或る男の手記

トーナ

第1話

 或る男の手記


 幼少の頃に不思議な体験をした――

 これから私が綴るのは、そんなよくある話である。

 人に話せば大抵は作り話と一笑に付され、強く主張すれば狂人扱いまでされる、とても現実離れした話だ。私自身、これを他人に聞かされればそう思うことだろう。

 だからこそ、誰に見せるでもないこの手記では断言させてもらおう。

 これは紛れもなく、私が体験した事実であると。




 それは今からずっと昔、私が大人達から飴をもらっては喜んでいた程度には幼かった頃のこと。

 私はその頃あまり人付き合いが上手くなく、友人と呼べる者も多くはなかった。休日などはそういった数少ない友人達と過ごしていたのだが、彼らが何らかの用事でいなくなってしまうと、私は一人で過ごさねばならず、その日は一日惨めな思いをしていたものだ。

 そんなとき、私は決まって近所のとある山へ訪れた。山と言ってもアルプスや富士山といった立派なものではなく、子供の足でも麓から頂までそう大した時間はかからないような、ごく小さなものである。友人と遊べないとき、喧嘩をしたとき、親や先生に叱られたとき――本当にことあるごとに、私はその山へ訪れていた。

 あまりに何度も訪れるので、地形や植生はもちろんのこと、季節ごとに吹く風の匂いさえも頭に入ってしまっていた。飴をくれていた大人と同じくらいの齢になった今でさえよく覚えている。

 その日もまた、私は山を訪れていた。どうしてか、などはもう覚えていない。きっと友人と喧嘩したか、親か先生に叱られたかしたのだろう。もしかしたら全く違う理由だったのかもしれないが、今はそんなことはどうでもいい。

 その日に限って、山へ分け入る際に何か違和感があったことを強く覚えている。始めは、いつもと何ら変わらぬ獣道だった。いつもと同じところに咲いている白い花を横目に、長い植物をかきわけるように歩いた。季節は夏も盛りで、日差しも強く、とても暑かった。流れる汗が多すぎて、目に入ってきてしまうほどだ。周囲では蝉がやかましく鳴いており、全身に休まることなく何らかの刺激が与えられ、私はそれをどこか心地いいと感じていた。

 それからしばらくは、いつもの通りに進んでいた。複雑に曲がりくねり、高低差も激しい道なのだが、慣れた私にとっては朝飯前だった。

 しばらくして、私は何かがおかしいと感じた。しかし、最初に感じた違和感もそうだったのだが、なぜそう感じたのかは全くわからなかった。今になって思えば、あれは何らかの前兆を無意識に感じ取っていたのではないだろうか。子供の感覚というのは鋭敏なもので、時折大人には到底思いもよらないような想像、もしくは発見をする。あれもきっとその類だったのだろう。

 気がつくと、私はそれまで見たこともないような光景の中にいた。表面的には変わらず山の中にいるように見える。その山の光景を綿密に覚えている私だからこそわかった変化だった。

 見たこともない地形、植物……。そこは紛れもなく、私がそれまでいたのとは全く違う場所だった。

 いつからそこにいたのか、なぜそれまで気付かなかったのか。それは今になってもわからない。論理的に考えれば、山の景色を綿密に覚えていた私ならば、その変化にも即座に気付くはずだ。しかし、私には皆目見当もつかないのだ。ひょっとすると、初めから私は見知らぬ山に我が物顔で分け入っていたのではないだろうか、とすら思えてしまう。

 その変化に、私はひどく動揺し、狼狽した。当然だろう。突然未知の場所に放り出されて、平常心を保てる者などどれほどいるだろうか。

 それからは、正直な話どこをどう歩いたか全く覚えていない。今にして思えば、あれは遭難という言葉にぴったりと当てはまる状況だっただろう。つくづく、よく無事で帰ってこられたものだと思う。

 それから私は、行く当てもなく山中を彷徨った。

 どれほどの間そうしていただろうか、ほんの数分だったようにも、何時間も歩き続けていたようにも思える。その時の私はとにかく必死で、時間を気にする余裕など微塵もなかったのだ。

