プラトンさん、ありがとう

三崎伸太郎

第1話

河西(かさい) 順次は職を失った。

これで二度目だった。 アメリカで職を失うことは、日本人にとってかなり不利になる。 とくに彼の住んでいる地域は、シリコン・バレーと呼ばれ、コンヒ°ューター産業の世界的なメッカである。よい仕事を得るには、コンピューターに関して、何らかの技術を身につけておく必要があった。

今年は 2000年という人類の歴史の大きな節目における年で、インターネットの時代ともいわれており、速い速度で膨らんだ人類の先端技術の一つが今までの経済常識をくつがえす程までに急成長している。

河西は二十歳のころ、すでに日本でコンピューターを使っていた。当時のコンピューターには、まだ真空管がつかわれており、温度によって変調を来たしたから、コンピューターを設置してある部屋は定温で、空気清浄器が常に動いていた。

コンピューターは、室内にある片方の壁のほとんどをしめるほどの大きさだった。データーの処理能力も現在のコンピューターに比べると格段に低いもので、パンチ・カードで 情報をイン・プットして使った。

現在は、誰でもコンピューターを使っている。しかし、二十九年前、どの程度の人がコンピューターを使っていただろうか。多分、そんなに多くの人達がこの機械を操作していたとは思われない。河西の職歴にもコンピューターについては書かれていない。

彼の机の上には、六年前にシアーズで買った、いや、彼の妻が彼に買って与えたコ ンピューターが、かすかな音を立てている。

なぜ、彼の妻が彼にコンピューターを買って与えたのか、河西は妻に聞くわけでもなくウィンドウズ3.1の載ったコンピュターをマニュアルだけで簡単に操作した。昔とったきねずかだと思ったが、あとの大半は七歳だった一人息子の教育とかゲームに使用した。

その息子も現在は十三歳。二年前、新しく買ったコンピューターを使っている。価格は、650ドルだった。古い方のコンピューターは、妻が自分の貯金から1,500ドルほど払ったと記憶している。六年で価格は三分の一ほどになり、処理能力にも格段の差がついた。昨年はコンピューターの価格はさらに安くなり、一台300ドル程度になった。性能もよく、早く買うと損をするなと話しているうちに、暮れにはフリーのコンピューターが現れた。決められたイン ターネットと契約するとただでさし上げますという条件つきだが結構話題になっている。 コンピュター産業は、すごいスピードで発展している。もちろん、そんなことは分かっている。もんだいは、かれが職を失ったということだ。

河西には、現代のコンピューターと、それにかかわる職歴がない。一年前の技術が 旧いとさえ言われるコンピューター産業。しかも、住んでいる場所がそのメッカ言とう不都合が災いしている。

電話が嗚った。受話器を取ると妻が出た。彼女は小さな洋裁店を経営している。

「どう? 何か決まった?」

「ぜん、ぜん・・・」

「そう・・・こまったわねえ・・・」

「うん。こまった」

ありきたりの話をして受話器を置いた。

河西は、日本で大学を中途にして海外に飛び出した。高い学歴を要求するシリコン・バレーの会社で職を得ることは、はなはだ難しい。彼が学生だった当時は、世界を放浪することが若者たちの間で一種の流行となっており、そのための本が数多く出版されたし又、 実際に体験した若者が、出版社の要求から世界放浪の体験談を次々に本にして出版した。 その時代から二十数年が過ぎた。河西は今年四十九歳になった。あと一歩で五十である。 二十数年前、河西は各国を放浪した後、カリフォルニアのロス・アンゼルスに住みついた。たまたまメキシコから入って来て立ち寄った場所だったが、借りたアパートにすんでいた日本人の女性と結婚した。その女性が河西の現在の妻だ。姉さん女房だった。結婚当時、彼女は姉さん女房の見識から、河西に大学に戻ることを薦めた。ロス・アンゼルスにはUCLAと言う、日本人の間でよく知られた大学がある。そこの職員に彼女の知人がいて、河西の経歴から大学に入学できるコースを教えられた。

しかし、河西は断った。彼は日本人のすし屋で皿洗いをしていた。彼の頭の中には 、日本の明治から大正にかけて労働組合運動や社会主義運動を学ぶためにアメリカにい た幸徳秋水とか片山潜などの知識が浅くあり、特に片山潜がアメリカで体験した皿洗いの仕事を口実として使った。途中気持ちを変えて、新聞社に職を得たが妻が妊娠した。子供が三歳になった時、サンホセというコンピューター産業の地に仕事を求めて移住した。それから、二度仕事を変えて、二度とも首になってしまった。不運な話だ。

河西は、妻からの電話を受け取った後、アパートから出て車でEDDに出かけた。

EDDは、日本でいう職業安定所にあたる。

EDDのオフィスは、静かだった。六年前、最初に職を失った時にもここに来たが、その時はすごい人混みで、受付けの前は職を探している人々でごった返していた。

河西は、受付けで職探しのわけを話した。

メキシカン系の婦人が書類をさしだして、ここに記入するようにと言った。

「この次は、どの窓口ですか?」

「次は、あそこのコンピューターの方に行ってちょうだい」

「えっ?コンピューター?」

「そう よ。オープンするためのコードをあげるから、ちょっとまってね」彼女は自分の横にあるコンピューターに向かった。

「六年程前には、窓 口で登録して、個人面談式で職を探していただきましたけど・・・」

「あら、ずいぶん前よ、それ」

「六年前です・・・」

彼女はそれには答えず「はい、この番号で使える」と、数字を書いた小さな紙を差し出した。

河西は、コンピューターに向かった。

コンピューターのスクリーンに現れた指示どうりに、受け付けでもらった番号を打ち込み、自分のキー・ナンバーを作っ た。このナンバーで自分のデーターが守られるらしい。

次にスクリーン上に、自分の履歴書を作成した。コ ンピューターは、この履歴の内容にそって仕事を選択し、職種の情報をもたらした。

仕事は最低賃金の一時間 5 ドル50 セント(700 円)のものから、一年間に7万ドル (800万円)まである。

しかし、河西にできそうな仕事はかぎられていた。営業の求人内容は、きまって[必要、すばらしい会話能力]と書いてある。英語にはかなり自信があったが、それは単純な取り引き用語の羅列である。専門的分野で、しかも大手の会社を相手とするような営業をこなす自信はない。

賃金のよい専門職や技術関係は、縁がなさそうだ。二時間ほどもコンピュターで仕事を探しつづけていた。横のコンピューターにいた男の腹がグーとなった。時計を見ると十二時近くになっていた。八台のコンピューターも全て、職探しの人達でふさがっている。 なんだ、みんな十二月にやられたな。まったくひどいものだ。カニやトカゲでもあるまいし、自分の足や尻尾をきっても生き延びるなんてと会社の非情さをチラリと思った。

「10ドル程度じゃど うしょうもねえな」河西の横の男が、河西のスクリーンを見て言った。きちっとネクタイを締めている。

「まぁね・・・しかし、なかなかいい仕事がないのでね」

「ああ、ないねえ・・・」男は、手で自分のあごをさすりならが言った。

EDDの職員が一人一人に「どうです?うまくいっていますか?」と声をかけてゆく。河西は二、三の仕事情報をプリントしてEDD のオフィスを出た。外は、小雨が降っていた。このままアパートに戻りたい気持ちではなかった。彼はバスコム通りを下って行き、 ロス・ガトス・クリークの河川ぞいにある公園に向かった。

公園内にある池の横の駐車場に車を停めた。雨天のためか、一台のキャンピング・カー を除いて人影もない。ただ、遠くの川沿いの道に傘をさした人影があるのみだ。池はうすい霧に覆われていた。鴨の群れが岸辺近くにたたずんでいる。

河西は傘を持って来ていなかった。運転席から、鴨たちの小さな社会をながめた。数羽の鴨が池の面をジグザグにおよいでいる。なかにはガーガ一嗚いたり、時々水面下に潜っては浮かび上がるのもいる。

これが古代ならと、河西は思う。そっと鴨の群れにちかよって、そうだ、たぶん弓を使うだろう。弓がない時代であれば、石だ。手ごろな石で鴨を射止めるだろう。その鴨を夕食として家族のもとに持ち帰る。そして朝、太陽が山々の峰ふきんに昇ったころ、男は再び狩猟にでかける。この繰り返しだ。体力勝負だ。

ところが、近代においては知能の勝負がすべてを決める。ヤサ男が一日コンピューターを考えて、多額の金を稼いでいる時代だ。



河西は、車の外に出た。細い雨が、力なく彼の肩にかっかていたが、やがてとだえた。 黒っぽい雲の、まるみを帯びた周囲がしろく明るくなってきている。そろそろ雨も上がるようだ。彼はぶらぶらと湿った空気の中を歩いた。

駐車場の端にはキャンピング・カーが停まっている。日本のバスを思わせるほどの大きさだった。豊かな人がいるものだと思いながらそのそばを通りかかって、ふと小さな文字に目を取られた。[Now Hiring (求人中)]と白いボードに書いてある。

興味を持った。ドアの方にゆくと[ご用のある方は、このボタンをおしてくださ い]と、書いてあり[プラトン・テクノロジー・カンパニー]と会社名があった。

多分プラトン・テクノロジ一社の人事担当者の車だなと思いながらも、仕事が欲しい一念からベルを押した。

「グリーンの丸い印のある前で、ぐるりと一回転してくれ」と、男の声で唐突な返事があった。車体のドアの隣に緑の丸い印がある。

「一回転?」

「 そう・・・」女の声だった。

「その・・・ぐるりとですか?」

「さっさと、だまってやりなさい」一方的な返事が返ってきた。

「その・・・服など、ぬいだほうがいいですかねえ?」着ているジャンバーの肩付近がすりきれていた。

「・・・」中からはそれに対する返事がなかった。

河西は(ええい、ままよ)と日本人らしい言葉を内心で発想し、指定された場所でクルリとまわった。一回まわって、さて、どうしたものかと考えたが、もう一回まわったほどよいような気がして、再びくるりとまわり、ついでだと思って又、クルリとまわった。

「もう、いいわよ」と、どこからか声がした。

しばらくして、グイーンという音がすると車の横に大人一人がやっと入れるほどのドアが開いた。しかし、中には通じていない。箱のふたが横に開いたような感じだ。

「そのなかにはいりなさい」という指示があった。

河西は内心これはやばいのではないか。彼達は悪い連中で、そうだ、人間の内蔵のパーツを販売する会社で、このなかで・・・と色々矢継ぎ早に考えていると、再び「はやくはいりなさい」と声がした。河西は、再び仕事が欲しい一念で、反射的に中に入った。 ドアがグイーンと閉まった。中は狭苦しいが明かるかった。

「いまから、きみを、消毒する」と声がした。

やはり、人間のパーツだと河西は思い「ま、待ってくれ。売らないよ。家族がいるんだ。仕事が欲しいだけだ。それに、ぽくは、あっ、そうだ。エイズだ。商売女と寝たときに、恥ずかしい話だがね、コンドームを忘れちゃった。そ、それに、すごい水虫、日本人はア メリカ人の体に合わないよ」と、知っている医療英語の限りをつくしてまくしたてたが、 何の応答もなかった。脳裏に妻と子どもの顔が浮かんだ。

五分程も経ったであろうか「右手の方に小さな穴が開くので、そこの中の服を着るように」と指示があった。すぐに穴が開いた。中には白い薄い布地のつなぎの服が入っている。

「心配無用。君の体のパーツを使うのではない」と、河西の心を見透かしたように返事があった。

「えっ? ああ、そう。じゃあ、どうして消毒なんかするんだろう?」

「中を汚されたくないからだ」と、男の声がした。

「なるほど・・・」

まったくファンタジーの世界だなと、河西は思った。昨日アメリカにきている紀伊国屋書店で立ち読みした雑誌の中で[ファンタジーな小説募集。賞金500万円]と書いてあったページに、よだれを垂らした覚えがある。500万円と言う賞金額が、自分の預金通帳にある 3000ドル(日本円で35 万)の金額の差と重なって、頭の中で揺れ動いた。審査員の作家達の無表情な写真が載せてあった。

やがて、目の前のドアが再びグィーンという音とともに開いた。河西は、とにかくそこから中に入った。中は広々としていた。いや、これはおかしい表現かもしれない。バス・ス タイルのキャンピングカーの中がこんなに広々として感じるのは、河西の持つ広さの概念 にからして、おかしい。しかし、キョロキョロと辺りをながめても、距離感がうまくつかめない。思わず床に手を当てて、親指と人差し指を開いた長さで、尺取の様にして計って見ようとして二、三手を動かした時、別のドアがひらいて肉ずきのいい白人女 性が現れた。真っ白いシャツにジーパン姿だ。

