あたたかな敗北

岩清水かほ

柳田幸一17歳

 勝ち組か負け組かで言えば、俺は圧倒的に勝ち組だと思う。一番楽しい時期、高2の夏。クラス内外問わず友達も多いし、自分で言うのも変な話だが割とモテる。勉強もスポーツもそれなりにできるし、家族仲もいい。これ以上何を求めるのだろうかと思うくらい今までの俺の人生はイージーモード。きっとこれからも素晴らしい人生が待ち受けているだろう。そう、受験に向けてそこそこ勉強してそこそこいい大学に行ってそこそこいい企業に就職してそこそこいい女と結婚して、かわいい子供に恵まれて……


 「……あれ?つまんなくねえか?」

 「そうかな?私は意外と堅実なんだなって面白く聞いてたけど」

 「うわ厳しい!意外とって、笹川さんって結構厳しいこと言うね!」 


 そもそもなぜこの女、笹川に俺の人生設計を語っているのだろうか。いや経緯は明らかで、いつも一緒に帰る友人の都合が急に悪くなって一人で帰る途中、忘れ物をしたため教室に戻ったら彼女が一人で窓にもたれて外を眺めていたから隣に立って話しかけたのだ。

 正直俺は彼女が嫌いだ。彼女は俺とは対照的な人間で、どちらかというと負け組なのだろうと思っている。成績も俺の方がいいし、友達は多くないし、モテない、と思う。どこから見ても勝ち組になる要素はないはず。本来そういう負け組はそれ相応の振る舞いをするはずだ。するべきだ。でも彼女はいつも負け組らしからぬ雰囲気を纏っていて、俺達勝ち組のことを気にするそぶりもない。だからむかつくのだ。

 格の違いを見せつけたかった。自意識過剰のふりをして、実はつまらない人間なんだと自分で言うことで、謙虚さも持ち合わせた人間であることをわからせて、圧倒的敗北感を感じさせてやりたかった。

 なのになんでこいつはこんなに、何でもない顔をしてしれっと俺を卑下しているんだ。どうにかしてわからせてやりたい。身の程を知れってんだよ。


 「笹川さんってさ、彼氏いるの?」

 「いないよ」


 だろうな。


 「まじ?結構かわいいと思うのにな。彼氏ほしいとか思わないの?」

 

 思ってるんだろ、でもできないんだろ。彼女はなんて言い訳するんだろうか。


 「今は別にいいかな、ほしくて作るものでもないし」


 でました見栄っ張り。彼氏できたことない雰囲気がだだもれです。だんだん負け組感がでてきたことが嬉しくて、俺はさらにマウントをとっていく。


 「いやでもさ、付き合ってから好きになっていくっていうかさ、まあ、笹川さんも一回誰かと付き合って見ればわかるようになるんじゃない?」

 「え?」

 「ん?なに?」

 「あ、いや、なんでもない」

 

 おかしい、期待していた反応がない。恥ずかしがったり怒ったり、俺に何かしらの感情を向けるはずではないのか。なんで少し驚いただけで何も感じないんだ。感情を抑えてなんでもない顔をしているのではなく、これは本当に俺の言葉になんの感情も持ち合わせていない、そんな表情だ。

 別の方法で攻めるしかない。


 「あとさ、笹川さんっていつも大人しいけどクラスで仲いい友達っているの?」 

 「柳田くんほどはいないかな」


 やっと俺の勝ちを認めた。でもなぜか全然嬉しくない。目は合っているけど、こいつは全然俺のことを見ていない。


 「もっとクラスのやつに話しかけてみたら?みんなで仲良くしたいじゃん?」

 「考えてみるね」


 なんでそんな流すような態度なんだよ。俺がやさしさまで見せてやったのに。

 なにかないか、この女に完全なる負けを認めさせるなにか、


 「じゃあ、笹川さんは将来の夢とかあるの?」


 こういうやつはどうせしょうもない人生を歩むんだ。それなりの大学に行って、それなりの企業に就職して、それなりの男と結婚して、かわいい子どもに恵まれる、そんなささやかで、幸せな人生を、あれ?


