Glorious Health side-Yutaka- 2


 図書室は、北校舎の二階、突き当たりにある。

 教室は南校舎の三階だから丁度反対側だ。俺は階段を二段飛ばしで駆け下りて、北校舎へと続く渡り廊下を早歩きで進む。

 まだ学生の多い校舎内。すれ違う人達は放課後という時間を楽しんでいるように見える。

 早く帰りたい一心で、一歩がだんだんと大きくなっていく。

 掃除された後のつるりとした廊下が、上履きの底と擦れて、動物の鳴き声みたいな音がする。

 図書室は閉ざされていて、引き戸を開けると、涼しい空気が溢れるようにして流れてきた。

 気持ちいいと感じるのと同時に、外がいかにじめじめしているのか思い知らされる。

 一歩一歩と室内を進みながら、生徒の中に式部がいないか確認をする。

 生徒はそこそこいて、勉強しているヤツもいれば、読書しているヤツもいる。

 机に座っている生徒の中に式部の姿は見当たらない。


 ――ハズレか。


 教室に戻ろうと踵を返そうとしたところで、腰ほどの高さの本棚の影から誰かが勢いよく立ち上がった。

 黒い髪を耳より下で結んだツインテールに、度の強い眼鏡。着崩したり、乱れることない制服。

 探していた式部 美織だった。

 俺と目が合うと、彼女も目を丸くした。たぶん、俺も同じ表情をしていることだろう。


「式部」


 手招きをすると、顔色を窺うようにしておずおずと近寄ってきた。

 まあ、親しくもない人間に呼ばれたら、誰だって多少は訝しむだろう。

 胸にハードカバーの本を抱きしめている。……チラッと見える表紙。野草の本、だろうか。



「なんですか?」

「今日の進路調査の紙、まだ提出してないんだろ。担任が探してた」


 彼女は呼びにきた理由にとくに驚くでもなく、視線を泳がせた。


「あー……そう、だったんですね。すみません、わざわざ」

「いや、別に」


 それじゃあ、と帰ろうとしたけれど、なんとなく気になって席に戻っていった式部の様子を窺う。

 席に着いた彼女は、バッグから紙を取り出して……そして、机に置くと野草の本に手を伸ばした。

 取り出しておいて、なぜ彼女は目を背けるようなことをしているのだろう。

 気になって、気付かれないように背後に回り込んで席に近付くと、そっと覗き込んだ。

 紙の空欄は埋まることなく真っ白なままだった。

 珍しい、と思ってしまった。

 俺の知っている限りだけど、式部が提出物を出さないで呼び出されたところなんて見たことも無い。

 まして、自ら積極的に取り組まないところなんて。



 ――あ、後れ毛……。



 二つに分けられた髪の間を、流れていく一筋の黒髪に目を奪われる。

 いつも、学生のお手本のように容姿を整えている彼女の、初めて見せた緩みだった。

 指先で触れようとした瞬間、彼女が振り返った。


「あれ、九重くん?」


 初めて、名前を呼ばれたような気がした。

 今まで意識していなかった心臓の音が、突然騒がしく耳に届き始めた。


「もしかして、これを貰ってくるように頼まれてました?」

「いや……別に、そうじゃないけど」

「そうですか」

「なんで書かないんだ?」

「……わからないからです」


 まるで解けない問題にでも出会ったかのような式部の言い方に、眉を顰めた。


「すこし、外に出ませんか?」


 あれだけ早く帰りたくて、担任に頼まれたことが疎ましかったのに、彼女の誘いは不思議と面倒に感じなかった。


「いいよ」


 彼女の後に続いて、涼しい図書室から廊下へ踏み出ると、途端に肌に湿気が纏わりつく。

 思わず眉を顰めたところを見られて、彼女は笑った。



「おすすめの場所があるんです」



 連れて行かれたのは中庭だった。確かに校舎の影になっていて、日があまり当たらないせいか、地面がひんやりしているのだろう。

 彼女はベンチの上に腰を下ろすと足をぶらぶらと揺らした。


「ここ、けっこう涼しいからおすすめなんですよ」

「いいの? 俺に教えても」

「隠すことでもないですからね」


 吹き抜けていく風を式部は気持ち良さそうに浴びる。

 遠くから聞こえる部活動の声、ここだけ世界から切り離されたかのように感じる。


「お恥ずかしい話ですが、私夢とかなくって。ただ、普通に就職して、普通に結婚して……って漠然とした未来しか描いてないんです」


 恥ずかしい話だろうか。大野も中西も、大学へ行ってから考えると言っていた。

 ただ、学年の中でも頭のいい彼女が、将来を迷っているのは驚きだ。

 てっきり目標があるから、そこを目指して努力しているものだと思った。


「別にいいんじゃね。もし、夢を見付けたいなら、式部だったらいい大学行けるんだろうし、大学行ってからでも」

「そう、かな」

「そうだろ」

「そうは、思えないんですよ。なんとなく、ですが」


 彼女のまっすぐな視線の先には、色も形もない未来があるのだろうか。

 俺には同じ方向を見つめても、彼女の見ている未来がわからない。

 同じ時間を生きて、同じ空間に居て……それでも、目に映るものは違う。聞こえ方も、感じ方も。

 そんなこと、わかっているようで、改めて気付かされてはっとする。


「九重くんは、将来とか明確に描いているんですか?」

「俺は……美容師になるつもり。だから、専門に行く」

「美容師! 九重くんおしゃれですもんね。そっかぁ。なんだか、みんな大学に進学するように勝手に思ってました」


 そう言って、式部がはにかむ。

 分厚いレンズのせいで、レンズの向こうの景色が歪んで見えた。


「私も、なにか見つけられたらいいな」

「……提出できそう? あの進路のヤツ」

「大丈夫です。でも、もう少し考えますね」


 その場に残るという彼女を置いて、俺は帰ることにした。

 西日が黒い雲の影から線を描いていて、鮮やかな赤い光を地上に届けている。





 薄暗くなってきたなか家に帰ると、美容室から母さんが顔を出した。


「おかえり」

「ただいま」

悠斗ゆうとが帰ってきたらご飯にしようか。ご飯だけ炊いておいてくれる?」

「へーい」


 美容室は母さんが一人で切り盛りしているため、完全予約制でお客さんは一度に二人まで。

 父さんと離婚してからというもの、母さんは一人で俺と弟の悠斗を育ててくれている。

 繁盛している、とも言いがたいけれど、生活に苦労しない程度にはうまく経営できているようだ。

 美容室と家は完全に分かれて建てられている。

 母さんが美容室へ戻ると同時に、俺は家のドアを開けた。

 人気のない家の中は空気が滞っていて息苦しい。

 リビングの窓を開けると、風が頬を撫でた。

 その一瞬、式部のはにかんだ笑顔が脳裏を過ぎったけれど、何も見なかったかのようにキッチンへ向かった。





 




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