第6話・開高健
頭の悪い生徒たちが、可愛くてたまらない。オレ様の言うことをよく聞いてくれて、愉快だ。ちやほやしてくれるし、どんな命令にも従ってくれるし、ちょっとした知識をひけらかすだけでほほーっと聞き耳を立てて感心してくれる。連中の中にいると、王様になった気分でいられる。学校の仕事は楽だし、給料は決まった額が自動的にもらえるし、言うことなしだ。が、夜中に突然、虚無感に襲われる。アウトローだったはずの自分が、いつの間にか体制側に巻き込まれてしまっている。これはワナだ。ふと気づいて、怖ろしくなる。
非常勤講師の待機室は、じいちゃんたちの憩いの施設と化し、いつもなまぬる~い空気に満たされている。この甘い毒気にさらされるだけで、オレ自身もトゲを失い、日に日に老化していく。70過ぎの英語の先生が、自分で描いた油絵を持ってきて見せてくれるが、ゆるすぎて批評することもできない。一応はほめちぎってさしあげるわけだが、そんな行為は、相手を小馬鹿にするがごとしだ。そういえば、久しく作品をつくっていない。発表の場もない。隣に座るじいちゃん美術教師(特待の四クラスほどだけを受け持っている)に相談すると、それだったら、と耳打ちをしてくる。アートについて語り合えるいい場があるから連れていってやる、と言うのだ。ついていくと、なんと共産党の集会ではないか。それきり、二度といかなかった。
三人の若い教師たちはみんなオタクで、反りが合わない。チャラい話にはつき合う気になれず、疎遠になっていく。授業のコマが昼食をまたぐときは弁当持ちだが、ジジイたちのタバコの煙の中で食事はとりたくない。いつもひとりで校舎脇の川べりに座り、おにぎりを食べる。そして草の上にごろ寝だ。そろそろ変人扱いされはじめている。見上げる田舎の空が高い。ゆっくりと雲がゆく。この先、どうすればいいのかわからなくなる。
アパートに帰り着いても、やることがない。友だちもいない。雄大な長良川のゴロ石の河原で、夕闇が下りるまで、水の流れを見て過ごす。柳ヶ瀬のアーケードの繁華街を歩いても、心が浮き立たない。部屋にぽつんといると、缶ビール一本ですぐに眠くなる。決定的にゆき詰まっている。
いちばんの友だちは、マンガだ。今週発売のビッグコミックスピリッツを買わなければならない。待ち遠しいとか、面白くて読み飛ばせないとか思っているわけではなく、ただの習慣なのだ。いつもの書店に入ると、前年に亡くなった文豪・開高健の本が平積みにされている。そのとき、まったく不意なひらめきがあった。コーナーの一冊を手に取り、買ってみたのだ。短いエッセイを集めたようなものだ。開高健は、その存在をウイスキーやメガネのCMによってのみ知っていたが、なぜこの本に手を伸ばしたのかは、自分でもよくわからない。アパートに持ち帰り、読んでみる。小さな小さな字がページ全体にぎっしりと詰まっていて、5分でヘトヘトになる。そういえば、字だけが印刷された本など、この歳になるまで読んだことがない。「夏のとも」を白紙の状態で提出するなど、宿題というものをついぞしたことがないオレは、夏休みの課題図書ですら開いてみたためしがないのだ。高校まではマンガ一辺倒だったし、美大時代は画集しか開かなかった。美術論、みたいなやつに手を出したこともあったが、買っただけで完全に満足し、目次より先には読み進まなかった。オレに文字の読解は向いていないのかもしれない。それでも、イギリスの田舎で川釣りをする開高健の姿が、どういうわけか琴線に触れたのだった。それにしても、人間の脳の構築能力というのはなかなかのものだ。この歳から学習をはじめても、シナプスはスパークし、ニューロンは伸び、触手はひろがり、神経回路は新たにつながっていくようだ。無理やりに読み進むうちに、文章作法が理解できるようになり、読書がたのしくなっていく。
開高健の作品は、文節が長く、言葉と言葉の連なりが複雑で、しかも一言一言が意味に満ちているために、ひどくくたびれさせられる。言わんとするその一節に至るまで、裏側に存在する多くのものを徹底的に削ぎ落としていき、最高度に洗練された言葉しか残さないのだ。そのおかげで、間延びがない。描像のごまかしが絶無で、実に明晰だ。本人は、いい文章は文字が立ち上がって見える、と書いているが、オレにもその立ち上がる様がついに感覚できはじめた。すると、難解に思えたその文章が、俳句のように簡潔だったのだと気づく。開高健の文章は、考えさせて読解を要求するのではなく、一瞥で感知させるという手法だ。文字をとらえて熟考するまでもなく、言葉の意味がひらいて連なって見えるのだ。「青空にシンバルを一撃したような」ひまわり、とか、「都が燃え落ちるような」夕焼け、とか、「バターを熱いナイフで切るように」釣り糸が走った、とか、キザだが、味わい深く、情景がはっきりと浮かんでくるではないか。その構築は、まさに芸術行為ではないか。なるほど、面白いものだ。オレは遅ればせながら、読書に目覚めた。そして逆に、書いてみようかな、とも思いはじめた。
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