第2話




 二十分ほど電車に揺られてから目的の駅に降り、モモちゃんと途中で別れて(私とモモちゃんは学校がちがうのだ)学校に着いた。

 校門から下足場へ歩いていると、友人である茶髪の佐藤とカラコンの鈴木が前を歩いていた。

「ぅおはよー」

 後ろから声をかけると、ふたりは振り向きながら「おはよう」と返しかけて、言い終わるまえに盛大に吹いた。ふふん。成功。

「ちょ……! お千代! 頭! 牛!」

 ふたりはおなかを抱えながら「ウケる!」「牛!」と何度も私の寝グセ頭を指さしてはゲラゲラぽーと笑う。茶髪の佐藤が「写真撮らせて」とお願いしてきたので、両手の人差し指をピンと立て、ついでに目ん玉も上にして、とどめにアゴもしゃくれさせたら、カラコンの鈴木が笑いすぎて過呼吸になった。

 ひっひっふー。ひっひっふー。と佐藤とふたりで鈴木を介抱しながら教室へ入ると(鈴木はその間中ずっと「私は妊婦じゃねーわ!」と言い続けていた)朝の慌ただしい空気の合間から、私のすばらしき寝グセ頭に気付いたクラスメイトたちがふたりと同じように笑う。

 その中でひとりだけ暗い顔でうつ向いている女の子がいた。影山さんというその子には親しい友達もいないらしく、授業以外で声を聞いたこともなかった(その声も少し席を離れたら聞こえなくなるほど小さなものだったけれども)。

 私は笑ってくれるかな? と思って影山さんに「うひょー」と突撃していったけれど、彼女は一瞬ビックリした表情を見せたあと、消え入りそうな声で「ごめんなさい……」と呟きながら、逃げるようにその場を去っていった。

 やっちゃった……。と強い後悔が私を襲う。

「相変わらず暗いよねー。あいつ」

「ほんっと、何が楽しくて学校来てるんだろ」

「いっつもひとりで誰とも喋んないし。何考えているか分かんないんだよね」

「別に陰キャなら陰キャでいいんだけど、空気読めよっていうか、周りが白けるような態度取るなよって感じ」

 ふたりは影山さんが去ったあとも、ずっと彼女の悪口を言っていて、私は〈あぁ……、嫌だなぁ。こういうの〉とか思いながらも、ふたりを止められずにいる。

 私は影山さんのことは嫌いではなかった。あまり接点のない間柄ではあったけれど、一度だけ彼女とふたりきりになったことがある。


 その日は何年かに一度くらいの奇跡で、バッチリと目が覚めた朝だった。二度寝しようにも目が冴えすぎて眠ることも出来ず、かといってこのままぼんやりと過ごすの何だかもったいなくて、私は気まぐれにいつもよりかなり早い時間に学校へ行ったのだった。

 いつもより一時間ほど早く着いて、人気のない廊下をぷらぷら歩いていると、私たちの教室に何やら人の気配がする。何となく忍び足になってそうっと教室を覗いてみると、そこに影山さんがいたのだ。

 彼女はひとり窓際近くにいて、花瓶の水を変えて戻ってきたところのようだった。

 まだ弱い朝の日差しをレースのカーテン越しに受けながら、影山さんは慎ましく、しかし丁寧な所作で花を活けていた。彼女以外に誰もいない、夕陽のように淡い教室で、誰かに見られることも、褒められることもなく、あるいは義務や責任からでもなく、ただいとおしそうにやさしいまなざしで小さな花を見つめ、たおやかに指先を動かしているその様には、何か生命に対する慈しみのようなものが感じられた。

 影山さんは決して派手な面持ちでもなく、周りを明るくする華やかさがある訳でもなかったけれど、廊下から彼女を見惚れるように眺めていた私は、内面から滲み出る美しさというものを初めて目の当たりにした気がした。

 フェルメールの絵画のような神聖な瞬間に水を差すのは気が引けたけれど、このまま廊下に突っ立ってこっそり覗き続ける訳にもいかず、私は教室の引戸を開けて「おはよう」と彼女に声をかけた。

 出来るだけこそーっと開けて、出来るだけにこーっと声をかけたのだけれど、影山さんはびくーっと漫画みたいに跳ねて、目と鼻と口が力をあわせて『ナ・ン・デ?』と文字にしていた。まあそうなるよね。

 そのあとは影山さんと二言、三言ぎこちなく言葉を交わして、しかし結局何を話したかは覚えていない。

 ただ、彼女の片方のこめかみから編まれた小さな三つ編みと、毛先近くで揺れる『すみっこぐらし』の髪止めが、彼女のせいいっぱいの自己主張のように思えて、妙に私の心に残って消えずにいる。


 茶髪の佐藤もカラコンの鈴木も、影山さんのことを悪く言っていたことなんて忘れたみたいに、今は別の話題で盛り上がっている。そこには後ろめたさのかけらもなくて、当然のように私の席も用意されている。だから私はそこに座る。他にどうしていいか分からないから。

「ていうかお千代、今日ずっとその頭で過ごすん?」

「おうよ! そのためにハードスプレーで固めてきたのさ」

 影山さんに対する後ろめたさから少しでも目を反らしたいという自分のずるさを自覚しながら、私はいつもどおり面白可笑しく振る舞う。佐藤も鈴木も私の言動に笑い、満足し、そうして私は私の居場所を得る。対して仲良しでもないクラスメイトをかばって友達から非難されるよりも、私は自分を守ることの方が大事なのだ。

 そんな打算的な自分のことが、私は嫌いだ。

 しかし何よりも嫌悪するのは、自分自身や影山さんに対するちっぽけな罪悪感さえ、時間が経てばやがて薄まり、忘れてしまうということだ。




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