本山らのと煤煙の空

七条ミル

本山らのと煤煙の空

 本山らのと云う人を知っているか、と聞かれたから、私は無いと答えた。聞き覚えの無い名前であったが、どうやら一部の界隈では有名になっているらしいのである。

 噂によると、どうも街の本屋に現れては本を大量に購入し、近頃になってはその感想をて神田区の神保町で語っているらしいのである。神保町と云えば、都電も走って居るし、大学も多い。となると、本山らのは大学生であるのやもしれぬ。しかし、未だ先の戦の傷は癒えていない。神田川のことを考えると、あまり神田区に足を運ぶことは少ない。

 しかし、どうも私は本山らの興味を持ってしまい、早速神田区神保町へと足を運ぶこととした。

 聞いた話によれば、本山らのは見た目は十八から十九のように見えると云い、その上飛び切りの美人であると云う。丸い縁の、顔に大してやや大きな眼鏡を掛けているというから、すぐにわかりそうなものである。その上、和服を着ているそうなのだ。それも、随分と扇情的であるらしい。裾が極端に短いと云うのだ。裾の短い和服を着こなす女性など、そうそう居るものでもあるまい。

 私はすぐに本山らのは見つかるだろうと思った。


 ところが、探しても探しても本山らのは見つからなかった。これはいったいどうしたことだと思い、私は一軒の書店へと足を踏み入れた。特に何かアテがあったわけではない。それこそ、気まぐれである。ところが、私はその踏み入れた書店で、確信を持って本山らのであると断言できる人間を見た。なるほど確かに、綺麗な人である。噂に違わず丈の短い和服を着ており、帯には狐を模した仮面のようなものをつけており、肩の部分で布地が切れ、二の腕のあたりでまた布が現れる。その部分は鈴の付いた紐で止めており、肩が出ているのだから、当然の如く腋も見える。なるほど人気が出るわけである。

 背の高い本棚の上のほうにある本を背伸びして取って、装丁を眺めたり少しパラパラとめくってみたり。私はあまり女性の仕草を気にするほうではないのだが、それにしても、本山らのはかわいらしい仕草をするな、と思った。その上、読んだ本を紹介すべく、紙を配ったりしているのだと云うのだから、噂になるもの自明の理である。

 私は暫く、様々な本を取って眺め、そして棚に戻したら次の本を取る、暫くしたらもう一度先ほどの本を取って、などと云う様子を眺めていた。

 しかし、ずっと見ているわけにも行かぬ。

 私は一時、本山らのを自らの思考から追い出し、近くにある別の棚の文学作品を手に取った。偶々手に取っただけの本であったが、それは既読の作品であった。


 つい読み耽ってしまったが、本山らのを探すことを目的としていたことを思い出した私は、ふと近くを見回した。本山らのは、いつの間にやら隣に移動してきていて、そして私と同じように、本を開いて立っていた。

 集中しているようである。恐らく、私が話しかけようとも、この様子では気づくまい。

 本山らのは、本当に本が好きなのであろう。

 暫く横目に見ていると、本山らのはその本を会計係に出して、やや厚みのある財布から百円札を取り出して、躊躇うことなくその一冊を購入した。確かに、この様子ならば本の大量購入というのも頷ける。

 本山らのがこちらに振り返りそうになったから、私は再び本に視線を落とした。

 買おうか、それとも立ち読みだけにしていこうか迷ったが、後ろめたい気持ちが心のどこかにあったので、私はその本だけ買って書店を後にした。外に出てから、本山らのを見ることは無かったが、小腹が空いたので道を一本入ったところにある、ラドリオなる比較的最近に出来たらしい喫茶店に入った。




 急な仕事が入ったので、朝早くから、私は都電に揺られて会社へと向かった。朝の電停は相変わらず混んでいて、これでは交通事故でも起こるのではないか、というような具合であった。いや現に交通事故は起こっているのだろう。最近は、新聞を見るのも億劫で、そう、丁度活字と云うものにあまり触れていないのだ。それこそ、昨日本山らのを探しに神保町へ行かなければ、活字などと云うものには一年くらい触れないかも知れない。――どうも、仕事と云うのは疲れる。


 都電に乗って、神田川のあたりまで行って、神田川の土手に座った。空はどこかから出る煤煙のせいでどんよりと沈んでいて、見ていて晴れ晴れしい気持ちになど、ならない。川は川でさ綺麗ではないのだ。これでは、ドブ川と相違ない。せっかく戦争を生き残ったと云うのに、これでは何の意味も無いのではないか、などと思ってしまう。

 街は、復興してきたほうだとは思う。それは、確かにそうだ。だけれど、それとは別に、昔とは何かが違っている。決定的な何かが。


 私は一つ、ため息をついた。


 ふと、本山らのを見た。

 視界の隅に一瞬だけ映った、というような程度であったが、あの風貌は紛れも無く本山らのと呼ばれる少女のそれであった。

 追いかけようと、思った。けれど、思い出してしまったのだ。人に、電話を掛けねばならない。

 ゆっくりと腰を上げて、公衆電話を探す。神田区から電話を掛けたことは勿論あるのだが、それでも毎回探してしまう。どうも、私は物覚えがさほど良くないようであった。


 ――はい、もしもし。


 ――有難う御座います。宜しくお願いを申し上げます。


 神田川に、身でも投げ込もうかと思った。何か意味があると云う訳ではない。唯単に、思いついてしまっただけなのである。死神にでも、憑かれたのだろうか。そう思ったら、ふと笑いがこみ上げてきた。死神だなんて、神だなんて、本当は居ないのだ。一応形式の上では神社に行けば賽銭を上げるなどするものの、実のところ誰も神など信じては居まい。つい何年か前まで現人神であった天皇でさえも、そうでは無いと云ったそうではないか。

