エピソード3

私は死ぬことを本気で考えるようになりました。もう生きていることが辛かったのです。行く場所も帰る場所もありませんでした。どこにも居場所がなくて、毎日が苦しかったのです。父親とはあまり会話はなく、友達もいなかったので、相談する人もいませんでした。それから私はリストカットを妄想するようになりました。手首に剃刀を当てたらどんな感じがするのだろうと思いました。手首の細い血管から血が溢れていき、身体が冷えていくことを想像しました。すると、何だか体が楽になるような心地良い感じがしました。

そういったことを数日間考えて過ごしていると、いつの間にか実際の剃刀を手にしている自分がいました。リビングでソファーの台座にもたれながら、右手に持った剃刀を眺めていました。私は自分がなぜ今剃刀をもっているのかわかりませんでした。剃刀を取ってきた覚えはなかったからです。普段顔を剃るときは洗面台で始末するので、剃刀もそこの戸棚に仕舞っていました。そのことに私は運命を感じました。自分で踏み出せなかった勇気を後押ししてくれたような気がしました。死が私を招いている、そう思えました。左腕に軽く剃刀の刃を当ててみようと思いました。生唾を飲み込む感じが喉に伝わるほど緊張してまいた。息遣いも荒くなって、室内が少し暑く感じました。左の掌を上にして、血管が浮き出ているところを見つめました。手首の内側の方に血管が多いような気がしたので、そっと刃を皮膚に触れさせました。剃刀を肌とできるだけ水平にして、血管に対して垂直に持ちました。試しに私はいつも使うように剃刀を上下に二、三度滑らせました。爪で引っかいているような感触でした。いつもとは違う使い方に胸がつまりそうでした。その時母の顔が頭をよぎりました。母に置いてかれた記憶を思い出し、急に切なくなりました。私はより一層死んだ方がましだと思えてきて、歯を強く噛みしめました。今度は剃刀を横に動かしてみることにしました。血を見るのが恐かったので、剃刀から視線を外して、ゆっくりと左腕の血管に擦りつけました。するとたったそれだけのことで、私の全身はかっと熱くなり、息を切らせていました。けれど、皮膚には傷ひとつありませんでした。私はそのことに拍子抜けするともに、安堵感も抱きました。この程度の力では死なないことに安心しました。なので、次は剃刀の刃の後ろに持ち手の人差し指を添えて、素早く左腕を引こうと思いました。心音が内側から聞こえ、鼓動が早くなっていました。震える手を落ち着かせながら、目を閉じて刃を下ろしました。ヒリヒリした痛みが走り、恐る恐る目を開けました。けれど、腕に細い赤い線ができているだけで血は出ていませんでした。鼻息が荒くなり、歯がカチカチと鳴っていました。けれど、そんななか私は息を吸うとお腹が膨らみ、息を吐き出すとお腹がへこむことを感じました。自殺してはいけないという背徳感で胸が高鳴るなかで、私は自分が息をしていることを実感できました。私は今生きているんだと思えました。私はもっとこの気持ちを味わいたいと思い、もう一度同じことを繰り返しました。今度は切り裂くところを見てみたいと思い、左腕から視線をそらさないようにしました。慎重に剃刀を皮膚に押し当てて、人差し指に力を入れながらゆっくりと剃刀を横に引きました。すると一瞬肌に白い線が浮かび、その後そこがだんだんと赤みを帯びて、一瞬息を止めてしまうほどの痛みが全身を走りました。そして、気がついたら腕から血が滴っていました。血を見た瞬間、急に頭がぼおーとしてきて、視界が揺れて見えました。私は慌てて傷口を口にくわえて、舌でそこを舐めました。私は本当に血が出たことに驚き、慌てふためきました。母や父、友達だった人たちの顔が思い浮かび、リストカットしたことを後悔しました。そして、みんなに自殺しようとしたことを謝りました。生まれてきてごめんなさい、生まれてきてごめんなさいと何度も心のなかで唱えました。けれど、血は次々に溢れて出てきて、私はその血を嫌々飲み込ました。口のなかいっぱいに苦い鉄の味がして、水が欲しくなるほどに喉が渇きました。

腕から滴る血が肘に伝い、私の着ている洋服にぽたぽたとこぼれました。みぞおち辺りに赤い染みをつくり、床に飛沫を落としました。私は自分の服が汚れるのも部屋を汚すのも嫌でした。出血した腕を高く上げながら、近くにあったティッシュを数枚引き抜いて、急いでお風呂場に向かいました。そのときに足の裏に粘り気のある嫌な感触を感じました。

水で濡らしたティッシュを腕に押えつけていると、だんだん腕の出血も収まってきました。唾を飲み込むとまだ血の味がしました。傷口を消毒した後、大きめの絆創膏を貼りました。絆創膏はすぐに血に滲みましたが、その上からティッシュで軽く押えつけました。死にたいという気持ちが消えましたが、満足感は得られませんでした。というのも、血で私の体を汚すのが気持ち悪く、後片付けをしなければならないと思うと憂鬱になりました。だから、私はもうリストカットはしないと心に誓いました。

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