俺のイージューライダー
鈴波 潤
第1話
退屈な仕事を終わって帰宅する。
誰が出迎えてくれる訳でもない。
家族は隣に住んでいるが、故あって俺は離れで一人暮らししている。
晩飯には、冷蔵庫で150gずつ小分けして冷凍してあるご飯を解凍して、適当なおかずと食べる。
酒もあまり飲めないので、結局そのまま寝室に行く。
PCにスマホを繋いで、音源を再生する。
面白いのでランダム再生にしてみた。
ちょっと前のアニメの曲。回れ!雪月花だ。
松田聖子で一番好きな小麦色のマーメイド。
バッハのピアノ協奏曲。千秋が弾いた曲。
ストリングスの夜間飛行。
スマホは以前俺が掛けた曲を参考にしているらしく、結構ツボな選曲をしてくる。
この分だと次は、いい日旅立ちか?
アジアの純真かも知れないなあ。
突然とんでもない曲が流れてきて、そのまま眠り込みそうだった俺は目を開いた。
この違和感。真面目な合唱部員のソプラノ女子が、大盛り上がりのクラスのカラオケパーティーで、いきなりAmazing Graceを選曲してしまったみたいな場違い感。いや違うな、それならそれなりに聞ける。
まあ下手くそなんですわ。音程が所々ずれる。
「誰だ!この下手くそな歌手!」
俺だよ。21歳の俺。
自称ソンガーシングライター(当時多分鶴光が言ってたネタ)だった俺は、ギターを爪引きながら作詞作曲し、その集大成として、あろうことかアルバムを作る事を計画。
大学でジャズをやっていた後輩をそそのかして、その人脈でレコーディングをすると言う身の程知らずの挙に出た。
当時アマチュア用のレコーディングスタジオなどなかった時代。名古屋の実家の6畳間にドラムやアンプを置き、録音が趣味の友人のオープンリールレコーダー(2トラサンパチとか言う高いの)を別室に置いて、その友人がミキシングしてくれた。
みんな、良く付き合ってくれたものだ、と思う。
そう言う、謂わば若気の至りの様なアルバムを自分のスマホに忍ばせている俺も俺だが、
「えー?熊懐さん昔作詞作曲やってたんですかぁ?聞きたいですぅ!」とおねいちゃんに言われる事を想定して、リストに入れていたのだった。
まあそう言う機会には一度も恵まれていないが、
「熊懐先輩、歌手だったすか?凄いっす。聴かせて欲しいっす」と言われた事は数回あり、でそう言う後輩たちの感想は一概に
「そうっすねえ…。あ!声が沢田研二に似てるっす」だった。
確かに声質も似ていると前から言われたけど、ジュリー独特の音程の外し方。あれはプロとしての技であり、後続のた○き○トリオ辺りとは一線を画しているのだが。
それの劣化版だ。
と言うわけで、懐かしいが、還暦男が仕事の疲れを癒すベッドサイドミュージックとしてはふさわしくない。
あと二十年もすれば、もうどうでも良くなって
「はて、聴いたことがある曲じゃが…」と聞き惚れるかも。
君に初めて、出会った街角
君は独り、待っていた
誰か他の人
「下手だが…懐かしい」
なんか急に胸が苦しくなった。
不整脈?取り敢えず胸をトントン叩いてみる。
目の前に凄い勢いで映像が巻き戻されて行く。
「俺、このまま?じゃあこれが走馬灯か…」
おや?止まった。いや心臓じゃなく映像が。
熊懐(くまだき)勤太郎 19歳
生まれて初めて親元を離れて京都の大学に入学した俺は、大学からそれ程離れていない下宿に住んだ。
母親が近所の人に
「京都の大学に入りまして」と言ったのが、なぜか
「あそこの息子さんは、楽隊ばっかりやってなさったが、勉強は出来たんやな、京都大学合格しなさったげな」となってたらしい。
中学高校通じて仲間とバンドを作り、近所の原っぱで演奏してたので、当時はまあ立派な不良扱い。
とりあえず、なんとか憧れの京都にある某大学に入学したのだが、京都の街並みと言うのが、ご存知の碁盤の目。その小路と小路の間にレゴの様にはめ込まれた家が並んでおり、学生用の下宿と言うのはアパートではなく、大家の家の二階に並んだ4畳半の部屋に一人づつ住み、扉も襖で壁も薄い。
同級生の部屋は窓がないと言っていた。ハリーポッターが叔父さんの家に住んでた時の部屋みたいなものか?