 「俺と一緒じゃん!」

 「え、なに突然」


 え、こいつ、まさかこの俺と同じような人生を歩むの?いやいやそんなわけがない。たまたまアウトラインが同じなだけで、俺の方が何ランクも上の人生を歩むはずだ。


 「……私さ、思うんだよね」


 初めて彼女から話し始めた。俺の許可なく話してるんじゃねえよと思いながら気持ちとは裏腹に耳が続きを聞きたがっている。


 「さっき柳田くんが言ってた将来の話、とても素敵だと思う」

 「俺の、話?」

 「そう」


 この表情は、本音を言っている。そして、しっかり俺を見ているのに。


 「一般的に普通と定義される人生に思えるけど、それを叶えるのは難しい。それでいて、いわゆる“普通”が一番誰も傷つけないと思うの」

 「傷つけない?」

 「うん、特別と定義されがちな夢を追うためには、絶対に大切な誰かを傷つけることになるから」


 後頭部が締め上げられるような痛みを感じた。やっと俺を見たと思ったのに、それは違った。大切な誰かって誰だよ、今その目に映っているのは誰なんだよ。なんで、俺を見ないんだよ。


 「笹川さんは、特別な夢を追ってるんだ?」

 「特別っていうか、まあ、身の程は知ってない感じかな。ごく少数の人にしか言ってないけど」

 「何?教えてよ」


 お前ごときが俺に言い渋ってるんじゃねえよ、さっさと言えよ、気軽に人に言えない話、お前の核の話。


 「内緒」

 「えー、気になるじゃん」

 「だってあまり人に話してないって言ったじゃん。ここまで言っておいてって所は謝るけど」


 なんで俺には言えないんだよ。なんで俺はごく少数の人間に入らないんだよ。おかしいだろ。この俺が、これだけ興味を示してやってるのに。苛立ちと謎の焦燥感が頭の中を駆け巡り、後頭部がさらにきつく締めあげられる。


 「なんでだよ、教えろよ」


 もう口調なんて気にしていられない。心の声がそのまま出てしまった。口から出た瞬間に気づいて後悔したが、彼女は横目で俺を見ただけで特に気にしたそぶりもなく、それがまた気に入らなくて苛立った。


 「んー、また今度ね」


 そう言って彼女は窓から離れ、机の横に掛けてあった鞄を手に取る。帰るという意思表示。


 「ちょっと!」

 「なに?」


 反射的に腕をつかみ引き留めてしまった。なんでこんなに思い通りにいかないんだ。だが、この苛立ちをそのままぶつけるほど子どもではないため、そっと手を離した。


 「……なんでもない」


 いらいらする。負け組のはずのこいつは、俺に憧れなり怖れなり好意なり、なにかしら向けていいはずなのに。なんで俺には見向きもせず、俺の知らない夢を抱いているんだ。そんな俺の苛立ちが伝わったのか、彼女は静かに話し始めた。


 「……私の夢は、身近な大切な人たちを悲しませる必要があって、うまくいけばたくさんの人を幸せにできるかもしれないけど、その可能性は低い。そういう夢」


 詳しいことは内緒、ごめんね。と彼女は言った。結局内緒にされたとか、そういうことはもうどうでもよくて、夢を語る彼女が今まで見たことのないくらい凛とした表情をしているものだから、俺は全てを理解せざるを得なかったんだ。


 「柳田くんが描いている将来は、私にとっては実現しづらくて、そしてとても尊いものだと思うの。だからね、つまらないなんて言わないでほしい」


 また明日、と今度こそ教室を出ようと彼女は俺に背を向ける。その後ろ姿は俺にはわからない何かに対する痛みや諦めを背負っているように見えた。


 「あのさっ」


 自分でもなんで声を掛けたのかわからない。まだ俺の中で僅かにくすぶる勝ち組でいたいという気持ちがそうさせたのだと、思いたい。


 「その夢は、そこまでしんどい思いをしてでも追い続けたいの?」


 彼女が振り返った。


 「柳田君、追い続けたいの、じゃなくて、叶えたいのって聞いてよ、もう」


 そう言う彼女の表情は今までで最も強い力で俺の後頭部を握りつぶした。

 俺は敗北したのだ。勝ち組のはずの俺が、負け組のはずの彼女に。今まで俺がイージーモードだと思っていた、そこそこ普通の幸せな人生を送っている間に、彼女はまっすぐに自分の進みたい道を見つめ歩んでいたのだろう。そしてこれからも。確かに彼女は負け組だ。彼女は自分を見つめ、将来を見つめ、歩みたい道の先にある何かに幾度となく負けてきたのだろう。そしてその度に痛みと悲しみをあの小さな体に刻み、それでもなお立ち上がって進んできたのだろう。聞かなくても、あの最後の笑顔を見れば明らかだった。その負け続けてきた姿はとても美しく、眩しい。彼女は何かに負け続けていることによって俺に勝利したのだ。いや、もともと俺は同じ土俵にすら立っていなかったのだろう。

