第380話 初日の疲れと後輩ちゃん

 

 玄関のドアが勢いよく開く音がした。即座に洗面所に行って手洗いうがいを済ませる音もする。桜先生が帰ってきたのだろう。


 約一分後、リビングのドアが開いて、仕事着の桜先生が入ってきた。いつも通りビシッと決めポーズを決める。バインと大きな胸が弾んだ。



「たっだいまー! 三学期初日のお仕事を頑張ってきたお姉ちゃんが帰ってきたわよー!」



 褒めて褒めて、と体中から溢れるポンコツで残念な子犬オーラ。イヌミミをピョコピョコ、尻尾をブンブンさせている様子を幻視する。今にも、わふぅっ、と鳴き声をあげそうだ。


 そんな桜先生が決めポーズをしたまま、ピシリと突如凍り付いた。何故か俺たちを凝視して固まった。



「お、弟くん! 妹ちゃん! そんなに疲れ果てて対面の座位で固く抱き合ってるなんて……もしかして、真っ最中だった? きゃー!」



 両手で顔を隠し、指の間からバッチリ覗いている桜先生は、その場に綺麗に正座をした。覗く気満々である。


 あっ、隠そうとしなくなった。両手を膝に置いている。鼻息が荒い。瞬きさえしない。



「姉さん……」


「いいのよ弟くん。お姉ちゃんは気にしないで。二人は恋人同士。そういうことをしても普通よ! お姉ちゃんはここで銅像になって背景に溶け込んでいるから続きをどうぞ……」


「いや、俺たちはただハグをしているだけなんだけど」


「嘘をつかなくてもいいわよ。あっ、わかった! 恥ずかしいのね!」


「だから違うって」



 桜先生は俺の言うことを聞いてくれない。本当にハグをしているだけなのに。


 あぁもう。今日は反論して証明するのも面倒臭いなぁ。疲れきっていてそれどころではない。後輩ちゃん、姉をどうにかしてくれないか?


 俺の無言のお願いが届いたようだ。同じく疲れ果てた後輩ちゃんが桜先生に顔を向ける。



「お姉ちゃん……私は今日はスカートを穿いています」


「そうね。見ればわかるわ」


「スカートの中で何が起こっているのか、私と先輩のみぞ知る」



 こらぁ! 思わせぶりな言い方をするなぁ! ニヤッと笑いながら身体を上下に動かすなぁ! ハグしにくい。刺激が絶妙に危ない。お願いだから大人しくしてくれぇ。


 興味津々な桜先生は、部屋の背景になることを忘れ、超至近距離で観察し始めた。後輩ちゃんのスカートを捲ろうとする桜先生の手をぺちっと叩き落とす。


 もう。この姉妹はとことんポンコツで残念なんだから。



「あまり変なことを言うとハグ終了だぞ」


「ご、ごめんなさ~い! ただ先輩とハグしてるだけですぅ~! 先輩成分を全身で補充できる至福の時間なんですよぉ~!」



 先輩成分って何だよ。意味が分からない。


 まあ、俺も至福の時間なのだ。一分一秒でも長く後輩ちゃんとハグをしていたい。後輩ちゃん成分を全身で補充できるし。


 あぁ……。癒される。甘い香りも優しい温もりも全てが最高だ。



「お姉ちゃんも弟くん成分を補充して堪能したい!」



 だから弟くん成分って何だよ。



「姉さんはその前に着替えて来てくださーい」


「はーい!」



 うむ。素直で元気な返事だ。桜先生は即座に寝室へ行き、すぐさま部屋着に着替えて戻ってきた。この様子だと、いつものようにスポーンと脱ぎ捨てたな。


 がら空きな背中が柔らかいもので覆われる。ふにょんふにょんして気持ちが良い。背後からふわっと漂うのは桜先生の大人の香りだ。



「あぁ。癒されるわぁ……。くんくん。良い香りね」



 やっぱり桜先生は犬だ。クンカクンカと匂いを嗅ぎ続ける。それに対して後輩ちゃんは猫。ごろにゃ~んとスリスリして甘えていた。


 身動きが取れない。美女と美少女に抱きしめられてサンドイッチ状態。この世の男が羨む光景だろう。



「そう言えば、二人ともお疲れだけどどうしたの? お姉ちゃんが帰ってくる前に一発やっちゃった?」



 言葉に気を付けてください。桜先生は現役の教師で淑女でしょ。



「後輩ちゃんのせいかなぁ」


「えぇー! 人のせいにしないでください。わかりやすい先輩がいけないのです」


「どういうこと?」


「ざっくり言うと、私と先輩の仲が深まったことがクラスメイトにバレました! いやぁー何故でしょうね?」


「後輩ちゃんがドヤ顔をするから……。女子からの質問攻めと男子からの粛清で疲れ果てました」


「なるほどねぇ。お姉ちゃんがなでなでしてあげましょう!」



 うぅ~。気持ちいいです。ありがとうございます。


 クラスの女子たちは後輩ちゃんに押し付ければ何とかなったが、問題は男子たちだった。ひっそりと行われる嫉妬の刑。若干祝福されている気もしたが、背中をバシバシ叩かれたりしてとても痛かったです。


 これから数日続くのかなぁ?



「うみゃ~! 私も質問攻めで疲れましたぁー! 先輩癒してくださ~い! いえ、勝手に癒されます。ほっぺすりすり~」



 後輩ちゃんのモチ肌に俺も癒される。



「はっ!? 新年最初のホラー祭りをして、怯える先輩を愛でて癒されるという手も!」


「ないから! 絶対にないから! 今年はホラーはありません! ホラー禁止!」



 ただでさえ疲れているのに後輩ちゃんは俺をどこまで追い詰めれば気が済むんだ? 俺はもう既に限界なんです。ホラー祭りをしたら今週は全部休むからな!



「それよりも、ご飯にするか? それともお風呂?」


「先輩!」


「弟くん!」



 即座に後輩ちゃんと桜先生が俺を呼んだ。前後からキラッキラした眼差しがビシバシと伝わってくる。何かを訴えているようだが、一体どうしたのだろう?



「えっ? なに? どうしたんだ?」


「だから先輩です! 先輩を選びます!」


「ここは弟くん一択しかないわ!」


「えーっと、意味が分からないのですが」


「えっ? 定番のセリフですよね? 『ご飯にする? お風呂にする? それとも私?』の先輩バージョンです。なので最後の先輩を選びました」



 そ、そういうことか。全然そういう意味はなかったんだが。それに女性のセリフでは? 俺バージョンってどういうことだよ。


 俺は二択しか考えていなかった。ということで、二人の選択は却下させていただきます。



「それって男が言っても需要はあるのか?」


「「 あります! 」」



 需要がある人がここにいたか。目の前に二人も。



「さぁーて、ご飯にするか」


「えっ? 先輩は?」


「お姉ちゃんと妹ちゃんは弟くんを選んだわよ」



 無視。ポンコツ姉妹のことはスルー。名残惜しいけどハグ終了。


 ブーイングする後輩ちゃんと桜先生を置き去りにして、俺は夕食の準備を開始した。


 いつの間にか疲れが癒されて、俺の元気は回復していたのだった。



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