俺の下宿は窓があったので、風が入ってまだ良かったと最初は思ったが、夏が近づくと窓がない方がましと思った。
窓のすぐ前に、となりの家のエアコンの室外機が!熱風が!
幸い祇園祭の頃には夏休みに入り、俺は早々に帰省した。
大学の休み明けは9月下旬とゆっくりしているので、京都の
「夏が“落ちる”様に秋が来る」気候のお陰で、灼熱地獄を耐える期間は短かったが、代わりにもっと恐ろしいものが待っていた。
京都の町屋は火事を出せば類焼は免れないので、火気を極端に嫌う。大家は
「ストーブ厳禁。コタツのみ許可。電気ポットはいいが、電熱器(渦巻き型のヒーターが付いてるやつ)は禁止」というかなり恐ろしい規則を強いた。
冬が来てコートを着たままコタツに入り、当時出はじめたカップヌードルを啜る。風呂はないので、歩いて銭湯に行くが、途中にカップヌードルの自販機があり、風呂に入らずに買って帰った事も。袋ラーメンの方が安いのだが、電熱器禁止なので作れない。
つまりカップヌードルかチキンラーメンしか選択肢がない。
実家からかっぱらってきた、新しいモノ好きの父が昔買った“ソリッドステート77”と言う小型白黒テレビを付けると、日清食品提供の“ヤングOhOh!”と言う番組をやっており、桂三枝たちが、カップヌードルを手に持って
「おーハッピーじゃないかー!カップヌードル」と踊っている。
「何がハッピーだよ…」とため息をつくと、部屋の中なのに吐く息が白く…。
同級生で寮に入ってる奴がいて、遊びに行ったら、各部屋に石油ストーブが支給され、ガンガン焚いている。電熱器もOK。
しかも昼と夜の食事が安価で供されると言う。天国だ。
京都伝統の町屋下宿を一年にしてドロップアウトした俺は、当時は学生自治の拠点であった寮に入寮願いを出した。一応入寮選考なるものが自治委員会の上級生の手で行われたが、誘ってくれた同級生の
「尊敬する人は田中角栄、とか言わなければ大丈夫」のアドバイスが効いて、入寮出来た。
ただ困ったのが交通の足。前の下宿は大学から真西に行った所。つまり南北の鴨川の流れる方向ではなく、真っ平ら。自転車でなんなく通学できた。
しかし今度の寮は鴨川の上流、比叡山の麓。
自転車では大学への道は楽だが、帰りがきつい。
そこで寮生の多くがバイクに乗っていた。
俺も原付免許を取り、大学近辺の中古バイク屋で原付を買った。
ホンダCL50。当時ホンダにはCLシリーズと言うのがあって、オフロードも走れる、マフラーがチェーンより上に配管されたスクランブラーと言うタイプ。それの末弟。
同級生の勧めで、カブやダックスではなく(当時はスクーターと言うのは殆ど無かった)クラッチレバーの付いた車種を選んだので、オートバイ運転の基礎を学ぶ事が出来た。これで通学も楽になり、友人とも遊びに行ったりした。
ところがある日、原付に乗って仲間の自動二輪と爽快に走っていた時、俺だけいきなりパトカーに捕まった。25km/hオーバー。免停。1万超えの罰金。幸い直前に20歳の誕生日を迎えていた俺は家裁送り(親京都に呼び出し)だけは免れたが、日本の道路事情で、そしてリミッター規制などない当時の原付の性能で、30km/h以下で走れというのは
かなり無理がある事を痛感した。
そこで、親に嘆願の手紙を出した。最初は原付以上はあぶないんじゃないか?と反対されたが、原付の制限時速で、倍以上の速度で走る自動車と同じ道を走る危険を切々と訴えた所、余り大きなバイクで無ければいいとお許しが出た。
元より大型二輪免許を取るつもりは無かった。小型で充分慣れたら、バイトでもして限定解除して大きいバイクに買い替えればいいと思った。
ところが俺が小型免許を取った翌月に法律が改正され、中型免許と言うものが出来た。大型免許は試験場での一発試験だけになり、ナナハンは遠い夢になった。
まあ、寮の先輩のカワサキマッハ500という凶悪なバイクの後ろに乗せてもらった時、思わず
「主よ御元に近づかん」と讃美歌を口ずさんでしまった俺なので、スピードの快感にシビれる!イカす!と言うタイプでは無かったらしい。
俺にとってバイクは当時のオフロードバイク専門誌の標語になっていた、
「自由のマシンを乗りこなせ!」の方だった。
どこまでもとことこ走る。そんな相棒が欲しかった。
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