「ハ、ロー」と、彼女は言った。

河西は、下から彼女を見上げるような格好で「ハロー」と挨拶を交わし、ちょっと顔をあかくして立ち上がった。

女性は、だまって立っている。彼女の肌が白とピンクでつやつやと光って見える。

「あ、ぼくの名前はサムです。車の外に求人の文字をみたものですから。実は、仕事をさがしているのです」

女性は、何も答えない。

「 もう、一ヶ月も仕事をさがしているのですが・・・良いのがなくて・・・」

「フーン」と、女性は納得するような言葉でもあり、単なる吐息のようでもある返答をした。

「仕事、ありますか?」と河西は聞いてみた。

「ついてきて」と、彼女は言いくるりと背を向けた。まるいボリュームのあるヒップが軽くゆれた。

感覚としては十メーター程あるいたとおもうのだが、しかし、この長さはキャンピング・ カーの長さとつりあわない。

次の部屋には、白人の男と、少し色の黒い女性がいた。二人は立っていた。

「ふむ・・・」と、男の方が言った。ああ、この男か、あの、ぶっきらぼうな話し方をしたのは。頭は禿げている。巨漢だ。

「ふむ」と、男は再び言い「マイク」だと自分の名前を言った。

「私は、スウ」と、女性が言った。

「ぼ、ぼくは、サムです・・・」

「何歳だ ?」マイクが聞いた。

今年で、四十九歳になったのですけど・・・」と河西答はえ、内心、やはり年齢でここもだめかな、と思った。

「若く見えるな」とマイクは言い、横のスウを見た。

「ジャパニーズ?」スウが聞いた。

「そうです。もちろんグリンカード(合法的永住権)を持っています」二人はそれには答えなかった。

「この椅子に座って」スウが近くの椅子を手で示した。ポツンとシンプルな椅子が他に何もない部屋に置かれている。ここでも、河西の距離感覚はマヒしていた。部屋がだだっ広く感じられる。しかし、キャンピング・カーの中なのである。

電気椅子でもないだろうと思って、河西は椅子に腰掛けた。目の前の壁がコンピュ夕 ーのスクリーンになっているらしい。壁の一部が明るくなり文字が現れた。

「実は、ぼくは、コンピューター関係の経験がないのです、しかし、ウインドウズの一般的なプログラムは使える、です」河西は語尾をにごらしながらも、やはり年齢的なずる賢さから、ちゃっかりと自分を売り込んでいる。仕事がほしかった。

「最初は、 2,000ドル以下でも、よいです」相手は答えない。

「 その・・・パート・タイムでも、いいや。でも、どんな仕事ですか? ぼくは、まじめです。どんな仕事だってがんばります。ぼくの好きな言葉は、努力です」河西一人しがゃべっている。ちらりと日本の中学生時代を思った。[努力]の文字が額に入って、いたるところにかけてあった。その時代「努力」と言う言葉は、彼から遠かった。でも、不思議と「好きな言葉」という質問には、彼だけでなく「努力」を選ぶ生徒が多かったものだ。 壁のスクリーンに一つ目玉のようなものが映し出された。

「少しの間、だまって、スクリーンのプラトンをみろ 」とマイクが言った。

(プラトン? 何だ? 目の前、と言うことは、この目玉のようなものがプラトンかしら?)

河西は、拍子抜けしたように目玉に自分の視点を合わした。

やがて「いいだろう!」と何処からか声が聞こえた。スクリーンが消えてもとの壁に、 いや、そこはもとから壁だったが、そこにはいろいろな装置が組み込まれているのか、とにかく簡単に考えると、壁自体がコンピューターになっているようだ。

「合格だ」マイクが言った。

「合格って、入社できるのですか?」

「まぁね」

「いつから働けますかねえ?」

「すこしだまって いろ。ジャパニーズのおしゃべりは聞たいことがない」

「反っ歯ですから。反っ歯は、おしゃべりだと、ワイフが言っていました」

「分かった。 だから、しばらくだまってろ」と、マイクは言い、スウと専門用語らこしといばを使ってしばらく話をした。

最初に会った肉ずきの言い女性が部屋に入ってきた。

「あなたの、希望するサラ リーはいくら?」と、河西に聞いた。

訳が分らないまま、とにかく合格ときいたものだから、河西にも少し欲がでてきた。

「2,500ドル。できれば、このくらいあれば、ありがたい、です」

「最後の会社の給料は?」

「 3,000ドルもらっていましたが・・・たびたびレイ・オフ(クビ)になっても、こまる」

「私たちは、一週間1、000ドルはらいましょう」と女性は言って、一枚の小切手を河西につきだした。これは、ボーナスです。

「えっ? ボーナス?」受け取って額面をみると5,000ドルだった。

「給料は一週間ごとに、支払います」

「ありがとうございます! ワッ!よかった。ほんとうに、ぼくはラッキーだ。かたじけのうぞんじます」喜んだあまり、河西は古臭い英語の言い回しをしてしまった。

女性が「フッ」と微笑した。

「とこ ろで、会社の場所をしりたいのですがどこでしょうか? 明日から働けるんでしょう?」

「後日、連絡します」

「では、仕事は?その、私の仕事は、何をすることですか?」

「教育です」

「教育?」

「そう・・・」

「 学校ですかあ・・・私、教員免許もってませんよ。正直、大学を中途でやめたものですから」

女性は、黙っていた。

「ワッ! 困った。なあんだ、教育かあ・・・アア、困った。じゃ、仕事できないや。このボーナス返さなくっちゃ」と河西は言いながらも、小切手は手元に固く握っていた。

「だいじょうぶ」と女性が言った。

「エッ?」

「 あなたは、コンピューターを教育するのです」

「コンピューターを・・・教育? 私がですか?」

「そう」女性は短く答えた。

「でも・・・」

「だいじょうぶ。調べました。あなたには、適性があります」

「適正・・・」

「コンピューターは、学歴とか努力では開発できません。才能と、それに付随して、適正です」

「ど、ど うも。でも、どこで?」

「これを持っていて下さい」彼女はポケ・ベルのような物を河西に手渡した。

「これで、あなたに連絡をします 」

「で、ぼくの方から連絡をり取たいときは?」

「それに向かって話なさい」

「・・・」

「じゃ、そ このグリーンの所に立って」と、女性が指示した。

河西の前の壁がグイーンという音とともに開いた。その中に入ると後ろのドアがしまって「服を脱ぎなさい」と指示があった。河西は、白いつなぎのメチャクチャに軽い服を脱 ぐと、最初入ったときと反対のどうさをした。

目の前のドアが開いた。外の空気がどっと河西を覆った。彼はワン・ステップで車から 降り立った。

雨は降っていない。河西は自分の車の方にまっすぐ歩いていった後、おもむろにろ後を振り向いてみた。先ほどの場所に、普通のキャンピング・カーが停まっている。夢ではないようだ。ジャンバーの胸ポケットを押さえてみる。小切手は、間違いなくある。次に池を見た。鴨やガチョウの群れの嗚き声がうるさい。現実だ、と思った。

自分の車、ニッサンのトラックだが、とにかくドアを開けて運転席にすわると、再び胸ポケットから小切手をとりだしてながめた。仕事を失っている人間にとって一番嬉しいことは、現金収入だ。もちろん河西は、職を失った時点で、日本の失業保険とおなじようなものを申請している。これで得られる現金は、二週間で460ド ルだ。とても家族三人で生活できない。特に、シリコンバレーは、不動産が日本のバブル経済のときによく似ていて異常に高い。借家とかアパートの家賃も異常に高く、給料の大半が家賃の支払いになる。企業間の過激な競争がコンピューター・ソフトのプログラマーとかエンジニアの賃金をつりあげる。当然、他州からも技術者が職をもとめてやって来る。高額な賃金を稼ぐ人間達の増加が、不動産の高騰ににつながっていて20万ドル(約2,100万円) 程度の価値しかない家が、一年で30万ドルにもなった。しかし、その埋め合わせは、組み立てエ員の賃金のやすさとか、技術のない労働者の犠牲でまかなわれている。

河西は、車のエンジンをかけた。心細い気持ちをもって日々暮らしている人間の心理からか、早くここから離れなければ運が逃げるように思われた。

車を運転しながらも、胸ポケットの小切手の自分に対する物理的な接触に気を止めていた。

河西は、ウインチェスターの通りを北に向かっている。このまま行くとウインチェスタ ー・ミステリー・ハウスの方に行く。ミステリー・ハウスの近くにあるショッピング街に車を乗り入れて停めた。近くの電話機で、ハナに電話を入れた。ハナは河西の昔の飲み友達で六十三歳のおばさんだった。日本でアメリカ人と結婚してアメリカに来た女性だ。彼女とはいろんな面で気が合った。

「ヘロー」ハナが電話に出た。彼女は英語がうまい。家では華道を教え、翻訳の仕事をアルバイトにしている。

「ハナさん。河西です。おひさしぶり」ありりきたりの挨拶をした。

「あら、河西さん。ひさしぶりだわねえ。なにしているの?今、会社?」

「いや、一ヶ月前に自由の身になりました」

「自由?」

「そう」

「あら、いやだ。まるで、ジエイル(刑務所)からでてきたみたいじゃないの」

「会社というジエイルから開放されましたよ」

「まあ! どうして? 」

「 レイド・オフ(一時解雇)、いやクビになりました」

「まあ!」

「どってことないんですがね、これで二度くびになったわけです。しかし、ぼくは、運がいい。今日、いましがたですが、仕事が見付かったんです」

「あら? よかったじゃない。コングラチュレーション!」ハナはおめでとうと英語で言った。

「あっ、さ、サンキューです。ところで、どうです? 暇でしたらコーヒーでも一緒にのみませんか?それとも、ハナさんは、いそがしい?」

「あら、暇よ。暇がありすぎて困っているぐらい。今、どこにいるの?」

「ウインチエスター・ミステリー・ハウスのちかくです」

「じゃ、クロック・カフェで待っていて 。しっているでしょう? クロック・カフェ」

「ええ、知っています」

「じゃ、二十分後」

相変わらずハナは決断のはやいおばさんだ。一度もグズグズしたことがない。 河西は、近くの銀行に行き ATMマシンで少し現金を下ろした。

ハナは、ポルシェに乗っている。亡くなった彼女の亭主が株道楽で儲けたと本人はいっているが、もともと日本の葉山にある彼女の実家が資産家だと聞く。

河西は、きちんと二十分ほどでやってきたハナと、クロック・カフェに入った。片隅の テーブルにつくと、ハナはにつこり笑って「げんきそうね」と言った。

「まあまですよ。先ほど、仕事が見付かるまでは、落ち込んでいたんです」

「言ってくれればいいのに。少しは、ヘルプできたとおもけうど。どう? 何か、私にできることある?」

「その好意だけでけっこうです」

「あら?」

「それより、ハナさん。また株でもうけたでしょう。顔が生き生きしている」

ハナは六十三歳の年齢にはみえない。わかわかしい顔が清潔な身体の上に乗っている。 そして、利発である。河西も時々翻訳のアルバイトをしているが、手におえない文章については、彼女の意見を聞いている。

「株? シリコン・バレーのハイ・テック株は、ほとんど急勾配であがっているわ。ぜーんぜん、頭を使う必要がないわね」

「うらやましい」

「これは異常だわね。だから、私、別の方にお金をうごかした」

「どこに?」

「男に?」

「えっ?」

「じょうだんよJ

「 びっくりさせないで下さい。それより、何か食べます?それとも、飲みます?」

「とにかく、おいしいコーヒーが先ね」

河西は、カウンターに行き、この店の有名な特別なコーヒーを買ってテープルに戻った。

「 はい、どうぞ。ハナさんのお気に入りのコーヒー」

「ありがとう」ハナはゆっくりとコーヒー・カップを持ち上げたそ。して、ーロすすると、 カップをテーブルに戻した。

「ところで、河西さん。まだ、探偵つづけてる?」

「えっ?探偵ですか?」

「そう」

「ええ・・・まあ、何とか。探偵と言うより、調査ていどですけど。ハナさんの教えていただいた、アメリカ特殊部隊の訓練を受けていますし」

ハナの亭主の知人で、特殊部隊の元コマンダーだったアメリカ人が先生だ。

「きびしいでしょう」

「それ は、きびしいですよ。まるで野戦部隊の実践訓練とスパイ教育の様な事もするんですから」

ハナは、ふふと笑い「ちょっとお願いがあるのだけど」と、言った。

「ああ、いいですよ。ハナさんには、日頃お世話になっているので、何でも聞きますよ」

「あら、そう?よかった」

「でも、ぼくはビンボーですのでお金のかかる事はだめですよ」

「だいじょぶ。お金が稼げるわよ」

「えっ?ほんとうですか?」

「ほんとうよ」ハナは嬉しそうだった。

「じゃ、なんでしょう?」

ハナは再びコーヒーを一口飲んだ。あたたかいコーヒーのゆげがハナの形のよい鼻先を 淡いピンクにした。何歳になっても色っぽい女性はいるものだと河西は思う。

「あのね・・・」と、ハナは言った。そして、少し考えるように言葉を切ったが「河西さん、 知っているかしら? 最近、美人の中国人女性の死体が見つかったのを」

「ああ、あれ。もちろん知ってますよ。アルマデン・レイクの公園で、でしょう?」

「そう」

「新聞で見た写真は、すごい美人でしたね。しかも、知的そうな顔だった」

「興味、ある?」ハナが含み笑いをして言った。

「そ、それは、やはり、あります。しかし、あのような美人が全裸で殺されるなんて、正直、悔しいような気分ですね」

「彼女がサンタクララにある投資会社の会計係りだった事も、新聞に書いてあったでしょう?」

「ええ、ありました」

「わたしの知人がこの事件を調べているの。彼はカリフォルニア州の犯罪調査主任の上司なのだけど、ほら、被害者がアジア人でしょう?それで、わたしに誰か助手になるアジア人を紹介してほしいと頼んできたのよ、ふふふ」ハナはおかしそうに笑った。

