第21話・ポスト

 私生活とわが自律神経は狂いつつあるが、ハセガワさんとの交際は意外と順調だ。直感をはずしたことがないオレは、今や、あのときの後光の意味を信じてきっている。会った瞬間に、雷に打たれる相手がいる。びびびっ、とひらめきが走るひともいる。だけど彼女はそうではなく、ほわんと光に包まれて現れた。あの姿が、なんとなく納得できている。つまり、そういう空気感のひとなのだ。

 この日も江古田駅前で待ち合わせだ。南口(なぜか江古田のヒトビトは、この場所を「ナンコー」と呼ぶ)にいくと、なんだかポストみたいな人物が立っている。よく見ると、ハセガワさんだ。近眼メガネの彼女は、今日も口をぽか~んと開いている。いや、あごをはじめ、手、ひざ、尻・・・全身が脱力している。そして、生気が抜けきっている。ひとたるもの、なかなかこうまでは生命の気配を消せないものだが、とにかく彼女は、何事もしていないとき、完全に脱力しきる術を心得ているようなのだった。その姿に、すでに後光は差していない。

「やあ、待った?」

 声を掛ける。その途端に、ぼんやりしすぎのハセガワさんは「はっ」と生気を取り戻す。上空50フィートを浮遊していた魂が、ひゅひゅっ、と肉体に戻り、口を閉じる作業を思い出させるのだ。そのとき、きっとこぼれかけていたよだれを袖口でふくことも忘れない。じゅるるっ。

「いやあ、ポストかと思って、ハガキを投函しそうになったよ」

「ひとりでたってると、よくいわれます・・・ぼーみたい、って」

「ぼう・・・」

「そうです。ぼー(棒)」

「・・・ま、いいや。なにを考えてたの?」

「なんにもかんがえてないから、ぼんやりとなるのです・・・」

 なるほど、無の境地だ。しかしこれでは、人さらいに遭ったら、苦もなく担ぎ去られてしまうだろう。オレが守って差し上げねばならない。決意を新たにする。

 江古田の街を、あてもなく歩く。あっちの店に立ち寄り、こっちの店をのぞき込み・・・ただそれだけで、このひとにとっては新鮮な時間らしい。本当にこの二年間、江古田の街の中心にある駅から、徒歩1分ほどの日芸キャンパスまでの間を最短距離で往き、戻る、という「一次元」行動をつづけてきたのだ。その往復路の一歩外は魔界である、と信じ込んででもいるかのように。

 マクドナルドに入る。不良の巣窟だ。ケダモノどもがむさぼり食らう邪悪なるフィレオフィッシュをすすめる。生まれてはじめて口に入れる禁断の味わいを噛みしめ、ハセガワさんは「うむー・・・」とうなる。ものすごくおいしいようだ。聞けば、おやつには母親の手づくりのものしか食べたことがなく、スナック菓子の味も知らないという。崇高なるハセガワ家では、カップヌードルやサッポロ一番みそラーメンもご禁制品で、即席麺は、かの高級な「中華三昧」しかダメ、と固く戒められていたのだという。きついしつけだ。だったらパパママよ、それよりも開いたお口の方をなんとかして差し上げればいいものを・・・いや、とにかく、とんでもない世間知らずのお嬢様なのだ。そんな人物を江古田の街で連れ歩くのは、ちょっと「ローマの休日」気分ではないか。しかし、王女様にローマの俗界をご覧いただくというよりは、ヨチヨチの赤ちゃんに新しいおもちゃを見せる気分に近い。それがまた新鮮な感覚をこちらに与えてくれる。

「ちゅちゅーっ・・・ふむーっ、このしぇいくもおいしいです。ただ、ほっぺがつかれますわ」

 「わ」とは言わないが、ふさわしく装飾してみた。そういうカンジなのだ。なかなか楽しい。目をこすると、再びハセガワさんが後光に包まれている。しあわせな時間だ。

「この後、オレん家くる?」

 ついにあのセリフを持ち出した。わがぼろアパートまで、ここから歩いてわずか3分だ。

「ゆきます」

 なんの裏をも嗅ぎ取ろうともせず、ハセガワさんは目を輝かせる。魔界への誘いに、このぼんやりとしたひとは逡巡がない。疑うことを知らない心の清潔さがそうさせるのだが、危ういことこの上ない。相手がこのオレでよかった。ほっ・・・

 ところが、ハセガワさんの行く手には、本物の魔窟が待ち受けているのである。

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