帰ってきたばかりだよ……ところで、黒い部屋には立ち入っていないな?」

 言って、ご主人様はきつく私を睨んだ。こんな表情を見たのは初めてだった。

「はい。勿論です。そんなこと、考えたこともありません」

 私の返答を聞いて安心したのか、ご主人様はふうと小さく息を吐いた。その後に、私と書斎の中とを見ると、こう言った。

「なあ、青薔薇。ここは書斎だよ。何か本を手にとってみたらどうだね」

 私は、言われるがままに、積み上げられた本の一つを手に取った。

「ほう、それか。それなら十三ページを読んでみなさい」

 そのページに書かれていたのは、二人の女性が、ある男性が娼婦と遊び、また、その娼婦に対して自身を鉤針付きの鞭で叩くよう懇願している様子を語るシーンだった。

「なんでまたこんなシーンを選ぶんですか!」

 私が言うと、ご主人様は笑った。

「ところで、これって小説なんでしょうか。登場人物の名前が上に出ていて、地の文が一切ないのですが」

「……ああ。それはね、小説じゃないんだ。戯曲と言って、演劇の脚本として作られた作品なんだ」

 そう言われ、私は再度本の中身を見た。確かにそこには台詞の他にも、人物の動作等が書かれていて、言われてみれば確かにそうだと納得することができた。

その様子を見たご主人様は、唐突に真剣な顔でこう言った。

「時に、青薔薇。戯曲とは、何処か神の視点に近いような気がしてこないかい」

「と言うと、どこらへんがでしょうか」

「小説は具体的に内心を記すものだ。登場人物がどう感じ、どう動いたか。想像の余地はあるが、そこに起こる行動に変わりはない。つまり、登場人物が勝手に動き出すようなことはないだろう。次に、演劇や映画の場合。その目に映る俳優たちの動きと言葉で全てが決定される。小説と比較して、想像の余地はさらに狭まる。では、戯曲はどうだろうか。そこに確かに登場人物は居る。台詞もあるし、動作もある。だが、それをどのような容姿の者がどのように演ずるかで変わってくる。つまり、同じ

戯曲を元にした劇があったとしても、それは必ずしも同一のものが出来上がるとは限らないし、寧ろ間違いなく別のものとして仕上がる……」

「演じている人が違うからですね」

「その通りだ。戯曲を読むということはその物語の結末を知っているということに他ならず、舞台上に居る誰が舞台の上で死に、誰が生きるのかを読者は知ることが出来る。しかしそれは決して誰かに予想出来るような振る舞いにはならないのだ。戯曲を読み、またそれを台本とした演劇を見る時、私たちは結末を知りながら、その振る舞いがどう行われるかを知ることが出来ない。この状態こそ、神の視点に他ならないと私は考える。神は自身が一つの結末のために物を生み出すが、どのようにして、どのような立ち居振る舞いを以てその結末に至るかを知り得ないからだ」

「……難しい、です」

「なら、つまりこう考えればいい。私達はこれからどのような道を進み、どのような結末を迎えるかについて、誰かが描き出した戯曲に基づき動いている。それを書いた者こそが、神なんだよ。つまり、私も君も、実のところ、この現実という世界の上に立つ俳優の一人に過ぎない、というわけだ」

 その話を聞いて、私は何か寂しさのようなものを感じた。何故なら、私達の結末が決まっているなら、私の過去も、そして未来も、全ては変えようのない台本の上にあるものだということになってしまうからだ。けれど、私はそれを口に出す勇気はない。それを語るご主人様のその顔には、明らかに陶酔の色が見えていたからだ。

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