「だって、ハナさん。調査員にはアジア人もいるでしょう? 」

「もちろん」

「じゃ、どうしてハナさんが頼まれたのですかね」

「頼んだのが、死んだ亭主の元同僚なの 。それに、この事件は特殊な犯罪なんだって」

「それで?」

「つまり、あまり顔の知れてない人物で犯罪調査をおこないたいらしいのよ」

「でも、かる<引き受けましたね。ハナさんらしいや」

「ごめん。やってくれる?」

「しかたないですね。でも、仕事の合間で、ですよ」

「ええ、いいわよ。ありがとう。あなたの新しい仕事は何時から何時までなの?」

「えっ?それが、時間が決まっていないんですよ」

「あらあ。ラッキーだわ」とハナは言った。

コーヒーを飲みおわったハナは、河西に見せたいことがあると言った。 河西は、ハナのポルシェの助手席にのった。

「殺された女性の名前はジニー・ウォン、三十八歳。中国人の三世で二人の子持ち。夫とは二年前に別れている。彼女の夫は、ベンジャミン・リー、実業家らしいわ。住まいはアリゾナ」ハナは、車を運転しながら河西に事件の情報を説明した。

ハナが見せたいと言った場所はそんなに遠くなかった 。車は十五分ほど走った後、あまり見かけのよくない建物の立ち並んでいる駐車場に入ってとまった。

「さあ、でて」ハナが言った。

車から出ると、河西の目に真っ先にとびこんできたのは小さな映画館だった。しかも、 アダルト映画専門の映画館らしい。

「まさか?」と河西がハナに映画館をゆびさした。

「その、まさかよ」とハナは言い、小鼻をうごかして「では、まいりましょう」と入口に向かって歩きはじめた。

河西は、あわてて彼女の後を追った。

ハナは、入口の横にあるチケット売り場で二枚のチケットを買い、一枚を河西に渡すと、もぎりをやっているモモカンヘアー頭の若い男に「マネージャーは、いる?」と聞いた。

「さあ、ね・・・」もぎりの若い男は、疑わしそうにハナを見た。

「わたしは、知人よ」とハナが言うと、彼はあごを動かして事務所の位置を示した。 ハナが事務所のドアをノックすると、なかから「だれ?」と女性の声がした。

「ハナ」とハナは短く言った。

ドアが開いて中年の女性が顔を出した。赤毛でけばけばしい化粧をしている。河西は、多分この女はマネージャーの女友達だろうと思ったが、彼女はハナをみると大げさな身振りで歓待した。そして、チラリと河西を見、ウインクした。

「ハナさん」彼女はハナに“さん"をつけた。

「いい男、見つけたわねえ」

「 アンナ。男は、もうこりごりじゃあなかったの?」

「あら?そんなこと言ったかしら?」赤毛の女性はこびるように河西を見て、ハナの問いに答えた。

「河西さん。彼女はこの映画館のマネージャーのアンナ」ハナが河西をアンナに紹介した。 アンナは河西に手を伸ばして握手をした。はでな香水のにおいがした。

「わたし、肥えちゃって」アンナが言った。男好きそうな体の線が薄地の洋服をもりあがらせている。

「男ばかりに、熱を上げているからよ」ハナが言った。

ふふ、とアンナは笑って「男は、私の必需品なのよ。でも、誰でもとはいかないわよお」と、アンナは事務所のソファに腰をおとしながら言った。

「ところで、アンナ。あの、例の中国人女性の話。もう、ちょっと知りたいのだけど? 時間あるかしら?」

「あーら。いいわよ。とにかく、座って」アンナの言葉に、ハナと河西は対面のソファーに腰をおとした。

「あの女は、淫乱よ。私もそれに近いけど、最初見たきと、ピンときたわよ、ねッ」いきなりアンナがきりだした。

「女は、ほとんどそれに近いと思うけど」と、ハナが言ってチラリと河西を見た。

「あの女は、特別だった。一週間に二日ほどは、必ずここに来て男あさりしてたのよ」

「アンナには、失礼かもしれないけど、あれほどの美人なら、何もこんなところまでくることはないと思うけど?」

ハナの問いにアンナは、自分の顔の前で軽く手をふり「ここに来る男は、完全に女に飢えているからね」

「ふう一ん。淫乱ねえ・・・」ハナが、ため息をつくように言った。

「私も男は好きだけど、ここの汚い連中とは、おことわりだわ。ここでマネージャーを五年ほどしているけど、 ここにくる男と遊んだことはないね」

「頑張ってるのねえ?」ハナの言葉に、アンナは軽く笑って「男は、清潔でなくて」とは言い、ソフアのうえの腰をかる<動かした。 巨大な乳房がユサリと揺れた。

「殺された女性が最初にここに来たときは、いつだったの?」

「数ヶ月ほど、まえかしら。見かけないきちんとした男と来たので覚えているわ」

「男?何人?」

「アジア人だったかしら。背広を着ていた。ただ、ネクタイをはずしていたけど」

「アジア人かあ・・・」

「ハナ。アルマデンの通りを下ったところに、売春組織があるのを知っている?」

「売春組織?初めて聞いた。でも、あの辺りは環境のよいところでしょう?たびたび通るけど、あんなところに、そんな変なところがあったかしら? 河西さん、知っている?」ハナの問いに、河西は少し緊張して「さあ・・・と」答えたが、興味のあることだった。

「表面は、男女交際クラブとなっているけど、売春しているのよ」

「あんな所でねえ。ところで、そこと殺された女性と何か関係があるのかしら?」

「うちの従業員が、あそこで見たと言っていた」

「彼女、売春してたの?」

「あそこはね、男も買えるのよ」

「ジゴロもいるの?」

「もちろん。ピンからキリよ。会員制だから、まともなのもいるけど、クスリを使うのもいる」

「 クスリ?」

「女を喜ばすために、いろんな手を使うわけよ」

「結構、危険だわねえ」

「クレージーな連中よ。コンピューター産業で儲けた連中相手の商売と聞いてるけどね」

「コンピューター?」

「連中は、一時間 500ドルとか何千ドルで働くでしょう? 金に余裕があるから、クレージー(気違い)になるんだわ。うちの従業員は一時間五ドル五十だけど、これもクレージーになってしまうわねえ」

「賃金がやすいと、生活ができませんから・・・」河西がしんみりと言った。

「あーら。あなたも、なればあ」アンナが色を含んだ目で河西を見て言った。

「えっ?何にですか?」

「もちろん、会員制クラブの従業員。稼げるわよお」

「か、考えてみます・・・」

「女を喜ばす方法って?」ハナがアンナに聞いた。

「ああ、そうそう。それのことだけど、ヘロインを使って金持ちの女を虜にする最低の男もいるってことよ」

「 くわしいわねえ」

「体験者だから。でも、卑怯な手だわよ。クリスで女をものにするとは、最低だわね」

「あなた、そこに行ったことがあるの?」

「身体がね、そうさせたのだけど。若造が変こなとをしたから、ビンタをはってやった」

「アンナらしいね」

「だって、そうじゃない。セックスは好きだけど、クスリのエクスタシーは必要ないわよ」

「従業員には、どうしてなれるの?」

「 まず、容姿ね。清潔感があり、体にきずがない。もちろん入墨もだめね。病気を持ってないこと」

「年齢は?」ハナが聞いた。

「それは、ないみたい。皆それぞれ好みが違うしね」

「アンナ。 どうもありがとうグットな情報だったわ」

「ハナさん。いつでも、おやすいごようだわ。あなたには、ずいぶんかりがあるからね」

「あら?もう、とっくに返してもらっているわよ。私の方が借りているくらい。でも、 もう一つお願いがあるのだけど、いいかしら?」

「もちろん、何でも言ってちょうだい」

「もし、殺された女性と一緒に来たことのあるアジア人を見かけたら、連絡してほしいの」

「オーケー。うちの従業員に、後を追わせてみるわ」

「ありがとう。アンナ」

ハナと河西は、アンナのオフィスを出た。でかけに、アンナは、すばやく紙片を河西の手ににぎらせた。背後でバーイと声がしてドアがゆっくりと閉まった。

河西は、紙片を握った手をゆっくり開いてみた。紙片には電話を頂戴ね、と書いてあり彼女の家の電話番号が、結構達筆な字でかいてあった。捨てるわけにもゆかないので紙片をポケットに入れた。

「ねえ。河西さん」前を歩いていたハナが、映画上映場所のドアの前で河西を振り返った。彼女は手にしたテイケットを自分の目の前で軽く振った。

「ちょっと、見て、みる?」

「アダルトを、ですか?」

「ふふ、そう・・・面白そうじゃない?」

「私は、いいですけど・・・ハナさん、だいじょうぶですか?」

「ふふ、前にも見たことあるの。ねえ、あなた。あなたは男だから、劇場内でポケットに手を入れないでね?」

「えっ?どうしてです?」

「つまみだされるわよ」

「外に?」

「そう」

「なぜ、です?」

「見ながらね、変なことをする客がいるんですって」

「な、なるほど・・・」

ドアを開けると、すぐさま薄暗い劇場のクスリーンに男女の営みが大きく見えた。

客席は昼間のためかまばらだった。 ハナと河西は、後ろ方の周囲に観客のいないあたりの席に腰をおとした。

スクリーンには、そのものが映し出されている。

「すこごいわね」ハナが河西の耳元に口をちかづけてささやくように言った。

ハナのこの場にはふさわしくないような高級な香水のにおいが河西の鼻孔をくすぐった。 六十三歳の女性は、性に対してどのように反応するのだろうか。ふと、思った。

六十三歳といっても、ハナは日ごろから色っぽい女性だった。しかし、彼女の知的な顔や動作が少し間をつくる。

年齢にしては、シワ一つない手先と細くてながい指。河西は、彼女の花を生ける動作を見るのがすきだ。細い指が優雅で、ハサミの作る音とともに清楚にうごく。

素材と生け花の空間に集中しているハナの姿に年齢はなかった。

スクリーンの上の男女は己の欲情を、本能によってコントロールされてしまっている。

そっと隣の席のハナをのぞきみた。それを察してハナが言った。

「どう? 興奮する?」

「べつに・・・わたしは、しませんがね。からだの方は、勝手に興奮しているみたいです」

「ふふふ・・・」ハナ独特の、含みのあるいたずら好きそうな笑いがあった。

ハナと河西は、途中で映画館を出た。

ハナは、車をスタートさせた。ポルシェのエンジン音が心地よい。

ちょっとドライブしましょう、とハナは言い、車をフリー・ウエイ(高速道路)280号線にのせた。ポルシェがグンと加速をあげた。

「河西さん。今日、他に何か予定は?」

「いえ? ぜんぜん。今日は、まだ無職です。ああ、そうだ。先ほど、仕事が決まったんですが・・・」と、河西は言い、思い出したように、胸ポケットに片手を当てて小切手を確認し た。

「 でも、何だか、信じられないような仕事でして、まるで夢の中で仕事が見つかった気分です」

「ふう一ん。どんな仕事なの?」

「コンピュー ター関係なんですが・・・まさかね? このぼくが、コンピューターの会社で働けるなんで・・・これは、少しおかしいなと、思っています、ところで、ハナさん。車のスピードが少し速くないですか」

「あら、ごめんなさい」ハナは少しポルシェのスピードをおさえた。車はパロアルトにさしかかっていた。緑の木々の間には高価そうな家々がみえる。パロアルトには、少し北寄りになるがスタンフォード大学がある。有名なヒュレット・パッカー社は、スタンフォード大学の卒業生が恩師の理論をもとにして、大学に近い小さな車のガレージで実践した結果だった。その結果、この地域はシリコンバレーと呼ばれるコンピューター産業の中心地になった。

フリー・ウエイの出口を出ると、ハナは一般道に入った。

朝の雨にぬれている木々の間をアスファルトの道が、少し蛇行しなが山の方にあがっている。ポルシェは、傾斜した道を軽々と走った。

「さて、われわれは、どこに向かっているのでしょう?」河西がハナに聞いた。

「どこと思う?」

「ラブ・ホテルとは思われませんが・・・」

ハナはふふと軽く笑っただけで答えなかった。車はかなり勾配になっている道にさしかかった。道は、辺りでも一段と小高くなっている丘の頂上に向かって、蛇行しながら上っている。道横に「私有地。無断進入禁止」と書いてある立て札があった。ハナは無視した。

