第2話 理科準備室の回想

  私はどこか安心していた。

 教室に入ってきた君島の顔を見た時、前にあった時と顔つきがだいぶ変わっていてこの人本当に君島だろうかと不安になった。けど「なんだぁ真田かよ」と気の抜けた声を聞いてやっぱり彼だと安心した。

 銀の月が誰もいない廊下に差し込み、君島と並行するように歩いていく。

 夜の学校は不思議だ。耳を澄ませば教室から子供の甲高い声が外からでも聞こえるのに、遊び疲れたように学校全体が眠っている。


「まさか来るとは思ってなかった」

「そりゃ廃校の知らせを送ってきた人との約束を忘れるなんて非常識もいいところ」


 彼の歩いた跡に足跡ができる。ほこりが廊下に積もっている。もうここには子供が出入りすることがない、ほら廊下の端には灰色のほこりが転がっている。窓は曇っている。日頃生徒に掃除をさせて、先生に掃除していないと丸わかりだった場所が、誰も指摘されることはなく放置されている。


「真田なら先生に許可取って正面玄関から入ると思ってたのに、まさか開いていないとは」

「昼間ならともかく、夜中に中に入りたいですって許可できると思う? 普通?」

「たしかにそうだよな」


 君島は笑って誤魔化す。自分だって、結局こうして忍び込んだくせに。

 一階の昇降口前にある放送室が目に入ると君島がクイーンを流したあの時を思い出した。結局クイーンの曲は生徒からの評判はまちまちで、流れを変えることはなくまた同じ曲を繰り返すだけだった。たった一つの音楽で学校が変わるなんてドラマは起きることはなかった。

 でも私はクイーンが好きなった。初めて一回聞いただけの音楽の名前を全部覚えていた。今ではクイーンの曲全部下宿先の置いているほどだ。もちろんフレーズだけでなく、曲名も全て暗記している。今ここで一曲歌ってみろといえば歌える。


「真田が放送委員だった時のこと覚えている?」


 唐突に放送委員のことを切り出してきたが、私はうんと答えた。


「俺がクイーン全集を学校で流した後、呼び出されて先生に怒られたんだ。他の生徒が俺が放送室に入ったところ見られて。」

「バレちゃってたんだ」


 君島は窓を開けるとその縁でぶらんとブランコに乗るように体をもたれかけた。窓の縁で佇むというちょっと危なげなく、もしここに先生がいたら真っ先に飛んできて怒られるところだ。

 風が吹くと、茶に染めた君島の短い髪がなびく。ぐらんと後ろに傾けると君島は消えそうな感じで遠いところを眺める。


「先生が「真田がそんなことするわけがない」って完全に俺が目の敵にされて、真田はずりぃなあって、あの時恨めしかった。まあ日頃の行いの差なんだろうけど」

 ああ、君島もそうだったんだ。

 別に怒りはしなかった。昔のことだからとかでなく、今から見ても自分はこの檻の中では恨みを買ってしまうような人なんだと、認識できたんだ。

 私は誰から見ても先生にべったりとゴマをする子に見えていたのだろう。だからあそこに閉じ込められてしまったんだ。不器用とかじゃなく、ムカつくからという理由で。

 窓から降りて君島がお尻やひざの裏を叩くとキラキラと小さなほこりと砂が舞った。かなり掃除されていないようだ。昇降口の階段を上ろうとすると、ぐらっと体がぐらつき仰向けに倒れかけた。


「大丈夫か真田!」

「うん」


 間一髪で君島が手を伸ばしてくれたおかげで落ちずにすんだ。階段が昇りにくい。一段一段の高低差が低すぎる。低学年の子が上りにくくしないようにするために、段差を低くしているようだけど、大人だと踏むタイミングを間違えて転びそうだ。

 もし頭の打ちどころが悪かったら、翌日の記事に『廃校になった校舎で死体発見』の見出しが出る所だ。そうなれば、死んだ私の幽霊が出てくるとかとのうわさがこの町に流れるかも。それも面白い……なんて不謹慎だし、まだ死にたくない。

 今度は落ちないように、手すりを持ちながら上がっていこう。けど、手すりはザラっとした感触が手のひらに伝わった。嫌な予感を抱えたまま、片目を伏せて恐る恐る手すりを触った手を見る。

 小さな砂粒が棘のように光って刺さり、こげ茶色のほこりが私の手の中に絡まっている。


「うぇへ。最悪」

「きったな。手すりまでほっぽりだしかよ」


 ここまで手入れがされていないとなると、本当にこの校舎は用済みなんだと思い知らされる。

 綺麗な言葉を使うなら、思い出・愛着・青春の場所。それらが詰まっていたものはもうほこりと砂で覆いつくされて、最終的にはただの更地となるんだ。

 二階に上がり近くにトイレはないかと探し回る。手洗い場に行けば水は出るかもしれないけど、もし水道が止められていたら最悪トイレに溜まった水で洗うしかない。トイレの前に到着するとちょうどよく近くに手洗い場がある。

 こっちの水が出なければ、トイレで流すしかない。つばを飲み込んで蛇口持つ。

 蛇口をひねった。


***


 蛇口をひねった。

 掃除用のバケツの中に水がたっぷりと溜まると、理科室の机をぞうきんで拭く。焼け焦げで穴が開いた理科室の机はぼこぼこで拭きにくい。それに今日は理科室での授業がなかったみたいできれいだ。拭く必要がないほどに。

