第332話 バイトに行く俺

 

 俺たちが住む都市から一時間ほど移動した大都市に存在する高層ビル。その丸ごと一つが『株式会社 芙蓉』の本社だった。他にもビルを所有しているらしいが、他の企業に貸し出しているらしい。規模が違う。流石大企業。


 会社の隣には、巨大な商業施設もある。そこは芙蓉の本店。一等地に本社と本店が存在している。地価はおいくらだろうか。考えただけでも恐ろしい。


 明らかに俺は場違いだ。服装は自由って言われたが、周りはスーツを着た大人だらけ。俺だけが浮いている。


 誰だコイツ、という冷たい眼差しで見られている気がする。もしくは、存在すら認知されていない無感情な瞳。大人って怖い。


 俺は、覚悟を決め、勇気を絞り出して、大人が出入りするビルに足を踏み入れた。


 受付にいるのは美しい女性。受付嬢は綺麗な女性って決まっているのだろうか? まあ、そのほうが見栄えは良い気がするが。



「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか?」



 私服姿の高校生にも礼儀正しく挨拶してくれる。とても嬉しいことなのだが、さらに緊張してしまったのは言うまでもない。働いている大人は、部署にもよるけど、毎回こんな感じで営業しないといけないのか。大人の皆さん、尊敬します。



「お、おはようございます。きょ、今日はアルバイトに来ました」


「……アルバイトですか。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「は、はい。宅島颯です」


「宅島様ですね。少々お待ちください」



 一瞬だけ訝し気に目を瞬かせた受付の女性は、すぐに笑顔で確認作業を行う。


 その僅かな時間でも、周囲からの好奇の視線が痛い。何やってんだろうこのガキは、って思われているんだろうなぁ。


 確認作業が終わった女性が、ニッコリと微笑む。



「確認しました。宅島颯様ですね。担当の者が来ますので、しばらくお待ちください」


「はいっ! ありがとうございました!」



 ビシッと頭を下げ、顔を上げると、女性はさっきよりもニコニコ笑顔だった。緊張している俺を見て、ほのぼのしているようだ。ド緊張する人を見るのは珍しいのだろう。


 近くのフッカフカの椅子に座って待つこと1、2分。エレベーターから見知った女性が出てきた。周囲の人たちが、そのモデルのような女性を二度見する。何故ここに、という表情だ。


 美人の女性は周囲の視線を気にせず、真っ直ぐに俺のほうに歩いてくる。



「葵さん、おはようございます」


「颯くん、おはよう。あら、また大きくなった? ますますイケメンになっちゃって! 葉月さんと仲良くしてる?」



 裕也の母親である鈴木田葵さんが、人目を憚らず、ぎゅっと俺を抱きしめてくる。突然の事態に俺は呆然と固まってしまう。周囲の人も同じだ。目を丸くして、手に持っていた荷物を床に落とす。



「ちょっ! 葵さん! 離れてください!」


「いいじゃない。颯くんも私の息子同然なんだから。最近の裕也はハグさせてくれないし。昔はあんなに可愛かったのに……今も可愛いけど」


「だからって何故俺をハグするんですか!? 裕也にしてください!」


「普段足りない息子成分を、もう一人の息子から摂取しようと思って……」


「止めてください!」



 抵抗するが振りほどけず、たっぷりと十秒ほどハグしてきた葵さんは、少し満足げな顔で離れてくれた。今ので一気に疲れた。精神力が吸い取られた。


 ニコニコ笑顔の葵さんが仕事モードに移行する。女社長の雰囲気を纏う。



「さて、颯くん。覚悟は良い? ここからは戦場よ」


「……はい。覚悟はできています」



 そんなに過酷なのか、と心の中で怖気づいています。正直に言うと、そこまでの覚悟は全然できていません。


 ただの言語の翻訳だよね? 通訳だよね? 俺は紛争地帯に連れ去られるのか!?


 葵さんは俺に背を向け、軽く振りむいて一瞥しながら、テレビドラマのワンシーンのように、『ついてこい』と格好良く指をクイっと振って合図をした。



「行くわよ」



 これが世界的にも有名な大企業の社長か。感動を覚えた俺は、無言で頷いて葵さんの案内に従う。


 周囲からの、誰だコイツ、という視線が更に強くなっていたことは言うまでもない。


 案内されたのはビルの最上階……ではなく、ただの二階だった。ガラス張りで中がよく見える部屋。全然広くない。



「ここが私の部屋。社長室よ」



 部屋の小さなソファに俺と葵さんは対面で座った。ガラス張りなので、社員の興味津々な視線もザクザクと俺に突き刺さる。


 というか、ここが社長室!? 見晴らしがいい最上階じゃないのか!?


 俺の心を読んだ葵さんが、うふっと微笑む。



「ここが社長室なのかって思ったわね。本当にここが社長室よ。白状するけど、私、超高所恐怖症なの。だから、高い場所で仕事なんかできません。広いところも落ち着かないし」



 初めて知った。葵さんにも苦手なものがあるんだ。なんか意外。何でもできる女性ってイメージだったから。息子の裕也も知っているのだろうか?



「それに、地震があって逃げるときにエレベーターが止まったら大変じゃない。だから二階よ。本当は一階が良かったんだけどね。二階も高すぎるわ」


「そこまで高所恐怖症ですか」


「二階でも窓に近づきたくないくらいの高所恐怖症ね」



 それは大丈夫なのだろうか? 葵さんの家は二階建てだった気がするけど。



「そして、ガラス張りなのは、ちゃんと仕事しているのか私と社員がお互いに監視するため」


「なるほど」


「……というのは建前で、ちょっとこっちに来てほしいときに手で合図しやすいからね。ウチの会社って仲が良いの。ほら、今も社員が合図してるわ」



 葵さんの視線の先をたどると、ニヤニヤと興味津々の社員たちが、手を動かして合図をしている。


 これは手話だな。なになに? 『息子さんですか?』とか『社長の愛人!?』とか『修羅場だ修羅場だ。最高!』とか言っている。これっていいの?


 気付いたら、葵さんも笑顔で手話を返している。



『言わなくてもわかるでしょ』



 誤解を招く表現を止めてください。ウィンクも止めてください。俺を揶揄って遊ぶつもりだな! そうはさせない。


 俺は手話で社員たちに訴えかける。



『俺は葵さんと家族ぐるみのお付き合いをしている者で、息子さんの親友です。今日はアルバイトに来ました』


「……颯くんは手話も出来たのね。ウチでやっていけそう。どう? 今すぐ高校を辞めてウチで働かない?」


「高校生活は楽しいので辞めません」


「そう。なら、卒業したら大学に行かないで、ぜひウチに……」


「そ、それは俺の仕事ぶりを見てから決めてくださいよ。ダメかもしれないので」


「そうね。その通りね。じゃあ、そろそろ移動する? 会議が始まる頃だから」


「お願いします」



 俺と葵さんは立ち上がった。これからがアルバイトの本番だ。


 こうして、俺は戦場へと向かったのだった。








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 やはりどこかおかしかったか。

 唯一のまともなキャラだったのに……。

 どうしてこうなった!?

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