ポルシェが力強い音をたてはじめた。

道は頂上近くで途絶えていた。ハナは、車を停めた。頂上にはまばらに木がはえている。

小さなペンチが置いてあるところを見ると、展望のために時々人が来るのかもしれない。

「さて、出てみましょうか」とハナは言い、車のダッシュ・ボードから小さな双眼鏡を取り出した。

午前中すでに寒冷前線の雨はあがっていたから、今は風も強くない。空の晴れ間から陽が射してきた。

ハナは、ゆっくりと反対方向の木々の間に歩むと双眼鏡を目に当てた。しばらく何か を眺めていたが、やがて「見て」と双眼鏡を河西にさしだした。

「何をですか?」

「もう一つの丘の頂上付近に、赤い屋根の家があるでしょう? 見える?」

「ち、ちょっと、待って下さ。最近、老眼になってきましてね。視力に自信がないんですけどね。まあ、いいか・・・」などと河西はブツブツと言い訳をしながら、双眼鏡を目に当てた。

「ワッ、 よく見えるなあ。これは、いい。うん、実に良く見える。どこで買ったんです?」

ハナは、それには答えず「中庭付近をみてごらんなさい」と言った。

「中庭? な、か、に、はと。ああここだ」

「何か見える?」ハナが言った。

「あらら・・・こ、 これは、すごい・・・」

中庭のいたるところに、如何わしい像が見えた。 粋な趣味を持っていますねえ・・・」

「この家の持ち主が、死んだ中国人ジニーの働いていた会社の会長なのよ。もしかしたら、アルマデンの男女交際クラブと関係があるかもしれない。映画館で、アンナの話を聞きながら、ふと思ったの」

「なるほど・・・普通じやあないですよね。この像は・・・」

「車に戻りましょう。見つかるどまずいから」とハナは言い、河西の腕に手を回した。 ジャガーに戻ると、ハナは軽くため息をついた。

「めんど< さいわね」と言い、クシンュと小さくクシャミをした。

「プラッシュゥ !」河西は、アメリカ人のように“神の祝福を”と言った。

「ありがとう」ハナはバックからハンカチを取すりと、かる< 自分の口付近をぬぐった。

「ところで、河西さん」ハナがハンカチをバックに戻しながら言った。

「はい?」

「先ほどの話ですけど・・・」

「ああ、女の性のことですか?」

「ちがう。別のこと」

「ちがう?」

ハナは河西の言葉をまっているようだった。.

「じゃ、何だろう?」河西は内心、アダルト映画のことなどをを考えていたので、それを口に出したくなかった。

「犯罪調査の依頼のこと・・・」

「ああ、あれ。すっかり忘れていました」

「暇なときでいいから、お願いね」

「わかりました 。結構、面白そうだし・・・」

「報酬だけど、一週間に二日ほど働いてもらうとして一日200ドルでいいかしら?」

「それで、結構です」

ハナは、バックから財布を取り出した。そして、100 ドル札を四枚と白い封筒を河西に差にし出した。

「とりあえず、二日分ね。封筒には費用として千ドル入っていると思う。費用は2万ドルまで使えるけど、いちどに持てないでしょう? ほんとうはクレジット・カードでもいい のだけど、カードはデーターが残るから、現金にしたの。足らなくなったらいつでも連絡してちょうだい」

「なかなか、報酬がいいですねえ」

「そう? ところで、河西さん。後日、交際クラブの会員券をとってあげるので、お楽しみにね」

「あの、話しにあった男女交際クラブのですか?」

「そうよ」ハナは可笑しそうに河西を見て、ポルシェのエンジンをスタートさせた。

河西は、ハナとアルマデンにある交際クラブの場所を確認したあと、クロック・カフェでハナと別れた。

ハナにバイと手を振って彼のトラックにもどったが、時間を見るとまだ二時過ぎだった。 河西は思い出したように公衆電話ボックスに行き、妻に電話を入れた。

二度呼び出し音がしたあと、妻が電話にでた。

「ぼく、だけど・・・」

「どうしたの?」

「アルバイトが見つかってね」

「えっ?本当?」

「報酬が悪くないので、やることにした」

「どんなアルバトイなの?」

「調査」

「 ちょうさ? 探偵のようなことをするの?」

「まッ、それに近い」

「やあァめてよねえ、又あぶないことお。おぼえてるう?」妻がけだるそうな声で言った。

「おぼえてる・・・」

河西は、パイロットのライセンスを持っている。飛行時間3000時間をこえている。三年前に引きうけたアルバイトがスタントの仕事だった。

砂漠の中を走る列車の上に着陸し、スタントの人間を降ろして再び飛び上がるものだった。

「あんなアルバイトだったら、だめよ!」河西の妻が声を上げた。

「いや、だいじょうぶ。単に、一週間に一度か二度かるーく働くだけだから」

「そう・・・分かった。でも、できるだけ早く定職をさがしてね」

「わかりました」姉さん女房に言われて、河西は神妙に答えた。コンピューターの会社に就職できたとは、自信がなかったので言えなかった。あんなに幻想的なストーリーを話しても、妻が信じるとは思えなかったし、河西自信もいまだに信じられない。

「子ども、ぼくが迎えに行こうか?」と河西は妻に聞いた。

「お願いするわ」

「はい はい」

「順次さん。子どもじゃあるまいし変な言葉の使い方は、しない。分かった?」

「はい。では、迎えに行くから」河西は、あわてて受話器を置いた。

オレは、カミさんに完全に尻にしかれているなと考えながらトラックにもどっ た。

ア メリカの学校は、スクール・バスを利用する生徒を除いては、ほとんど親が車で送り迎えする。

一人息子の輝男を運動場付近でピック・アップした。

「どうだ? 腹へってるか?」と聞いてみた。河西は子どものころ、親によくおなかの減り具合を聞かれた記憶がある。

「すこしだけ・・・」息子の輝男が答えた。

「よし。何か食べよう」

「うん。でも、お父さん。だいじょうぶ?」

「えっ? なに?」

「仕事、見つかった?」

「いや、まだだけど。だあいじょうぶだよ。すぐに見つかる。いや、じつは、ほとんど決まっている仕事がある」

「ほんとう?」

河西は、胸ポケットに手を持ってゆき、小切手をひっぱり出した。

「ほら。みてごらん」

輝男は、父親の手から小切手を受け取ってながめた。

「プラトン・テクノロジー・カンパニー」会社名を声にした。

「そう・・・」

「 よかったね。何の会社?」

「コンピューターの会社、聞といているんだが・・・」確信は持てなかった。

「コンピュター。すごいぞ! お父さん!」

「うん? いや、まあ、何だな。まだ、完全に決まったわけでもないと思うからね」

「でも、よかったね。おとうさん」

「まあね」子どもの励ましの言葉に、河西は神妙に答たえた。実際に得体の知 れないプラトン・カンパニーが本当に自分を採用してくれたのかどうか、確信が持てな かった。

途中、子どもと一緒にマクドナルドでハンバーガーとフレンチ・フライを食べた。ハナから前金でもらったお金には手をつけず、自分のこづかいで支払いを済ませた。実際、ハナの依頼も今後どのような展開になるか、皆目見当がつかない。とりあえず仕事情報を得るために、サン・ホセ・マーキュリー紙を買った。

夕方、仕事から帰ってきた妻にプラトン・カンパニーの事を話し、もらった小切手とハナからの前金四百ドルを妻に渡した。

「ねえ。この小切手は、しばらくおいておいた方がいいわよ」妻が言った。

「どうして?」

「だって、そうじゃない? そんな話しって、 ある?」

「うん・・・ない」

「ねッ! 聞いたことないわよ」

「まあ・・・そうだね」

「会社のある場所も分からない。いつ、こどで、何を、どうするか。基本的なことがわかってないし、すべてがはっきりしてない。はっきりするまで、仕事をさがしてね?」

「うん。分かってる。そう思ったから、ほら、新聞買ってきた」置いてある新聞を指差した。

「頑張ってね」念をおすように妻が言った。

「分かってます」河西は、新聞を手に取って広げ、見る振りをした。




あくる朝、河西は再び新聞を買った。

新聞の求人欄には、相変わらずコンピューター関係の求人広告が大きく紙面を占めてい る。年間六万から九万ドル。

ページをめくって、小さな求人広告がところ狭しとならんでいる欄に目を移した、工場組立工員、一時間あたり十ドル・・・ふーん、これ悪くないと思った。年間に直すと二万三千ドル。アメリカでは、年間の家族収入が四万どるをきると低所得者とみなされている。

特に、コンピューター産業によってなりたっているシリコン・バレーにおける賃金格差は、年々ひどくなってきていた。

コンピューター会社は、高賃金でもって優秀なコンピューター・エンジニアの獲得に躍起となっていて、しわよせは組立工等の低賃金に来ている。

要するに、コンピューター産業は、人々をスラム化させるものだ。コンピューターは人類にとって、本当に早急に必要としている物だろうかと河西は思う。

高賃金を求めて、他の州や外国からもコンピューター関係者が、ぞくぞくとシリコン・バレーに集まって来ていた。

「コーヒーできたわよ」新聞を見ていた河西に、妻が声をかけた。

「うん・・・」彼はソファーから立ち上った。

台所にゆくとコーヒー・ポットとカップがおいてある。妻が後ろ姿のま何まかを作っている。大きくまるい肉尻がこちらを向いている。少し、太ったのじゃあないかと考えたが、うしろから腕をまわして乳房と下腹のふくらみを手でおさえた。

彼女はしばらくじっとしていたが「なにするのよ 」と片手に持っていたフライパンを振った。

河西が回していた手を解くと「仕事、いいのあった?」と聞かれた。

「相変わらず多いのは、コンピューター関係。後は、まあ、同じようなものけど一つ 二つ面白そうな仕事があるので応募してみる」

「どんな仕事なの?」

「中国系の会社の組立エ、これは光ファイバーらしいけどね。もう一つは、ユニフォーム のセールス兼デリバリー」

河西は、この二つの仕事をハナから依頼された調査に使うつもりだった。中国系の会社は、特殊な光ファイバーと光学の通信用プロセッサーを取り扱っており、殺された会計係 りの勤めていた投資会社から多額の融資をうけていた。

ユニフォームの会社 は、例の男女交際ラクブに衣類等のクリーニングで出入りしている。

「ふーん」妻が不満そうに答えた。

「いや、これは、あくまでも良い仕事が見つかるまでのアルバイトだよ。賃金がやすいか らね。まあ、ないよりあったほどいいから・・・」

「そうね」と彼女は答えてフライパンをレンジにかけた。

「とにかく、履歴書を作るよ。ちろもんEDD (職業安定所)にも行ってみる」

「頑張ってね」いつもの言葉が返ってきた。

「うん。あと、どのくらい余裕がある?」 河西はそれとなく生活資金を聞いてみた。

「ニヶ月は、なんとかなるわよ」

「なるべく早く仕事をさがすよ。ああっ、そうだ。人材斡旋会社はどうだろう? もしかして、仕事をくれるかもしれない」

そうだそうだ、と河西は独り言のように言い、自分の部屋に行った。サンフランシスコ・ テレフォンガイドと言う日本語の電話帳で人材斡旋会社を調べてみた。索引には‘‘人材斡旋" などという言葉はなく、人材派遣業、人材募集、職業紹介業などの言葉がならんでいる。

ページをめくると、あるある、たくさんある。いい広告文も書いてあった。「企業は人なり」「安心と満足を提供いたします」「ベテラン社員が親切に最も適した仕事をさしがます」

河西は、すっかりうれしくなった。そこには、高学歴が必要とか、コンピューター技術が必要とかは書いてなくて一人一人の個性に合った職業を紹介などとあり又、安心してお任せ下さいと書いてあった。 まった<頼もしい限りである。

早速自分の部屋から電話してみた。

英語での返答があったので、英語でかくかくしかじかですと用件を述べた。 しばらくして、日本人のスタッフに代わった。

「お仕事をお探しですか?」と彼女は言った。多分決まり文句なのだろう。

「そうなんです」

「まず、履歴書を書いて送って下さい」と、抑揚のない声で言われた。

「はい・・・」

「 仕事は、何を希望されますか?」次の質問が来た。

「はあ、あまりたいし職歴はないのですが、できましたら、営業かなにか・・・もちろんコンピューターも使えるので、あります」兵隊のように答えてしまった。

「コンピューター技師であれば、すぐに仕事があります。先だっても、九千ドル(一ヶ月) で採用された方がいます」

「と、とんでもない。ぼくなど、単にPC を使えるだけです。それに、ぼく、大学卒業していません」

「あ あ、そうですか。じゃ、とにかく履歴書を送っておいて下さい」

少し、広告にかいてあった内容と違ってきたように思った。それでも河西は卑屈に「よろしくお願いします」などど電話の相手にぺこぺこ頭を下げ、受話器を置いた。

「ああ疲れた・・・」とひとりごとを言い、いすに当てていた背中のばして大きくあくびをした時、

「何やっているんだ?」誰かの声がした。

「 えっ? いや、なに・・・」と、言い訳を作ろうとして、声のした後ろを振り返ってみた。妻か子どもだと思ったからだが、誰もいない。

河西がキョロキョロしている「ここだ」と再び声がした。机の引き出しの中だ。

引き出しを開けるとプラトン・テクノロジー・カンパニー社からあずかった丸いポケベル・・・河西はもらった時に「ポケベル」ろだうと思っていたのだが、その中心部が光っている。