 そうして私は、ようやく目印とも言えるものを見つけた。木々の間に何かきらきらしたものが見えたのだ。

 木々の間に一瞬だけ見えたその輝きは、とても小さく儚いもののようだった。それは本当にそこにあるのか、もしかしたら余裕のない自分が幻視しただけなのではないか。

 そんな疑問が浮かんではきたが、幻視だとしても構わないと考え直し、足をそちらへ向けた。何の目印もなく、ただぼんやりと足を運ぶという現状から一刻も早く抜け出したかったのだ。

 しばらく進んでいると、その輝きが確かにそこにあるものだとわかった。それと同時に、自分が思っていたよりもずっと大きいものらしいことも。

 やがて、その輝きが正体を現した。湖だった。それも、とても大きなものである。空から照りつける太陽の光が水面に反射して、あの時私の下へ届いたのだろう。

 なんとも美しい光景だった。太陽光を乱反射する水面はまるで宝石を散りばめているかのように輝き、水の揺れによって生きているかのように動く。土地の特徴なのだろうか、辺りは霧が立ち込め、水面から反射した光を更に細かな粒に変えている。まるで、その湖を中心にした一帯の空間そのものが光を孕んでいるように感じられた。

 幻想的、とでも言うのだろうか。ものの道理もわからないような幼い時分ではあったが、そんな私でさえつい時間を忘れて見とれてしまうほどの光景だった。どれほどの時間立ち尽くしていたのだろうか。一秒にも満たないようにも思えるし、一昼夜の間そうしていたのかもしれない。

 そんな、どこか遠くへと飛んでいってしまった私の精神を体に立ち返らせたものがあった。微かではあるが、人の声が聞こえたのだ。

 初めは幻聴かとも思った。それほどに微かな声だったのだが、二度、三度と聞こえればそんな疑念もすっかり取り払われる。次に私は、助かった、と考えた。いかに見慣れぬ土地であっても、そこに住まう者に尋ねさえすれば人の住む処へは行けるはずだ。そうして、私は湖の水で喉を潤してから声の主を探して歩き始めた。

 歩きながら横目で湖を見やると、自分も動いているためか、先ほどより水面の輝きが増したように見えた。それまでに蓄積していた疲れはかなりのものだっただろうが、それすら感じず、ただ見とれながら機械的に足を進めていた。

 しばらく歩いたところで、また声が聞こえた。先ほどより近づいていたらしく、今度こそはっきりと聞き取ることができた。その声は一言、もういいかい、と声高に言った。

 次の瞬間、私は駆け出した。湖に見とれて忘れかけていたのだが、私は迷い人なのだ。いくら他のことに気を取られようと、それだけは絶対に忘れることのできない事実だった。再び汗が噴出し、息も先ほどよりずっと荒くなる。その時の私は、広大な砂漠で蜃気楼を見た旅人と同じ心持ちだったに違いない。

 声の主はすぐに見つかった。木の幹に身体を預け、顔を伏せている。すぐに声をかけようとしたが、息が上がってしまっていてそれすらままならなかった。しかし、そうしているうちに、相手が気付いてこちらへと振り向いた。

 目が覚めるような――というのは、あの時私が感じた気持ちを言うのだろう。私は、声をすることも、息すらも忘れて相手に見とれていた。

 それは、少女だった。年の頃は当時の私とそう変わらないようだったが、私が今まで見てきたそれとは一線を画すものだった。

 まず目を引いたのは、髪だった。彼女が後ろを向いている時、私は下を向いて呼吸を整えていたのでその時初めて気付いたのだが、今まで見たこともない、碧色の髪をしていた。それも、人工の薬品で無理矢理染めたような汚らしいものではなく、新緑の葉を思わせる鮮やかな色だった。それが頭の横で、一つの束にまとめられている。

 服は、白いブラウスにワンピース。そこから伸びる手足は太陽の光を反射して輝くほどに白く、向こうの景色が透き通って見えそうだと感じた。

 だが、それらの何よりも私の目を引いたものがあった。彼女の背中には、羽が生えていたのだ。とても薄く、透明で、まるで蜻蛉のような羽だった。それがあたりを満たす光を更に乱反射し、まるで彼女自身が光を散りばめてきらきらと輝いているように感じられた。