 悔しい、むかつく、恥ずかしい、痛い、苦しい、嬉しい、美しい。

 いつか彼女の視線を捉えることができるのだろうか。同じ土俵に立つことができるのだろうか。そもそも彼女は俺を否定することはなかった。夢を追うことが必ずしも肯定されるものではないことを知っている彼女は俺の生き方を尊重してくれた。それはきっと、この生き方は彼女が散々悩んで選ばなかったものだからだろう。そうだとしたらおそらく今後彼女と俺の人生が交差することはない。彼女が夢を諦めない限り。同じ土俵なんて、もともと存在していなかったのだ。

 せめて同じ景色がみたくて、先ほどまで彼女が立っていたところで同じように窓の外を見たが、そこには見慣れた校庭と野球部員の練習しか映らなかった。






 というのはもう10年以上前の話。あれから彼女と会話をすることはほとんどなく、3年生になってクラスが別れてからは姿を見る機会も減り、そのまま俺達は卒業した。

 風の噂で聞いたのは彼女が海外の大学に進学したということ。卒業直前に友人から聞いたのは、彼女と付き合っていたことがあったらしいこと。あの日俺が教室に入る数分前に別れたらしい。ずっと隠されていたことに怒りながら、友人の急な用事とはそのことだったのか、彼氏がいないことを馬鹿にしたときの彼女の反応が少しおかしかったのはこれが原因だったのか、傷つけたという大切な誰かはこいつだったのかなと、頭の隅では冷静にいろいろなものをつなげていた。その後も友人は彼女のことを話さなかったし、俺も聞かなかった。だから、彼女が結局何を夢見ていたのかはわからないままだ。


 「ぱぱー」


 日曜日の昼下がり、俺の城。目の前には世界で一番かわいい娘がいて、BGMは目の前のテレビの音と台所から聞こえる包丁の音。


 「ん?おやつ食べたいのか?」

 「あ、ちょっと、今食べたら晩御飯食べられなくなるんだからだめよ!」

 「だって、ママは怖いなー」


 他愛のない会話。なんでもない、普通の日常。

 子供向け番組を流していたテレビがニュースの時間を告げた。アナウンサーの心地良い声の中に、聞き覚えのある名前が混ざっていた。弾かれるように顔を向けると、そこには何倍も美しい姿と、あの人変わらない笑顔。


 「あ、この人、笹川遥さんだよね。すごいよねー」


 妻が野菜を切る手を止めテレビに食いつく。


 「私たちと同い年だって」

 「うん、高校の時のクラスメイトだった」

 「え?うそ!?」

 「ほとんど話したことないけどな」


 笹川、お前は今、たくさんの人を幸せにしている。そうか、お前の夢はこれだったんだな。やっとわかったよ。あれから10年以上、お前はずっと前を向き続けてきたんだな。すごいな。

 でもな笹川、俺もあれから頑張ったんだよ。お前は知らないかもしれないけど、必死で勉強してすごくいい大学に行って、すごくいい企業に就職して、すごくいい女と結婚して、すごくかわいい子どもに恵まれた。そこそこじゃなくて、最高にいい生活を手に入れたよ。手に入れてから分かった。あの時普通でつまらないと思っていたけど、全然普通じゃない。とても難しいことだった。特別な人生ではないけど、ここに至るまでには痛みも苦しみもあったよ。いろんな奇跡があって今があるよ。やっぱり同じ土俵に立つことはなかったけど、でも俺は今とても誇らしい。今俺、胸張ってお前の顔を見ていられるよ。お前に恥じない自分でいるよ。なあ笹川、見てるか。見てないよな。それでいい。もう俺のことを見てなくていい。忘れてていい。俺は覚えてるから。あの時お前がくれた痛みを、俺は大事に抱えて、育ててきたんだ。そして今、最高の幸せを手にしているんだ。

 テレビ越しの彼女に伝えるべき言葉はわかっているが、口にするのはやっぱり少し悔しいから、いつの間にか隣に来てテレビに食いつく妻と目の前で積み木をしている娘を抱きしめて、締め上げられる後頭部から流れ出るありがとうを静かに飲み込んだ。

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あたたかな敗北 岩清水かほ @khiwsmz

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