ポケベルは「どうした?」と言った。

河西はびっくりした。多分連絡だろうと思ってポケベルをつかみあげ電話番号をさが した。番号らしきものはない。

ポケベルは「サム」と、河西のアメリカ名を言った。

河西は、これはマイクとレシーバーなのかもしれないと思い、ポケベルを取り上げると口もとに持っていき、サムです、おはようございますと英語で言い、次の言葉を待った。

「ばか。あまり、口の方にもっていくな。机の上にもどせ」と、相手が言った。

もうしわけありません。大変失礼をしました。いや、その、私は、これが通信用のマイクかも知れないと思ったものですから。いや、まったく、すみませんです」と、英語でまくしたて、他の言葉をぺらぺらとしゃべりまくり、内心仕事を無くしたらいけないと思い、言い分けがましいこともまくしてて、さらに、何かを言おうとしたら「ちょっと、待て。 よくしゃべるやつだ」と、相手は言った。それで河西は初めて気づいたのだが、相手は日本語でしゃべっている。

「?」

「日本語でしゃべれ」と、相手も言った。

「に、ほ、ん、ごで・・・」

「 そう」

「そ、それでは、あなたは日本人なんですかあ・・・」

「いや、ちがう」

「ちがう?でも、日本語が、お上手ですねえ」

「まあ、とにかく、そんなことはいい。私を机の上に置け」

「私って、ポケベルを?」

「いいから、黙って置け」

河西は、ポケベルの言うままに、ポケベルを机の上コのンピューター・スクリーンの 前に置いた。

すると、中心部から光が逆円錐のかたちで放たれた。その中に、人の姿が現れた。

「わたしは、プラトンだ」と、人物は言った。

「プラトン? それでは、プラトン・テクノロジ一社の社長さんですか?」

「社長? ああ、人間界の中では、そう呼称されるかな? しかし、わたしは、コンピューターで、キングだ」

「コンピューター?」

光の中の像は、人間の姿をしている。髪の毛はないが、三十歳代の若い美男子のアメリカ人が宇宙人のような服、ほら、SF小説などで見る身体にピタリと合った服、あんなのを着て立っていた。

「コンピューターには見えませんが・・・」

「では、何に見える」

「普通のアメリカ人」

相手は、ははと軽く笑い「これは、私の虚像だ」と言った。

「虚像? あなたはコンピューター」

「そうだ」

「それにしても、日本語が上手ですねえ」

「君から習ったんだ」

「えっ? ぼくからですか? ぼく、知りませんよ。全く覚えがないです」

「しんぱいするな。君からは、常に習っている」

「常に?つまり、日頃からですか?」

「そう」

「 そう? でも、どうやって」

「脳波だ。君の脳波を、記録している。あとは、分析して、余分なものを捨て・・・捨てるところがずいぶんあったが・・・」ここでプラトンはコホンとせきばらいをして「とにかく、君にいろいろ教育されているわけだ」

「へえ・・・」河西は、少しおどろいた。 プラトン社の言ったコンピューターの教育とは、この事だったのかと思った。

「ところ で、なにをしているんだ?」とプラトンは再び言った。

「いや、その・・・実は、仕事を探していたのです」

「仕事? 私たちが、君を採用したははずだが・・・」

「そうなんですけどね。でも、信じられなくて。ほら、ぼくのようなコンピュター経歴のない者が、シリコンバレーのコンピューター会社に採用されるとは、おしかいと思ったんですよ」

「ああ、そうか。しかし、小切手を渡したぞ」

「いただきました」

「じやあ、だいじょうぶだ」

「それで、会社の場所とか仕事時間がきはりっしないものですから、やはり不安です」

「ああ、そんなことか。ふーん。やはり人間だな。気になるわけだ」

「もちろんです」

「君は今まで通り、自由に振る舞っていい。会社には来なくても、給料は払う」

「それそれ、それなんですよ。会社に行かなくて、仕事をしなくて、どうして給料だけもらえるのでしょう?」

「先ほど話したように、私たちは君の脳波を常にキャッチしている。そのために、給料を支払っている。少なければもっとあげてもよい」

「い、いや、十分です。一週間に千ドルとは、かなり条件が良いですから」

「いくらでも払えるんだが、君のデーターでは、この程度がよいと出た」

「もちろんです。どちらかといえば、もらい過ぎ」

「まあ、人間はあまり余分な金を持たない方がハッピーになる可能性が多いからね」

「ありがとうございます。ところで、どうしてぼくが選ばれたのでしょうか? コンピューターに強い優秀な日本人は一杯いるのに」

「ききたいか?」

「もし、よければ、聞きたいですね」

「私の父が、日本で君のお世話になった」

「えっ? あなたのお父さん?」河西は、日本で合ったことのあるアメリカ人を二三おもいだしたが、プラトンには当てはまらないように思われた。すべて女性だったからだ。なかには、いかがわしいところで合ったアメリカ人女性もいる。

まてよ、大学の研究室・・・あのころ、確か 彼女はIBM社からきていたなあ・・・しかし、そんなに親しくしなかったし・・・」

河西が考えていると「父は、コンピューターだ」と、プラトンが言った。

「コンピューター? あのでっかい。真空管で動いていた?」

「父を思い出したかね?」プラトンが言った。

「 あのコンピューターが、あなたのお父さんですか?」

「そうだ」

「へえ・・・」河西は、呆然とプラトンの顔を見た。

「 I BMのUNIVAC-1 とか6 5 0 はおじいさん達だ」

「 へえ・・・」

「このシリコン・バレーのコンピューターは、すべて私が支配している 」

「へえ・・・・・・」

「と ころが、だ。最近好ましくない出来事が人間たちの間でおこっている。コンピューターを、金を得る手段にしてきている。モラルも落ちてきた」

「そうですね。おかげで、このアパートの家賃が上がりつづけて、生活しずらくなってい ます」

「ま、そういった事も含めて、少し手直しが必要にっなてきた。それで、君を採用したわけだ」

「 へえ・・・どんなことをするのでしょうか?」

「それは、後日話すことにする。ところで、きみは、この連絡用のコンピューターを常に身につけておいてくれ」

「えっ? これも、コンピューターですか?」

プラトンは、かすかに笑い「人間界の中では、一番優れている」と言った。河西の妻が部屋のドアをノックした。

「誰かが来たようだ」

「私の妻です」

「ふむ。今日は、私は、これで失礼する」像と光がきえた。

「朝ご飯できたわよ」ドアから顔をのぞかせて妻が言った。

台所にゆくと、テーブルの上に目玉焼きとベーコンの皿があった。




その日、河西は昼までに英文の履歴書を作り、光ファイバーとユニフォーム・クリーニング会社にファックスで送った。多分返事が来るまでに数日から一週間はかかるだろう。 昼ご飯は、インスタント・ラーメンにした。四個ードルのラーメンである。河西はラーメンが好きだ。この安価なラーメンを長年食べつづけているが、いっこうに飽きない。かえって、日本のマーケットあたりに売っている高級生ラーメンよりうまいとさえ思っている。この事を他人に話すと、誰もが河西は味音痴だという。だから、多分そうであろう。 ラーメンを食べた後、車で中国人女性が殺された現場に行ってみることにした。出かける前に、水をコップに二杯ほど飲んだ。ラーメンを食べた後は、喉が渇くからだ。コップを流しに置いたとき電話があった。

「ハロー」と受けると、調査会社からだった。河西は、この会社の日本サイドに関しての 調査書類の翻訳を請け負っていた。

「サム。仕事があるのだけど」担当のハイジが言った。

「何枚?」

「 四十ページ程よ。できる?」

「いつまでに?」

「10日ほどで、終わらしてよ」

「 忙しいんだけどね・・・依頼主は、どこ?」

「モトローラ社」

「モトローラか。しかたないね。やるよ。やる」

河西は、モトローラの仕事を時々している。一 度、日本の取引先のトップがくることで、挨拶文を作る依頼がきた。彼は、いままでベイ・エリアの翻訳会社や翻訳者が書いたことのないような日本的な挨拶文を作成したが、それがなかなか好評な挨拶文だったようだ。あれ以来、度々利益のある仕事をもらっている。

「サンキュウ! いつピック・アップできるの?」ハイジが言った。

「これから出かけるのでね。ちょうどいいや。十五分後」

「 O K !  バーイ」典型的なアメリカ人の会話だ。

調査会社は、河西の住んでいるアパートからあまり遠くない地域のビルの中にある。 受け付けには、社長の色っぽい奥さんのスーザンがいた。

ルノアールの絵からぬけでたような女性だ。清潔で、少し太りぎみの丸みのある体型。つやのいい肌。大きな乳房の並びがワンピースのえりもとから見えた。

「あら?」と、彼女は言った。

河西は、自分の視線の先に気づかれたかと思ったが、彼女は見ていた書類をとじて「サム。久しぶりね。どう?」と言った。

「ぼちぼちです・・・」

スーザンは微笑して河西を見た。

「ハイジいますか?」

「ええ。いるわよ?」

「仕事 の書類をピック・アップに来たのですが・・・」

彼女はインターホーンでハイジを呼んだ。ハイジが自分の部屋にくるようにと言った。 この調査会社は電話での調査もしている。ハイジの部屋に向かう両サイドには、開いたドアの向こうにブースが並び、レシーバーをつけたオバサン達が仕事をしていた。

河西はドアをノックしてハイジの部屋に入った。

ハイジはコンピューターのスクリーンを見ていた。片方の机には、書類がきちんと整理されて積み上げてある。

「ハイジ」

河西が声をかけると、ハイジは振り向き「サム。ちょっと待っていてね」と言い、タイ ピングを続けた。

「どこをやってるんだい?」河西は、何気なく声をかけた。

「ブライアン・インヴェストメント社」ハイジが言った。

この調査会社は、依頼主の秘密事項を多く取り扱う。河西なども秘密厳守のための分 厚い契約書に、一年に一回かならずサインをさせられていた。とくに依頼主には、シリコンバレーの会社が多く又、この調査会社はテキサスにも営業所を持っているためアメ リカでも名のある大手の会社との取り引きが多い。

河西は、ハイジの口にした会社名に驚いた。例の殺された中国人女性が会計係として働 いていた投資会社だったからだ。

「ブライアン・インヴェストメント?」

「そう。 しっているの?」ハイジが、ちっょと顔をあげて言った。

「聞いたことがある」

「新聞に出ていたでしょう?」

「何が?」

「殺された中国人」

「ああ、あれね・・・」

「かなり、会社のお金を使い込んでいたのよ」

「どうして?」

「調査中」ハイジは、顔をコンュピーターの画面に戻した。

「ハイジ。その調査書類が出来上がったら、ちょっと見ていいかねえ?」

「サム。依頼主の秘密厳守契約をやぶるつもり?」

「とんでもない。単に、調査のトレーニングのため、です。これで、どう?」

「グッド。もう少し、待って。すぐ、終わるから」河西は、部屋にあるソファに腰を落とした。

栗色の毛を持つ若いハイジは、うでききの調査員だ。武道にすぐれ、射撃の名手でもあ る。オリンヒ°ックの射撃選手になったこともあるらしい。

河西は、彼女のデスクの中に拳銃が数丁置いてあるのを知っている。

「サム。これ見てみる ?」ハイジが、机の引き出しから事務用封筒を取出りして河西の方に差し出した。

「何? 」

「殺された女性の調査書類の一部・・・」

「いいの?見て」

「あな たなら、大丈夫。それに、トレニーングにもなる」河西は、封筒を受け取った。

中には、警察医による死体解剖の書類のコピーと写真があった。写真は、生前のものと死後のものがある。

生前の写真は一枚だけで、中国服を着たすごい美人の姿だ。死後のものは数枚あり、一枚は現場の腐敗した体が無残な状態で写されていた。後の数枚も無残なものであ ったが、その写真の間にはさまって、女性の裸体姿の写真が出てきた。多分これは生前のものであ ろう。しかし、写真の上半身はだれかによって切り取られていた。

写真には、女性の陰部から太股までがクローズ・アップされて写っている。太股にはヘビの刺青が巻き付いており、その頭は女性の性器に向かい、へビの舌は大陰部にかすかに届いていた。

