nail,nail,nail

高梨來

nail,nail,nail

 不在のありかはいつだって、ほんのささやかなあぶくのように音もなくゆらりと浮かび上がる。



「いた、」

 いつものように顔を洗ってささやかすぎる手入れをしていたその時、頬にかすかなにぶい痛みが走るのに気づく。

 まじまじと鏡の中を覗き込めば、ほんのうっすらと、言われなければ気づかないほどの赤い筋が走っている。ああ、そうか。

 うんと短く切りそろえた爪の先を眺めながら、思わずぼうっとため息を吐く。


 衛生面には気を使っていつも短く切りそろえるようにはしていたけれど(週末には特に念入りに)、爪切りで力まかせに切るのはやっぱりよくないらしい。いまさらのように気づいた途端、遅すぎる後悔がよぎる。


 傷つけてたんじゃないだろうか、もしかして――すぐにがまんするほうなのは知っているから、余計に。

 慌てて、爪とともに指先が荒れていないかを確かめる。ささくれなんて出来ていたらきっと傷つけてしまうから。

 ひとまずは特別にきれいでもなければ荒れてもいない指先に、安堵のため息をもらす。

 爪の手入れってどうするのがいいんだっけ。やすりかなにか? とりあえずは会社の近くのドラッグストアにでも寄ればいいだろうか。店員に聞く――のははずかしいから、調べるなりなんなりして。面倒だな、とは少なからず思うけれど、ぞんがい悪い気分ではないあたり、我ながらなんだかおかしい。

 ごめんな、いまさらで。でもきっと、気づけなかったのよりもずっといいに決まっているから。

 頬の上を走る亀裂のようなかすかな赤い筋をなぞりながら、いつも向けられるあの気のおけない笑顔をぼんやりと思い浮かべる。

 ――週末になればまた会えるから、ひとまずはそれまでに。




「桐島くんって手が綺麗だよね」

 昼休憩の折に唐突にかけられた言葉に、思わずぴくりと箸を持つ手が止まる。さすが女の子、よく見ているというか。

「……どうも」

 ひとまずなんと答えるのが正解かはわからないので、苦笑いであしらうようにする。よく見てんね、では、なにかと誤解をまねきそうだし

「サロンとか通ってる? もしかして」

「いや」

 お風呂上がりに伸びたところだけ切りそろえてから切り口にやすりをかけて、仕上げはハンドクリーム。それも、ドラッグストアの店頭の数百円のものを。

 聞かれてもいないのにモゴモゴと頭の中でだけ答えていれば、傍からフォローのような声が飛び込む

「いまってネイルサロンにメンズコースとかあるんだよね、営業職とかに需要があるんだって。指先が綺麗だと清潔感があるからって」

「へえ、」

 それはそれは、また面倒な。咀嚼のふりをして黙り込んでいれば、骨張った指先で器用に箸をあやつりながらの遠慮のない声があがる。

「めんどくさくない? 俺ならむりだな」

「モテる男の嗜みでしょ」

 ちらりと、こちらを一瞥するようにして、不意打ちのような言葉はするりと飛び込む。

「桐島くんってモテそう」

「いやいやいや」

 そもそも特定の相手以外にモテたいだなんて意図はないので。慌てて打ち消すように答えれば、周囲からはくすくすとかすかな笑い声があがる。

「振られてる」

「ほんとだー」

 冗談とはわかっていても、あまりいい気分ではない。

「ほんとのことだし」

 苦笑いまじりに答えながら、ごくちいさなラインストーンがひそやかに輝くパールページュの爪をぼんやりと眺める。


 誰かは身だしなみのため、誰かは自分自身の楽しみのため、そしてほかの誰かは、大切な相手のため。

 このほんのちいさな空間に、それぞれの込めたささやかな願いや祈りがあるのだとすれば――

 それに思いがけず気づいてもらえる瞬間は、くすぐったくも愛おしい。

 不器用なりに丸く削った爪の先をぼんやりと眺めながら、ぽつりと呟く。

「顔洗ってる時に引っかかっちゃって、爪が。あんま気にしたことなかったんだけど、よくないなっていまさら」

「お手入れセットとかつかってんの?」

「や、ふつうの。その辺薬局にもあるやすり。ガラスのやつ」

 答えながら、気づかれないようにそっと頬の内側を噛む。変なふうにゆるんだ表情でも見せていたらはずかしいから。


 ほどけたままの指先は、いまはここにいない相手の熱をもとめるように、所在なさげにたわんだままで。

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