第22話・邪を払う

 ハセガワさんの口が、ぽかんと開いている。待ち合わせのときよりもかなり大きめに。あんぐり、を絵に描くとこうであろう。アパートの部屋の玄関ドアを開けた途端に、その状態に落ち入った。彼女は、きっと頭の中を整理しようと努めているにちがいない。

 ちょとちょと、まってまって・・・この部屋の中の光景はいったいどうしたことかしら?荒っぽいタイプのドロボウでも入ったのではないの?いや、嵐か竜巻が通り過ぎたのかもしれないわ。それとも、空襲による爆撃かなにかが・・・

 しかし、それらのどれでもないことは明白だ。自分を部屋に誘ってくれた男が、この極限的に破壊された室内の惨状にもかかわらず、平然と「ま、ま、どうぞ」と奥へと導いてくれているのだから。足元のゴミの山は、ひざ丈ほどにまでうず高い。この状況は、男が自らつくり上げたものなのだ。ほっとひと安心・・・いやいや、できはしない!これは正真正銘の魔窟だ。男のひとり暮らしとは、こういうものなのだろうか?

 どうしよう・・・

 ハセガワさんは、ついに逡巡したにちがいない。さりとて、引き返すわけにもいくまい。腹をくくったか、お行儀よく靴を脱ぎ、玄関にそろえている。しかし、ここからどう進めばいいのだろうか?必死で視線をめぐらし、探す。足の踏み場を。しかし、男は勝手知ったるルートを平気で突き進んでゆく。その足跡をトレースし、ハセガワさんはよろめきながら、ようやく小さなエアポケットにたどり着く。そこは、デスクと椅子が置かれた仕事スペースだ。この周辺にだけ、静穏な無風地帯が設けられているのだ。

「みず、飲む?」

 座った胸元にまで押し寄せるゴミの山の奥に、冷蔵庫が垣間見える。そのドアを開け、男はミネラルウォーターを引き抜いている。新聞紙、ビールの空き缶、ペットボトル、カップ麺のカラ容器、くしゃくしゃの原稿用紙・・・その中に埋もれたコップを魔法のように探り当て、男は台所に洗いにいった。そのシンクにも、汚れた器が何層にも積み上げられている。ハセガワさんは、ぽかんと口を開けたまま、戻ってきた男の手から水を受け取った。

「すごいでしょ、オレん家」

 われながら、確かにすごい。ゴミの大海原だ。

 だらしない・・・

 思わず口から出そうになる言葉を、ぐっと飲み込むハセガワさんだ。聡明な彼女は、なおも思考をめぐらせる。いやいや、これはこの男の実相ではない。冷蔵庫からは、きれいに管理されたミネラルウォーターが出てきた。このひとは水道水を飲もうとは考えないのだ。デスク周辺は、荒れていながらも道具が合理的に配置されており、きちんと仕事をしようという意思も見られる。ゴミの中から、ちゃんとコップの場所を探り当てた。どうしようもなく散らかしながらも、必要な物の位置はしっかりと把握できている。このひとは本来、几帳面なのにちがいない。

 こころをやんでるんだ・・・

 ハセガワさんは理解した。そして、屹然と立ち上がった。

「そうじをしましょう」

 そう言うと、ハセガワさんは腕まくりをはじめた。メガネの奥で、瞳が黒ぐろと揺れている。

「はい・・・?」

「このおへやをかたづけるのです」

 常に後ろをトコトコとついてくる彼女が発した、はじめての主体的な提案だ。オレはうろたえた。

「ごみぶくろはありますか?」

「あ・・・と・・・台所のシンクの下・・・」

「それにぜんぶつめてゆきましょう」

 こうして、ゴミ屋敷の大掃除が開始されたのだ。ハセガワさんは、これまでに見せたことのない馬力を発揮して、わが荒れた領土をどんどんと耕していく。彼女の進んだ後には畳の床が現れ、花でも芽吹きそうな美しい土地がひらいていく。まるで妖精が通り過ぎた跡のように。

 のちに述懐する。夕焼け色の光線が差し込む台所で汚れものを洗いながら、ハセガワさんは思ったのだという。

 わたし、なにをしてるんだろう・・・

 わが魔窟から、こうして邪が払われ、平らかな世界がひらけた。この清潔な部屋は、二度と荒れることはなかった。

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