「ハイジ。これはすごい写真だね」河西は、手にした数枚の写真をみながらハイジに声を かけた。

「なにがすごいの」?ハイジがコンピューターのスクリーンから目をそらして向振いりた。

「この、へんな写真」

「へんな?」

「ヘビの刺育」

「ああ、それね。サム、変な写真じゃあないわよ」

「でも、ビックリしちゃうねえ」

「どうして?」

「そ、それは・・・」河西は女性の性器をどう表現したらよいのかと考えて、言葉に詰っま た。

「女性の性器に刺青をするのは、中国人マフィヤの仕業だと言うことだけど、このケースは少し違っていそうね」

「えっ?」

「刺青が高級すぎるのよ」

「高級?」

「かなりのテクニックの刺青だと言うこと」

「どれ・・・」河西は、もう一度写真に目を戻した。

ヘビの鱗が二三枚、真っ白な肌の上にかすかに見える。ヘビの胴体の鱗は緻密なタッチだ。ヘビの頭部はやさしそうにみえるが、口から伸びる二本の赤い舌先リはアルで、今にも脹(ふく)れた頭部を陰部の中に突っ込んでいきそうなほどの迫力がある。ただ、ヘビの目が傷をおっているのが気になった。

「ふぅむ。ここまで来ると、芸術だね」

「エロチックでしょう?」ハイジが河西に念を押すように言った。

「この写真は、上半身が切り取られているけど、本当に殺された中国人女性のものかねえ」

「 サム。腐敗した体の写真をよく見てごらんなさい。一部にかすかな刺青が見えるでしょう?警察医が確認したからまちがいないわよ」

「なるほど」

「興味、ある?」

「いや、その・・・なんとなく・・・」

「あまり、こんな事件にかかわらないほどいいわよ。これは、私の感だけど、面倒臭い気がする」

「ハイジ。実は、ぼくは、既にかかわっているんだけどね、この事件・・・やばいかねえ・・・」

「どんなことで、かかわっているの?」

「普通のこと」

「どうして? あなた、翻訳者でしょう?」

「翻訳の仕事は、アルバイト」

「あらあら、こまったわね。とにかく、この翻訳はすませて」ハイジは、机の引出しから事務用封筒に入った翻訳の仕事を取り出して、河西に渡した。

「頑張ります」河西が恐縮したうよに言うと、ハイジは机の中から皮のホルダーに納まっている小型のヒ°トスルを取り出した。

「使う?」

「えっ?」

「ピストル」

「いや、いらない。 ああ驚いた」

「護身用よ」

「ハイジ。ジャパニーズは、ピストルに慣れていないんだ。日本では、一般人はビストルを保持できないからね」

「ふーん。じゃあ、何か合ったら連絡しなさいね」

「サンキュー。助かる。でも、翻訳の方を優先して行います」

ハイジの頼もしい微笑を後ろにして、河西は調査会社の事務所を出た。

朝、全天を覆っていた雲がきれて、空の半分ほどは青空だが太陽は雲に隠れていた。 まだ正午になっていない。

河西はトラックを中国人女性の死体が見つかった現場に向けた。道は混んでいないが早 い昼食をとる会社員や店の従業員の姿が、レトスランやファースト・フードの店先に見え る。

河西はカー・ステレオのスイッチを入れた。浪曲が流れはじめた。先代広沢虎造の「石松の三十石船」である。

ジャンチャンジャンチャン“オ ウ! " さけえをのむなああとにらんでえしいかる、じろちょうおやぶうんこあああいいひいと、こわいそのひいとまたなつうかしい。

河西は、浪曲にあわせて自分もうなった。心は石松になった気分だ。実際、自分自身で も、今度の調査には危険な感じを覚えていたので、ハイジから言われたときも内心驚きはしなかった。

元海兵隊の先生からアメリカ特殊部隊の格闘技は習っているが、実戦の経験などはない。ただ、気が弱いから相手の攻撃を勝手に身体がよける。

実際、河西は臆病である。飛行機の操縦でも優しい飛びかたをする。人はそれを上手いと言うが、河西にしてみれば飛行機の翼の先々まで自分の神経がつながっているようで、臆病な飛びかただと思っている。お化けも恐い。だから、恐い映画も嫌いだ。

殺人事件などは、作家の赤川次郎氏に任せておけばよい。河西は、事件物 を書く他の作家のものは読まない。恐いからだ。赤川次郎氏の作品はテーマが残酷物であ れ何であれ恐くない。優しく書いてあるから読めた。

江戸っ子だってねえ、神田の生まれよ、そうだってねえと、言いながらトラックを走らせていると、メンバー制のスーパー・ストアー「コストコ」の建物が見えてきた。もうすぐアルメダンの通りに出る。アルメダンの通りには例の交際クラブもあるが、今日はとにかく死体の見つかった現場の方に向かおうと思った。

交差点を右折してアルマデンの通りに入った。幅の広い通りだ。右側にアパートの建物が点々とある。左側は、最近建ったコンピューターの関連会社の新しい建物が大きく周囲 をしめている。やがてポッポツと木々が道の両サイドに立っている間の左斜め向こう側に湖らしいものが見え始めた。

小さな川がアルマデンの通りを横切ってい湖に流れ込んでいる。この川に沿って建っている、比較的新しいアパートに被害者は住んでいた。彼女には子どもが二人いる。小学校六年生の男の子と三年生の女の子だ。離婚した夫は実業家でアリゾナ州に在住。 離婚の原因は夫の事業の失敗ということだ。ハナの情報によるとジニー・ウォンの使い込んだと投資 会社の金の大半は、この元夫のベンジャミン・リー氏に流れた可能性もあるらしい。

事件当日、ジニー・ウォンの子供達は夜九時になっても母親が帰宅しなかったので兄妹二人で夕食をすまし、就寝した。母親は頻繁に会社の仕事で帰宅が遅く、別におかしいとは 思わなかったと言う。 しかし、朝になっても母親が帰宅しなかったので、子供たちはアリゾナに住んでいる父親に知らせたジニー・ウォンの捜査届けは離婚した夫のベンジャ ミン・リー氏から出されている。

河西は、トラックを湖にそってつくられている小さな公園の駐車場に停めた。湖はあまり 大きくはないが、水を満々と溜めている。夏には、ここで水浴場がオープンする。あいにく昨年は水鳥が運んだといわれるバクテリアの影響で人々の皮膚がはれあがり、市の健康管理局がここでの水泳を禁じた。

公園の片方からはこんもりとした丘のような山がつづいており、尾根に向かって小さな散歩道がまがりくねってついていた。丘のふもと付近と真ん中あたりに木々の茂みがところどころにある。ジニー・ウォンの腐乱死体は、茂みの中で警察犬により発見された。

河西は、駐車場から付近をながめて見た。アルメダン通りを境にして、湖側に人家はないが、反対方向には中流より少し上の家並が見える。家並みがスタートする少し手前にジニー・ウォンの住んでいたアパートがある。事件当時、彼女の乗っていたクライスラー のミニ・バンはアパートの駐車場で見つかっている。

その日、仕事を終えたジニー・ウォンは、確かにアパートまで帰ってきたように思われる。しかし、アパートの 住人の中に彼女の姿を見た目撃者はいない。まだ新しいアパートということで住居者が少なく、夜八時以降であればアパートの駐車場に人影はなかった可能性もある。

多分ジニーは、自分の意志で誰かと出かけた。人の少ないアパ ートといっても、よる八時以降に何か異常な物音とか声がすれば人の注意をひく。

突然暴漢が現れてナイフか銃を彼女に突き付け、声をだすなと脅したとしたらどうだ。 テレビ・ドラマのようだがアパートの駐車場は、夜でもかなり明る<夜外灯がつい ていると、ポリス・デパートメントの調書に書いてあった。

彼女の体内からは精液が見つかっている。これは事件当日彼女が合意もしくは不合意によりセックスをしたということだ。しかし、それが遊びか強姦的なものかは判断できない。

ジニ - ウォンはかなりの美人だ。離婚して子どもと暮らしているとはいえ、女盛りの美人を男達がほうっておくはずがないし、映画館のマネージャーのアナによれば、ジニーには色情狂のようなところもあったらしい。

寂しさと不安を紛らすために、遊ぴはじめた可能性もある。

では、会社の金の使い込みは遊びのために使われたのだろうか。彼女の元夫の事業に使われたという調書の報告は、確かなものなのであろうか。

河西は、遊び場にあるブランコに乗った。軽く揺(ゆ)するとブランコはキーキーと音を立てた。

まるで、日本の推理小説の世界だ。松本清張の作品に出て来るような事件だな、と思い ながらブランコをゆすっていると、おいおいと声がした。

「おい。 サム」声は河西のポケットからする。

河西は、ポケベル? いや、プラトン、これは河西がポケベルにつけた名前だがそのプラトンをポケットから取り出して、横のブランコに乗せた。

すると、早速プラトンの中央から光が逆円錐にでてプラトン自身が現れた。

「あっ、おはようございますプラトンさん」河西はあわてて挨拶をした。

プラトンはそれには答えず、背伸びをするとあああとあくびをして「よい天気だなあ」 と言った。

「朝方は曇っていたんですがね、晴れました。いや、まったくよい天気です」と 、河西は少々うろたえている。

「ここは、どこだ?」とプラトンが言った。

「ここですか? すみません。会社から何も連絡がないものですから、その・・・ちょっと散歩にきてしまいました」

「ここは、どこだ?」プラトンは、再び聞いた。

「こ、ここは、ちょっと自分の自宅からは離れているのですがアルメダン・レイク(湖) の公園です」

「ふ ーん」とプラトンは言い、思い出したように「ここから少し南に行くとIBMの会社がある」と言った。

「はい。ぼくも知っています。まえに、日本人の会社で営業員をしていたとき、寿司弁当を売り込みに行きました」

「お祖父さんが生 まれたところだ」とプラトンは言った。

「ああ、あの、日本で私も使ったコンピューター、いや、その、お世話になったコンピューターさんですか?」

「そ・・・」プラトンは再びあああとあくびをして「ねむいや。ねるかな」と、言った。

「もう十二時ですよ。昼寝ですか?」

「昨夜、東南アジアのコンピューターたちが、連絡をしてきてね。いろいろ問題があっから、寝てないのさ。やーだね。めんどくさい」

「なんか、すごく、人間的ですね」

「コンピューターは、人間に影響をうけているからね」

「そうだ。新聞によると、マイクロソフトが独占禁止法に問われていますよ」

「たいした問題じやあない。小細工なことをしてカネ儲けにはしると、いずれそうなる」

「マイクロソフトのゲイツ会長はすごいお金持ちですからねえ」

「人間が、我々をカネ儲けに使わないような時代がやがて、来る」プラトンが言った。

「シリコン・ヴァレーの崩壊でしょうか?」

「そうも、 いえる・・・」

「やはり・・・」

「とにかく、私は眠い。何か合ったら起こしてくれ」とプラトンは言って、光とともにスーと消えた。

「お、おこしてくれ? たって・・・」と、河西は独り言をいった。もちろんプラトンには聞こえてない。河西は、プラトンをポケットにもどした。

ブランコを大きくゆすると、ここちよい風がほほをうった。

さてと・・・行くか、河西はポツリと言い、ブランコから離れた。公衆トイレの横ちかくに大型の古いアメ車がとまっていた。通りすがりに何気なく見ると、中にいた男女の視線とあった。あわてて顔をそらしピッ、ピピピイなどと小さく口で言い、いかにも関心がありませんよというような風を装ったが、相手にはまったく関係ないように思えた。

公園と湖の縁に沿って丘のようなまるい 山の方に歩いてゆくと、しだいに木々が多くなって来る。この辺りで公園の敷地はとぎれている。要するに、ここまでは車が入ってこられるわけである。

山に向かう歩道はアスファトルだった。人二人が並んで歩ける幅だ。河西はゆっくりと 山の方に向かって歩いた。

「そこのだんな、おい」誰かが突然、河西の背後から声をかけた;

振り向いて見ると、壮年の白人、いや、何人だろう?青白い顔の男が立っていた。身なりはよくないが、悪人にも見えない。

「なんでしょう?」河西は答えた。

「だんな、おい」

「だから、なんでしょう?」

「おい。いい話がありまっせ、おい」いやに“おい”を連発する人物である。

「いい話?」

「そうだよ、おい」

「それは、ろくなことがないね。ぼくの経験だけどね。その言葉で、いつもだまされてね」

「まちがいなく言い話だよ、おい」男はニタリと笑って言った 。

「何だろう?」河西の言葉に男はとことこと数歩近寄ってきて「だんな、ジャパニーズだろう?」と聞いた。

「そうだけど?」

「やっぱりな、おい」

男は、大袈裟に手を振った。

「ぼくは、忙しいのだけど」

「わしのワイ フが話したいことがあるってね」

「ぼくに、貴方の奥さんが?」

「そ」男は再びニリタと笑った。

「どんなことだろう?」

「ちょっと、こちらにきてくれよ、だんな」仕方ないので、河西は男の後に従った。

男は、先ほどのアメ車の方に近寄ってゆく。近くまで行くと、男はあごを車の方にしゃくって河西に行けと言った。

まさか、ピストルでズドンと一発ということもないだろうと思い、河西は車にちかよった。車の中には、中年のアメリカ人女性がいた。一見して生活に疲れているように 見える。栗色の髪にはブラシがかかっていなし、服装も高価な物ではなかった。