 本当に神が居るのだとしたら、是非に会ってみたいものである。

 ふと、人間中心主義、なんという言葉を思い出した。


 あてもなく、私は古書店外を歩いた。勿論、何か目的があるわけではない。かと云って、家に帰ろうと云う気にもならないのだ。裏神保町はあまり人気も無く、独特の落ち着いた雰囲気があってよい。

 ――私に、雰囲気も何も、全然解らぬのだが。


 本山らのを探そうと思った。




 他人には欲と云うものがある。当たり前のことである。無神論を唱えつつある人間にとって、欲を戒めようなどと云うのは過去の産物になりつつあるのやもしれぬ、などと考えながら、都電に揺られて、また、神保町の電停で降りた。勿論、会社を休んでである。

 平日昼間の表神保町と云うのは、存外に人が居た。勿論、休日の表神保町ほどではないにせよ、平日の表神保町も中々のものである。書店に勤める人なのか、或いは喫茶店に勤める人なのか、或いは。

 兎角、今日は明確に、本山らのを身に来ていた。結局、私は本山らのの書評に関しては未だ見ていないのである。


 遠くのほうから、声が聞こえた。女性の、昨今の女性よりも、数段丸い声をしている。よく聞く声とは、性質を違えているにも関わらず、その声はすっと自分の中へと入ってきた。それが本山らのその人の声であると確信するのに、そう長い時間を要すことも無かった。

 声のするほうへ、足を向けた。表ではない、であるならば裏であろう。

 そこには、先日と変わらぬ容姿で、本を手に持ち嬉しそうに物を語る女性の姿が在った。


 はしたないとは気づき乍らも、私はつい、本山らのを追ってしまった。

 秋葉原を過ぎても、本山らのは結構な速度で歩いていく。足が長いというのも、あるのやもしれぬ。

 頭の上を、ぴょこぴょこと二束ほど毛が揺れているのが見えて、なんとも微笑ましい気持ちになった。


 本山らのに見惚れているうちに、いつの間にか私は、森に迷い込んでいた。この東京のど真ん中に、森などあるはずが無いのに。しかし、森には妙な安心感のようなものに満ちていた。時々木々が鳴るのも、私を安心させる要因となった。

 そのときになって、漸く、私が今立っている場所が、森の中に作られた道であることに気づいた。その先には、神社が見える。

 ゆっくりと、私は鳥居に向かって歩いた。稲荷神社であろう、左右には狛犬ではなく稲荷の石造が置かれている。鳥居は朱に塗られており、鳥居を過ぎる直前あたりから、地面は石畳へと変化した。左右には砂利のエリアが広がっていて、正面にはやや小ぢんまりとした拝殿がある。扁額には、『羅野神社』と云う表記がある。

 ――らの。

 ここ数日、よく聞く、否、よく思い浮かべている名前である。

 本山らのを追っていて、羅野神社と云う、同じ名を冠する神社に着くというのが、偶然の産物とはとてもではないが思えない。仮令無神論を信ずる者であろうとも、恐らくこれにはスピリチュアル的な何かを感じざるを得ぬのではなかろうか。

 人間中心主義とはよく言ったものである。

 人間がそう思えばそれで解決するのだ。


 ――ここに来たということは。


 声が聞こえた。先ほど、聞いた声である。そちらを振り向くと、先ほどと同様の格好をして、手に箒を持った本山らのが立っていた。本山らのは、それ以上何を云うでもなく、ただ私の目をじっと見ていた。何かを見透かすような、そう言う目であると、少なくとも私はそう感じた。

 兎に角ゆっくりしていってくださいね、と本山らのは云った。

 私は、本山らのに甘えることにした。


 私がゆっくりゆっくりと、もたつきながら活字を追う横で、本山らのはひたすら早い速度で活字を追い続けた。私が一章程度を読み終える頃には、若しかすると一冊読み終わっていたかもしれない。兎に角、それほど本山らのは活字を追いそれを拾う速度が速くそして、正確なのだ。本山らのと為らねば、それは解らぬのかもしれないが、兎角私には、そういう風に見えた。

 とはいえ、本山らのが、楽しそうに本を読む姿は、それはそれとして絵になるものであった。なるほど、やはり人気も出るだろう。

 私は、本を閉じて立ち上がった。そろそろ、帰らねばならぬと思ったのである。本山らのに礼を言ってゆっくりと歩き出し、鳥居をくぐる。

 ふと振り返ると、本山らのの頭に、狐の耳のようなものを見止めた気がした。




 どうやって羅野神社から帰ったのか、全く記憶に無かった。ただ、神社に行ったことは覚えていたし、本山らのの横で本を読んだことも覚えているし、本山らのの頭上に狐耳を見止めたことも覚えている。だけれど、それしか記憶に無いのだ。ともすれば、昨日の出来事は夢だったのやも知れぬし、或いは、本当に本山らのは狐であるのやもしれぬ。

 電停に降り立ち見上げると、相変わらずどこかから吐き出される煤煙が空を覆っていた。ただ、そこにあったのは私の知らぬ空であった。

 それから私が本山らのに会うことは、一度とて無かった。

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本山らのと煤煙の空 七条ミル @Shichijo_Miru

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