 最後に、彼女の纏う雰囲気に私は言葉を失った。美しさと可愛らしさの両方を併せ持ち、決してそれを誇示することもない奥ゆかしさ。何よりも、クラスメイトの女子達には絶対に感じることのできない神聖さがあった。決して犯してはならないと感じたが、同時に、幼いながら、自分の手でそれを汚してみたいという劣情も湧き上がった。

 私と彼女はそのまましばらく見つめ合っていた。と言っても、私の方はただ単純に、息があがってしまっていて喋ることが出来なかっただけである。それに対し、彼女は私のことを見定めるようにじっと見つめていた。

 汗一つかかず、涼しげな様子でこちらを観察する美しい少女と、汗や土、それに葉っぱなどを体中にひっつけて荒く呼吸を繰り返す自分。自分と相手の姿を対比して、急に自分がとても惨めな存在に思えた。

 先に声を発したのは彼女だった。きっと、私の息が整うのを待っていてくれたのだろう。彼女は私に、何者なのか、どうしてここにいるのか、と問うた。その答えとして、私がそこに至るまでの経緯を話すと、彼女は私の姿を上から下までまじまじと見て、合点がいったようににっこりと笑った。

 そして帰り道へ案内すると言うと、くるりと背を向けて森の中へ歩き出し、私はそれを慌てて追った。

 道すがら、ぽつりぽつりと話をした。と言っても、彼女が私に何がしか質問をし、言葉に詰まりながら私が答えるという程度のものだったが。私はすっかり彼女の持つ雰囲気に圧倒され、魅了され、何も考えることができなくなっていた。まさに心ここにあらず、と言ったところだろう。先を歩く彼女の背と羽、揺れる髪、地を蹴る脚、舞うスカート――そういった諸々をうっとりと眺めていた。

 そうしてしばらく歩いていると、ふと彼女が立ち止まり、こちらへ振り向いた。同時に彼女は私の目の前から体をずらす。すると、そこからまっすぐに伸びる道が見えた。道と言っても、コンクリートなどで舗装されたようなものではなく、人一人通るのがやっとといった獣道のようなものだ。

 彼女はその道を指し、ここをまっすぐ行けば帰ることができると言った。しかし、私はその道に足を踏み入れることを躊躇した。

 彼女ともっと一緒にいたかったのだ。私は不思議な魅力を持つ彼女に、すっかりやられてしまっていた。彼女と一緒にいられるのなら、この先の人生を全て無駄にしても構わない、そんな風にさえ思ってしまっていた。

 本当に私は幼かったと思う。気付くと私はその思いを彼女に全てぶつけていた。無茶なことだと幼いながらに理解してはいたのだが、それでも言わずにはいられなかったのだ。

 それを聞いた彼女はとても困った顔をして、私に帰らなければいけないと諭した。それでも私は食い下がり、まるで駄々っ子のようにべそまでかいて彼女に懇願した。

 どれほどそうしていたのだろう。彼女は困り果てた顔で必死に私を諭し、私は涙をぽろぽろと零しながら訴えた。傍から見たら、さぞ滑稽に見えたことだろう。特に、私の方は理屈も何も関係なく、ただただ同じ主張を繰り返すばかり。当然、そんな話し合いに終わりが来るはずもなく、やがてどちらともなく黙り込んでしまった。

 とうとう私は俯いてうずくまってしまい、本格的に駄々っ子の様相を呈してしまった。彼女の顔を見ることはできなかったが、きっと本当に困った顔をしていただろう。今となっては彼女に悪いことをしたと思うのだが、その時は本当に必死だったのだ。

 太陽の光は相変わらず地上を激しく照らしている。しかし、周りを囲む木々のおかげで刺すような光に晒されることもなく、ゆるやかに流れる風が私達を優しく包み込んでくれていた。遠くの方から蝉の声が聞こえる。湖を満たす水の気配を感じることができる。きっと夜であれば、湖上を舞う蛍の美しい姿が見られたことだろう。

 そうしてしばらくの間、気まずい沈黙の中に身を預けていると、彼女が私の前に屈みこみ、顔を上げさせた。その時私の顔は涙とか鼻水とかそういったものでぐちゃぐちゃになっていたのだが、それを全く気にした様子もなく、私を抱き寄せてこう言った。