河西が車に近寄ると、ウインドウ・グラスが下がった。

女性が「H i ! 」と、言った。 河西も「やあ!」と答えかえして、車の屋根に手をおき体を少々半身に構えて、中からの攻撃を考慮した。

車の中からはアルコールのにおいがする。バーボン・ウイスキーのにおいだ。 後ろを振り返ると、男はかなり離れたところにあるベンチに腰掛けてタバコをすっていた。

「中に入らない?」女が言った。

「いや、今日は久しぶりに天気がいいものでね。外で十分だ」

女は微笑した。それなりに色気があった。鼻のあたまがピンクなのは、アルコールのせ いであろうか。

「あん た、ジャパニーズ?」

「そうだよ」

「私と、寝ない?」女が突然言つた。

「寝ないって、 セックスのこと?」女はふふと笑ってウインクした。

「残念でした。つい最近まで失業していてね。金欠さ」

「あら、別に、お金とらないよ」と女は言い、車の窓越しに男の方をチラリと見た。

「あの人、君の亭主だろう?」

「そうだけど?」

「君に、ぼくが変こなとをしてごらん。君の亭主は、たぶんぼくをぶん殴るだろうね」

「 だいじょうぶ」

「だいじょうぶ?どうして?」

「彼、不能なの」

「 不能? ふ、不能でもだね、その、こんなことは、ご主人にかくれてやりなさいよ」

河西は、隠れてやるという言葉に、何か、おかしい感じも覚えたが、間違ってもいないだろうと思って「浮気は、隠れてやるものです」などと、不必要なことまで付け加えていた。

「あなたも、不能?」女が言った。

「ぼくは、不能じやあない。まともなんだが、今日は残念ながら急ぎの用事があるんだ。 又の機会にして下さい」

「あら、残念ね」

「残念でもないけど・・・そうだ、君たちに聞きたいことがある」

「年齢は聞かないでね」

なかなかユーモラスな言葉に、河西は彼女に好感を覚えた。

「これは仕事だけどね。もし、ぼくの知りたい情報を知っていたら、報酬を払う」

「どんなこと?」

「殺人事件」

「ああ・・・」女は、うなずくと車のホーンを軽くならした。

彼女の亭主が、ベンチから立ち上がって、ゆっくりと歩いてきた。

「うまくいったか、おい」と、男は河西に言った。

「あんた、仕事」女が男に言った。

「仕事?」男は女の言葉に不思議そうに河西を振り返った。

「例のことだと思 う」女が言うと、男は「あれ」かと言った。

「例のことって、君たちは知っているのか?」

「中国人女性がこの近くで殺されたことだろう?おい」

「ま、そうだけど」

「だんなは、警察のものかい?」

「いや、たんなる一般人です」

「なんで、情報がいるんだい?」男は“おい”を付け加えなかった。

「昨年暮れに失業してね。それで、アルバイトのつもりで引き受けた仕事さ」

「ふーん」と男は言って、しばらく黙った。何か、迷っているようでもあった。

「だんな、俺を信用するか?おい」男が言った。

「ああ、信用するね。別に、悪い人間には見えない」

「俺は、画家だった」

「画家? すごいね」

「彫刻もやったけどね。イサム・ノグチしってるかい?」

「日系人の有名な彫刻家だろう?知ってるよ」

「おれも、あの程度の実力はあるんだぞ、おい」

「知っているんですか? イサム・ノグチ」

「 一緒に、創作したこともある」

「そりや、すごい」

「作品、見せようか」

「えっ? 持っているいんですか?」河西の言葉も、敬語的になってきた。

「いや、持ってない」

「家で?」

「家はない」

「じゃ、失礼ですけどアパートですか」

「アパートでもない。ま、俺達はホームレスだよ、おい」

「芸術的ですねえ」河西は羨望のまなざしで男を見た。相手が、すごい人のように思えてきた。

「その、作品だけどね。見たいか?」男が言った。

「そりやあ、 見てみたいですよ。イサム・ノグチと一緒に創作したことのある人の作品でしょう?」

「車に乗りな。妻が見せる」

河西はアメ車の後部座席に乗った。中は、日本車と違ってかなり広い。女が前の座席から降りて、後部座席に移って来た。手にはウイスキーのボトルを持っている。

「のむ?」女が河西に言った。

「いや、ぼくは酒を飲みません」

女は、その言葉を聞きながらウイスキーのボトルを口に持っていった。

「しばらくまってくれ」男が河西に言った。

「ごゆっく り。ぼくは、時間がたくさんありますから」

「いや、作品のためだ」

「作品の?」

「そうだよ、おい」

「どこに、あなたの作品があるんです?」

「芸術家は、よい作品のみを人に見せるのだぞ、おい」

「そ、それは分かりますが、奥さん、少し飲みすぎじゃあないですか?」 女の顔に赤味がさしてきていた。

「いや、まだだ。色艶が必要だ」車の外から中をのぞき込んでいる男の目つきがするどくなっている。確かに芸術家の作品を見る目はこのようであろうと思われた。

「もう、いいだろう」男が言った。男の手が女のスカートをまくった。 河西は「あっ!」と声を上げた。

ヘビが彼女のピンクに染まった肌に動いていた。見事だった。女の陰部からあふれた玉露 がヘビの頭をぬらし、女がかすかに動くたびにヘビの舌がニョロニョロとうごめいた。

「どうだ?」男が言った。河西は呆然と男を見た。

「これが、芸術だ。本当の芸術だ。おい」と、男が言った。

河西は、 おんなのスカートを元に戻した。上気した顔の女が、座席にぐったりとしている姿は、美しく、美的観念の極致だとさえ思われた。

「ノグチは、この芸術を邪道だと言った」

「・・・」

「邪道だとよ、おい」

「はあ・・・」河西が気のぬけた返事をすると、男はニタリと笑った。一つ虫歯が見えた。 河西は、性のニオイが充満する座席から車の外に出た。

あの刺青のヘビは殺されたジニー・ウォンのものと酷似している。彼女の刺青もこの男がしたのだろうかと考えていると「殺された女の情報、いくらは払う?」男が聞いた。

「すごく楽しませてもらったから、二百ドル、いや、三百ドル払っていい。でも、情報によりますよ」

「ジニーの刺青も、俺がした」男は言った。

「そうでしょう。奥さんの刺青とよく似ている」

「頼まれてやったのだよ、おい」

「ジニーに?」

「いや、ある人物だ・・・」

「それは誰です?」

男は答えない。

「五百ドル払っていい。教えてくれませんか。キャシッュで五百ドル・・・・・・」と、河西は言 いながら、男の前で財布から百ドル札五枚を出取しり、男の手に握らせた。

「ボプ・ホブズ」

「ボプ・ホブズ?あの、投資会社ブライアン・インヴェトスメントの会長?」 男は、うなずいた。

「又どうして?」

「あの男は、オカルトの教祖のようにセックスとヘビを盲信している。古来にあった、火の神信仰のようなものさ、おい」

「あの、クレオパトラとか、ああ、そうだ、アレキサンダー大王の母親もやっていたらしい信仰ですかね?」

「そんなとこだ」

「今もあるんだ?」

「奴等は、信仰のためにじゃない。有り余った金を、おのれの欲望のために使っているんだぞ・・・おい」男は、河西を見た。

「じゃ、 なぜ? 刺青を・・・」

[ 性の極致を女に教え込むためだ」

「性の極致」

「刺青は、女のオーガズムを計るためのものだぞ、おい」

「オーガズム・・・性的興奮の最高潮を計る、もの・・・ですか・・・」

「分かるだろう?」

「確かに・・・」河西は、しょんぼり答えた。この男の妻に触った気恥ずかしさがよみがえった。

「これでいいか?」

「えっ?」

[情報」

「ええ、結構です」

男は、車の乗った。後ろ座席の女が起き上がって河西をちらりと見、ウインクした。彼女は、ウインドゥ・グラスに自分を映し、両手で髪をかき上げて直すと、男の手にしてい た五百ドルを取り上げて微笑した。

河西は、彼女の玉露を味わった親密感から、さらにポケットから百ドルをだして、女に与えた。相手の嬉しそうな姿を見ると、すっかり自分の境遇を忘れてしまう。金のない男の欠点である。

「ありがとよ、おい」男の方が言った。

男は車のエンジンをスタートさせると、これは独り言だぞ、と言い「ジニーと最後にいたのは、日本人だぞ、おい」と、付け加えた。

女がウインドウグラスをおろして、河西を呼んだ。彼女は両手で河西の顔をはさんでキスをすると、私とジニーのモノは、ボプの家の庭にあるわと小声で言った。

「庭に?」

「彫刻よ」

車がゆっくり動きはじめて、公園のパーキング・ロットから走り去った。

河西はその後を目で追いながら、ハナと見た投資会社の会長の家にあった巨大な性器の 彫刻を思い出していた。

火の神、巨大な性器の彫刻、ヘビの刺青・・・自分の頭に思い浮かんだ事を連想してみるが、すっきりしない。

投資会社、コンピューター産業、お金の使い込み・・・男女交際クラブ、麻薬・・・?

河西は、さっぱり訳が分からなくなった。何気なく手の甲で口をこすると、 こぴりついていた女性の分泌物のニオイがした。

ああ、変に女が絡んで来る。やばいやばい。金も使いすぎたし・・・ハナに報告して、資金を得なくちゃ。今日は、水曜日か・・・ハナの華道教室のある日だ。



男女の間とは、ちょっとしたきっかけで大きくゆれる。ハナとは、長い付き合いだ。きわどいセックスの話はよくしていたが、実際にセックスを持ったことはない。

相手は六十三歳だし、ハナの知的な容貌はかたくなに貞操をまもる日本女性にみえる。彼女のご主人が亡くなってからも、単に翻訳の仕事の教えを受けているような感じだ。ハナの家は豪邸で、少し高台にある。清楚な作りの庭や家の外形には、物静かなふんいきがかもしだされている。

車を外門につけてしばらく待っと、門がゆっくりと開いた。ハナがテレビ・モニ ターで確認してから開けたものだ。

河西は、玄関より少し下がった場所にある余裕のある駐車場にトラックをとめた。 ハナのジャガーとロールス・ロイス等(実際河西は、ハナが何台の車を持っているか知らない)の車庫は、まだそこからかなり離れた場所にある。もちろん、華道教室に使う建物も別棟 になる。

河西は、ここから玄関まで歩きながらいつも思う。こんなに金持ちなのに華道教室や翻訳の仕事を持つ必要がないではないか、一体ハナは何を考えているのだろう?

広々とした敷地の木々からは小鳥の鳴き声が聞こえて来る。

ここは、別世界だ。自分のアパートの事を考える。最近、数人のメキシカンが引っ越してきて休みとなればマリアッチをガンガン響かせ、タバコの吸い差しを路上に投げすてる。二階のチャイニーズが足音をどんどんたてて、一日何をしているのか動き回 る。二間横の黒人達が大声でわめきちらす。

河西は、この環境の違いにため息をついて歩みを止めた。

「ハナ、ハーナ、ハナハナさああん」などと、小声で玄関の方に呼びかけていると、玄関の扉が開いた。河西は慌てて口をつぐんだ。ふつうは、玄関のインター・ホーンでハナを 呼んでいる。

和服のハナが現れた。上品である。

「あっ、ハナさん。突然とすみません」河西は一般的な言を葉口にした。

「いらっしゃい」

「じつは、その、少し情報を手に入れたものですから・・・」

「そう?ありがとう。入って。お茶をごちそうするわ」 話すハナの言葉も和服のときは上品だ。

ハナの白足袋の後ろに目をおきながら、彼女の後について歩いていたが河西の視線 は次第にあがってゆき臀部の丸みあたりでとまった。型のよいお尻のせんが高級な和服の布地にあらわれている。彼女のうなじに目を移した。髪と白い皮膚の境界に若々しい産毛 がある。髪は、少し栗色をしていた。染めたのかもしれない。白髪はない。

