第17話・またまた引越し
スピリッツ誌の新人賞の受賞でまとまった金が手に入ったので、東京で二軒目となる引越しをすることにした。生涯で8回目の引越しということになろうか。
半年ほど住んだ前物件は、最悪だった。安さだけで選んだが、大家と一緒の暮らしは窮屈極まりなかった。おまけに、玄関を開けるとけたたましいブザーがアパート中に鳴り響く、という不可思議極まる防犯システムに、精神を消耗させられた。深夜に帰宅しようものなら、全住民を叩き起こして自分の夜遊びを知らしめることになる。なのにオレは、深夜・・・というよりも、明け方近くに帰宅する男なのだ。こんな時刻にブザーを鳴らすたびに、肝が縮こまる。恐縮というやつだ。そこでオレはいつからか、帰宅しても玄関を通過せず、塀をよじ登って自室(二階)の窓から侵入する、という方法を取るようになっていた。いわば、変質者の這い込みスタイルだ。画づらを思い浮かべてほしい。夜もとっぷりと更けた丑三つどきに、道際のブロック塀から窓の手すりを伝い、ボロアパート二階の部屋に忍び込む男の姿を。警官のパトロールにでもかち合おうものなら、犯罪者として逮捕されるのは間違いない。その這い込もうという先が、自分が収監されている牢獄だというのだから、救いがないではないか。
そんなわけで、引っ越しという名の脱出をするのだ。決めた物件は、江古田駅から徒歩3分のボロアパート「豊栄荘」だ。一階の北西角の6畳二間、廊下兼用のキッチンに、和式トイレ、風呂なし、家賃は4万5千円也。窓を開けると塀が立ちはだかって日当たりは悪く、隣ん家のやたらと吠えまくる犬の鳴き声がやかましいが、ここ以上に安い物件が見つからなかったので、仕方がない。酒場の仲間たちに手伝ってもらい、少ない荷物を運び込む。ここを、マンガ家としての新たな出発点としよう。
「あ、新しい住人さん?よろしく」
その日のうちにたまたま出くわした、ふたつ隣の先輩住民が声を掛けてくれた。
「今日、越してきました、杉山です。よろしくお願いします」
「へえ、なにしてるひと?」
「あ、実はオレ、マンガ家なんです、えへへ」
マンガの新人賞を受賞したからには、もうマンガ家と名乗ってもよかろう。なかなか悪くない響きだ。ところが、その5歳ばかり年上らしき人物も・・・
「へえ。ぼくもマンガの原作をやってるんだ」。
「家裁の人」という裁判官ものを、ビッグコミックオリジナルで連載しているのだという。毛利甚八というペンネームの彼は、隣駅にあるマンション住まいなのだが、このボロアパートを仕事場にしているのだ。のちに、片岡鶴太郎の主演でドラマ化されるこの作品で大儲けをする彼だが、この頃はこんな暗くせまい一室で、カタカタとワープロのキーを叩いていた。
「ワープロ、いらない?」
「・・・ワープロ?」
オレはその新時代の未知の機械に触れたことがなかった。逆に今の若者は、古すぎて触れたことがあるまい。要するにワープロとは、ブラウン管式テレビのようなゴツいサイズの本体と、手元のキーボードでワンセットという、初期パソコンに似た代物なのだが、ネット接続などの機能をまったく持たず、ただただ文字を打ち込んで文章にする、というだけの機械だ。電気で動くタイプライター、と言えばいいだろうか。「書院」という名のそのかっこいい未来機械を、彼は「あげる」と言うのだった。
「新しいのを買ったから」
「ああ、じゃ、もらいます」
クソ重いそいつをもらい受け、部屋に運び込む。そして、わけもわからないままにいじり倒すことにした。こうして、時代に取り残されたビンボーマンガ家は、パソコンへと向かう時代の文化にギリギリ追いつこうとしている。
江古田はいい町だ。酒場は多いし、近くに武蔵野音大、武蔵大、そしてわが憩いの地である日芸がある。日の高いうちに銭湯にいき、よくその帰りがけに日芸のキャンパスに立ち寄って、学食でひとり飯を食う。彫刻科のアトリエをのぞき込むこともある。学生時代に交流していた鞍掛くんが、大学の助手(のちに教授)になっていて、この闖入者の世話を焼いてくれるのだ。デザイン棟では、イングリッド・バーグマンのようなカイさんが、まるでこの地の支配者であるかのように闊歩している。本館の屋上に、居心地のいい場所も見つけた。ビールで夕涼みだ。江古田は、そして日芸は、オレにとっての庭となりつつある。
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