「あなたがここを好きになってくれたのはとても嬉しいこと。私もここが大好きだから。でも、今のあなたには帰るべき場所も、迎えてくれる人もいる。そういう人はここにいてはいけないの。だから、今は帰りなさい。もし、もしも、あなたがもう一度ここに来て、その時持っている全てを捨ててでもここにいたいと望んだら。その時こそは、一緒にここで生きましょう」

 ……一言一句、漏らさず覚えていた自分に思わず笑ってしまう。

 そうして体を離し、私の目をまっすぐに見ると、首を傾げながら「だから……ね?」と微笑んだ。

 その時、ようやく彼女が言っていたこと、私自身が言っていたこと、その意味を理解することができた。彼女は、ずっと私のためを思い、帰るように言ってくれていた。しかし、私は彼女のそんな気持ちを無為にしようとしていたのだ。

 それがわかると、私は、急に自分がとても恥ずかしく思えた。その時にようやく、私の言っていることが、物心のついたばかりの幼子のような我儘だったのだと気付いたからだ。

 私は着ていたシャツをめくりあげ、ぐちゃぐちゃになった顔を拭った。そして彼女の顔をまっすぐに見据えて自分の物言いを詫び、帰路へつく意思を告げると、彼女は何も言わず笑顔を浮かべた。

 それは本当に美しくて、まるでお伽話に語られる「妖精」のようだ、と感じた。もしかすると、彼女は本当に妖精で、あの場所は俗に極楽と呼ばれるところだったのかもしれないとすら思えてしまう。

 そして、私は一歩、また一歩と足を進めていった。それでも、彼女への想いは中々決別することができず、三度だけ彼女の方へ振り返った。

 一度目は、笑って手を振ってくれた。

 二度目は一度目よりも遠く、ただ微笑んでこちらを見ていた。

 そして三度目はさらに遠く、既に彼女はそこにいなかった。

 ――それから私が振り返ることはなかった。

 何も考えずにひたすら歩いているうちに、気付くと山の麓へと辿りついていた。彼女のところへ迷い込んだ時と全く同じように、である。やはり私は途中で知っている場所へ出ることもなく、唐突にそこへ辿り着いたのだった。

 そしてぼんやりと彼女のことを考えながら家路につくと、家族や友人等、数々の知り合いから異様なまでの出迎えを受けた。驚いたことに、私が迷い込んだ時から実に数週間が経っていたのだ。

 当然彼らは私がどうしていたのか根掘り葉掘り尋ねてきたが、私が体験したありのままを話しても信じてはもらえず、ついには怒り出してしまう者まで出る始末だった。結局、最終的には山で遭難していたということになり、当然ながら私はその山への出入りを禁じられてしまった。

 それでもどうしても彼女のことが気になってしまい、何度かこっそり山へ足を踏み入れたのだが、何度試してももう一度あの場所へ行くことはできず、それを感づかれてこっぴどく叱られることに終わるのみだった。

 そうしているうちに、だんだんと私も日常の生活へ戻っていく。

 やがて就職にあたり慣れ親しんだ土地を離れる頃には、あの場所のことや彼女のこともすっかり忘れてしまっていた。




 就寝前の手慰みにとこの手記に手をつけたが、予想よりずっと夢中になってしまった。本来なら一晩で書き上げてしまうつもりなどなかったのだが。

 随分長いこと思い出しもしなかったのだが、いざ掘り起こしてみた記憶の鮮明さに、自分でも驚きを隠せない。やはり、あの体験は私の中で、私が考えていた以上に鮮烈な記憶となって残っていたのだろう。

 あの時私が彼女に感じた想いは、やはり初恋というものだったのだろうか。これまで送ってきた人生の中で親密な関係になった女性は幾人かいるが、思い返してみるとどこか彼女と似通った部分があったような気がしないでもない。

 とはいえ、所詮は既に遠い過去。いくら強烈な体験だったとしても、今の私にそれほど強く影響を及ぼすものではない。記憶とは、時と共に風化し、やがて消え行くものなのだ。

 さて、そろそろ日をまたぐ時刻だ。明日も朝から仕事へ行かなければいけないし、そろそろ床に就かなければ。

 まあ、折角思い出したことだし、今日は彼女のことを考えながら眠るとしよう。もしかしたら、あの場所と彼女の夢を見られるかもしれない――。

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