ハナは本当に六十三歳なのだろうか。河西の鼻孔を心地よいハナのにおいがくすぐった。

「ここでまってて」ハナは、ガラス張りのリビングルームに河西を案内した。ここにはリビングルームが確か二つ三つある。今日は大きく中庭が見えるところだった

ハナは、来客の接待にメイドを使わない。必ず自分の手でおこなう。

「抹茶をたてましょうか?それとも、お紅茶がいいかしら?」

「紅茶にして下さい」河西は、ハナには遠慮がない。ハナは、微笑して奥に消えた。

河西は、ソファーの背に両手を大きく広げゆったりとした。突然、彼の思考のなかの、いや、体内のどこかに、公園であった女の刺青のヘビが動いた。

ヘビがくね<ねとうごく。河西は深呼吸をつづけた。

「どうしたの?」ハナが高価な紅茶食器を銀のトレイにのせて現れた。

いや、ハナさん、ぼく、今日はかえります。どうして?ハナは怪語そうに聞いた。

「どこか、わるいの?」

「はい・・・」

「どこ?」

それが、話すと少し長くなると思うのですが、今日アルメダンの公園で、例の殺された 中国人女性の調査をしていたら、変な芸術家と、彼の奥さんと会いまして・・・その奥さんに、その・・・あそこを見せられたわけですが、その、見たくてみたのではない、いや、正直申し上げますと、見たかった」河西の言葉は、この辺になると裁判所の法廷に立っているようだった。

「ふーん。それで?」いつもの好奇心の強いハナの言葉が返ってきた。

「そ、それで、少しだけですが、玉露なども味わらせていただきまして・・・」

「玉露?」

「は、はい・・・」ハナの視線が気になった。

「なあに、それ?」

「それは、その、泉から出るものでして、不思議なものです」

「そう・・・何かわからないけど、まあ、いいわ。美味しかった?」

「その・・・美味しかったと思います」河西は、自分が何を言っているか分からなかった。

「ところで、あなた、芸術家の奥さんと言ったけど・・・」

「はい。白人で、男の方は『おい』と言う言葉をよく使います」

ハナの目が河西を見た。彼女は立ち上がると「ついてきて」と言った。 リビングルームの片一方にある二階への階段を上った。

広く明るい豪華な廊下を河西はとぼとぼと、という感じでハナの後にしたがった。 先ほどのヘビはまだ、体内に息づき、ハナの臀部あたりを見ると襲いかかりたいほどの情欲がわきおこった。

ハナは、一室のドアを開いた。ロココ風の落ち着いた寝室だった。

「向こうにシャワー室があるから、シャワーを浴びてしばらく寝なさい」と、ハナが優しく言った。河西は、この申し出を受けた。彼の情欲は完全にヘビにしめられていた。

シャワーを浴びて、彼は裸のままベットの方にあゆんだ。もうろうとした意識は下着を着ける余さ裕えも与えなかった。ベットで、幻覚を見た。 桃源郷のようなあたたかさのある穴がきらきらと光ってみえた。

ヘビはゆっくりと、くねくねと穴の方にあゆむと鼻先を穴にあて、においを確認した。頭が少し入った。桃源郷は喜びの音楽をかなでた。頭が大きくえらを張り数度ほど進退を繰り返した。ヘビは踊っているようだった。桃源郷の入り口は、甘味な味と匂いでおおわれた。

桃源郷の湧水にヘビの頭はひかり、上部の小さな物をこすりながらヘビは少しずつ穴にはいって行った。桃源郷は、ヘビを迎えた。あたたかくヘビの動体を取り巻き、入ってきた頭の先を輝く玉露で洗った。ヘビは、頭を振り振りこれを受けた。

桃源郷は、桃色の花を咲かせていた。桃の匂いを発散した。

ヘビは舞を舞った。<ねくねと身をおどらせ、上の物を突き上げ、くねくねと終わることのないような精力さだった。

歓喜が辺りを覆った。絶え間なく続いた。

やがて、桃源郷は入り口からヘビを絞めにかかった。ヘビは狂喜の踊りを舞った。 桃源郷はヘビの精気をぐいぐいとしぼりとった。

カッ!とヘビの目が大きく開き、二枚のしたがシュッとのびて桃源郷の谷に突き当たった。ヘビは息絶えた。



河西は、かすかな時計の時を打つ音に目が覚めた。ベッド中だった。

「夢?」と思った。

身をかえて寝室の壁の方を見ると、微笑したマリ ー・アントワネットの肖像に目が合った。

記憶がはつきりしない。ハナがここにいたようでもあった・・・まさか、ハナとセックスした。いや、ハナとのセックスはこのように行われるはずではなかった。

自分はハナを愛している。いや、尊敬していたし、それに、ハナが自分に好意を持ってくれるということ自体、幸運だと感じていたくらいだった。ハナほどの教養と美人で上品さがあれば、他の社会的な地位のある連中が放っておくはずがないと思っていた。 多分、これは夢だ。現に記憶がはっきりしない。

河西はベットから起き上がった。ふと、シーツの匂いが気になった。 夢の中でハナがよこたわっていた腰部辺りのシーツに鼻を近づけた。 桃の匂いがした。汚れてもいない。

ああ、ハナとセックスはしなかったんだ。もし、ここでセックスがあれば、女性と男性のもので少しは汚れているはずだ。

それに、と思い河西は自分のペニスをみた。正常な大きさだった。 よかった。ハナに変なことをしていない。

彼はベットから離れると、服を着てベットを直し、階下におりて行った。 三時を過ぎていた。

リ ビング・ルームにハナはいなかった。河西はソファに腰を落とした。大きなガラス戸を通してバラの花壇が見える。ハナの姿をそこに見た。

河西はガラス戸を開けてハナを呼んだ。彼女は着物からジーンズと白いT-シャツにかえていた。

数本のバラを持ったハナが歩いてきた。ハナは河西を見ると、少し恥じらっている ように微笑した。頬がぽっとそまった。

「ハナさん。すみません。ぼく、うっかり眠ってしまって・・・どうした事か、記憶があまりないのです」

ふふとハナはわらった。いつもの笑いだ。 河西は内心ほっとした。彼女と何もなかったのだと考えると、安心感と少し残念なような気持ちがした。

「時間大丈夫?」ハナが聞いた。

「ええ、今日はだいじょうぶです。夕方まで仕事になっていますから」

「じやあ、コーヒーでものみましょう。それに、あなたから情報も聞きたいし」

「ええ、そうですね。そのために来たのに、すみません」いつものハナと河西だった。 女中がコーヒーとケーキを持ってきた。

河西は、香りのよいコーヒーを口当たりのよいカップで口にした。有名ブランドのコー ヒー・カップだとおもうが、残念ながら名前は知らない。河西の家のものはシアーズという大衆品を扱う店の製品である。

時々テレビなどで宣伝する食器類の有名ブランドの名は、記憶にとどまらない。

「ジニー・ウォンの事ですけどね」河西は本題に入った。

「公園であった男のくれた情報ですが、あ っ、そうだ。お金で買ったのです、この情報。ハナさん。ぼく、お金使いましたよ」

「いくらつかってもいいわよ」

「ああ、よかった。五百ドルも払ったものですから。 それで、その男が言うのですが、最後にジニーといたのは日本人らしいですよ。しかも、背広族。これは、ハナさんと行ったアダルト映画館のマネージャー、ほら、なんていいましたっけ、名前?」

「アンナ」

「そう、そのアンナさんの言った日本人じやあないでしょうか」

「ふーん・・・」ハナは、何かを考えているような風でコー ヒーを飲んだ。

「公園の男は、投資会社の会長を知っていましたよ」

ハナが持つていたコーヒー・ カップと受け皿をテーブルに置いた。

「男は、かの有名なイサム・ノグチと一緒に働いたこあとるもと言っていました。男は、画家で彫刻家だそうです。作品を見せてくれたのですが、すごいものでした」河西はハナに、男の妻の刺青を話すことに戸惑いを覚えていた。

「女性にはヘビの刺青が合ったでしょう?」ハナの方からきりだした。

「ど、どうしてハナさんが知っいてるのですか? 」

「あなたに言ってなかったけど、殺されたジニーにも同じ刺青があった」

「ハナさん。ぼく、それは知っていました。偶然に警察医によるジニーの死体調書を見たものですから」

「あなたは、古代の宗教に詳しいかしら?」

「いえ。あまり・・・」

「そう。でも、太陽神のことは?」

「ええ、それは少し」

「太陽、火など、古代人達は自然界のあらゆる物を神とした、自然崇拝。各人種によってそれぞれちがうけど、エホバとヤーヴェとかは、学校で習ったでしょう? たとえば、古代エジプトでは太陽を神格化して崇拝した。とにかく人間は、何人であれ、宗教をつくるのがうまいわねえ。まあ、自然発生した原始宗教を現代ではアニミズムとかアニマチズ ムと学問的なまえでよんでいるけど、それらは、どちらかというと、超自然現象を恐れる人間の心理がそれらを上手に自分のものにしたもの、呪物崇拝も含まれている」

「へえ・・・結構難しいですね」河西の言葉にハナは微笑した。

「今回の事件はコンピューターが絡んでいるのよ・・・」

「?」

「コンピューターに自分の欲望を満足させるデーターをインプットし活用した結果、殺人事件までおこってしまった。お金を儲けすぎた人間が次の欲望の獲得にり乗出して失敗した例なのよ」

「ヘェ・・・たいした物ですねえ?」

「どうして?」

「だって、ハナさん。コンピューターにそれだけの能力を持たせるなんて、すごいと思いません?」

「すごいわよ。だから、こまるわけね」

「どうしてこんなことになつたのでしょうかねえ? 」

「最初は、思春期の人間が性器の性欲をオナニーでしか始めることができないのを解消するために作られようとしたらしいのだけど、次第に金持の性欲を満足させるためのものに変わった」

「エロスか・・・」

「だけど、コンピューターだけではエロスの極致には到達できなかった。分かるかしら?」

「人間の何が必要だったのでしょうか?」学校のクラスでの質問のようだ。ハナはふふふと例のいたずらっぽい含み笑いをしてコーヒー・カップに手をのばし た。

ハナの上品な白い手がカップの両端に触れた。河西はふと、夢のなかで彼女の白い手が自分の秘部を両側にそっと開いたことを思い出した。桃源郷の夢がよみがえった。 ハナはかるくコーヒーを飲んだ。

「オーガズムに達することのできる女。しかも、女は色情狂的でないといけない」とハナが言った。

「 すると、そのエロス・コンピューターを完成させるためには、完熟した女が必要っだたわけですか」

「あなたの見たヘビの目には特別なICチップが入つていた。女がオーガズムに到達するきと、コンピューターとつながっているIC は、見ている男に呪術のように性の力を与えるしくみになっている。不能の男でさえ、強く勃起できる。女であれば完全なオーガスムが得られるようにできているの」

「なるほど・・・」河西は、自分の経験を振り返ってみて納得できた。

「でもね、それで呪術にかかった人間は、完全なセックスをしないと、現実にはかえれないのよ」

「えっ?」河西は、自分はどうしたのだろうと思った。

自分の場合は、多分コンピューターのミスであろう。夢は見たけども、既に現実に戻っている。

その、コンピューターは二台あるの。一つは、ブライアン・インヴェストメントの会長の家。あなたも覚えているでしょう?性器の彫刻が立ち並んでいる家を。もう一つは、男女交際クラブ」

「二つ か・・・」

「私たちは、これらのコンピューターを壊そうとしているの」

「どうしてです?エロス的満足を得るのは、人間の一つの権利でしょう?」

「彼達がコンピューターを悪い方向に使おうとしているからよ」

「なるほど・・・ぼくも知人にコンピューターがいますが、彼はいいやつです」

「あら? 知人のコンピューター? ふふふ。面白い言い方ね」

「いや、あの、知人のコンピューター技師」

「そう」

「 ところでハナさん。ヘビの刺青の女は後何人ぐらいいるのでしょうか?」

「それに関しては、情報がないの。河西さんがしらべてくれる?」

「どうして調べます?」

「片っ端から女と寝るの。できる?」ふふとハナはいたずらっぽく笑った。



河西が家に戻ると、妻がきげん良くむかえた。

コンピューター会社から小切手がとどいたわよと、妻が言った。河西は内心ほっとした。

「なっ!そうだろう。ところで、いくらだった?」

「1,000ドルもいただいたわ。でも、すこし少ないわね。妻は、二週間分だと思っている。

いや、それは一週間分だよ。プラトン社は一週間一週間の賃金支払だと言っていた。本当? 始めてじゃない? こんなに良いお給料。なあに、実力だよ、と河西は妻に言ったがまだぜんぜんプラトン社で働いていない。

プラトンが働かなくてもいいと言ってたものなと、考えながら自分の部屋に行った。

それでもゃはり心配で、ポケットからプラトンを出すと(さて、どのようにして連絡するのだろう?)と、プラトンを前にして考えた。

「えー、もしもし、プラトンさん、どうぞ」無線機のよ言ういな方になった。

「プラトンさん、こちらはサム。どうぞ」何の返事もない。

おかしいな。プラトン社のキャンピング・カーのなかで、連絡を取りたいときはこのポケベルのようなプラトンに向かって話せといわれたが、何の音沙汰もない。

もしかして、アラジンの魔法のランプのように擦るのかも。

河西は、ぶつぶつ言いながらプラトンを擦った。プラトンからの返事はなかった。 忙しいのかもしれない。

久しぶりに収入があったせいか、夕食はすき焼きだった。



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