 ぐるっと机をふき終えると、同じ理科室当番の三木が箒の棒の上であごを乗せた。


「もう掃除終わった帰ってもいいんじゃない。こんなきれいならわかんないし」

「だめ。もし残っていたら先生に怒られるでしょ」


 他の子も三木に賛同していたけど、私は掃除を続けた。前に朝礼で、当番の場所の掃除をサボって帰ったのがバレて怒られた子がいた。公開処刑のように教室の真ん中で先生に怒られていた子は、全く反省の色が見えていないように笑って誤魔化したらもっと怒られた。


 そいつの名前は君島だ。


 もしも私があの場にいたら、恥ずかしくて笑ってもいられない。どこが悪かったの、ほこりがどこか残っていなかったと外でも頭の中で大反省会が行わるだろう。なにより、みんなの前で醜態をさらされるなんて泣き出してしまいそうだ。

 私は、ああはなれない。


 バケツ片手に理科室の隣にある準備室に入る。みんな怖くて入りたがらない準備室は、掃除をさぼっているのが丸わかりで、人体模型の肩にくっきり季節外れの雪のように灰色のほこりが積もっている。よく先生来なかったなぁ。


 ぞうきん片手にほこりだらけの机をふいていく。ふいた跡がモーセが水面を割ったように一本の道を作り出していく。次に灰色の雪が積もる人体模型もきれいにしようとぞうきんをあてがおうとした。

 目があった。赤と白の筋肉の隙間から目玉が私を睨んだみたいに見つめた気がした。ひるんだ拍子に真っ黒に汚れたぞうきんの裏が見えた。……ぞうきんをきれいにしろと言っているのでは。物言わない人体模型に威圧されて、汚れたぞうきんをバケツにつけた。改めて準備室を見回すと、道具一つ一つが生きているかのよう。飾られている蝶の標本は今にも四枚の羽根が一斉に動き出しそうだし、あの瓶の中の生き物も目がこちらをぎろりと向いてきそう。


 透明だった水が一回浸けただけで灰の水に変わった。すると、ガタガタと準備室の扉から物音が聞こえると三木の声が聞こえた。


「真田さん準備室は任せるね。こっちはきれいだし、私たちもう帰るから。先生が来たらよろしくね」


 理科室からぞろぞろと足音が聞こえる。ドアノブに手をかけるが、開かない。扉を向こうから押さえつけているみたいだ。何度かタックルしてみるけど、まったく開かない。

 扉にもたれながら、今まで自分を守っていた魔法が消滅してしまったように力が抜けて体育座りする。


 ……みじめだ。

 ホルマリン漬けの生き物と人体模型が三木たちに閉じ込められた無様な私を見つめる目が突き刺さる。先生に怒られないように動き、教室の中で衆目に曝されたくない一身でしたのに。いや、それが三木たちには先生に気に入られようとしているウザイ女の子だと見られている。

 この人形の家では先生という動かす人に気に入られ、他の人形たちに睨まれないように過ごさなければならない。どっちもできる完璧な人形に私はなれない。でなければこんな目に遭わない。

 もし居れば、三木達の側に回ってやる。


「もうやだ。帰りたい」


 ここ二階だけど窓から飛び降りれば、ちょっと怪我するかもしれないけど帰ることはできる。でもカバンは教室に置きっぱだからお母さんになんて言われるのか。でも先生がここに来る保証もない。私が入るまでほこりまみれなのに、何も注意もなかったのだから普段先生はこっちに見回りに来ていないのだろう。

 どっちにしても絶望的だ。

 やり場のない怒りに私は箒を手に、残りの誇りと一緒に掃き捨てる。掃いても掃いても沸き出てくるようにほこりが出てくる。シンデレラもこんな風にほこりと灰にまみれながら掃除していたのかな。だとすれば、三木たちが継母といじわるなお姉さんだ。

 狭い準備室の床を一周ぐるっと掃き終えるタイミングで外の扉がガタガタ音を立てた。


「外に椅子が積み上がていたけど、誰かいるか?」


 君島が入ってきた。どうやら私を助けに来たようだ。けど隅に残っていた小さなほこり格闘している私を見て呆れたような表情をした。


「お前、閉じ込められたくせにのんきに掃除してたのかよ」

「だってカバンなかったら帰れないし。先生も来そうになかったから。ずぐぐず泣いてても意味ないでしょ」

「閉じ込められたのに、肝座ってんな」

「そりゃ、優等生だから私」


 自分に言い聞かせるように優等生という言葉に皮肉を込めた。

 将来のために、成績のために、自分のために、優等生は存在する。けど子供は先生というミニチュアを操る奴らに反撃したい弾丸だ。身勝手な大人に反撃するのは気持ちいだろう。だから大人の味方をする優等生は損をする。

 君島はバケツに沈んだままだったぞうきんを絞ると、机をふき始めた。


「でも、真田ではそれでいいと思う。その方が先生から疑われても信じてもらえるだろうし。俺が掃除手伝ったことも真田が言えば信じられしな」

「なんで君島は残ってたの?」 

「掃除サボって遊んでいた。たまたま理科室の前通っていたら真田以外のメンツが帰っていたからちょっと覗いてみたら」


 へらへらと自慢げにサボっていたことを明かした。またこいつはと、怒る気もなくした。


「だから真田は模範的な優等生のままで。その方が俺も助かるし」

「バカ。あんたのために優等生しているんじゃないの」

「わかってるわかってる。掃除の残り手伝ってやるから、あとそういうところが好きだから俺」


 君島が手を動かしながら机の上に残っているほこりをもくもくとふき取り始める。調子のいい奴とほこりが少なくなった床を掃きながら箒を動かす。

 でも。 

 よかった。本当に。

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