ちっぽけな私よ、こんにちは
しつこく鳴り続ける電話に、震える指でタップする。第一声は怒鳴り声だった。当然だった。まだ未成年の私がふらふらと一人で出歩くには危険がありすぎる。でも、あちらだって煽ってきていたのだから、そのまま出てしまうのもわかっていたことだろう。あっちにだって。責任の所在はあるのだ。怒りがだんだんとこみ上げてきた段階で、急にしおれた悲しい声が聞こえてくる。
「お願い、帰ってきて」
「………うん、わかった。ごめんね」
「お母さんこそごめんね」
ぷつり。電話を切った。
こみ上げてきた怒りはどこへやら。飛び出してくる前の言葉を思い出して、さっきのお母さんの言葉を思い出して、帰る。
先に謝ったことにより、最初よりかはいくらか帰りやすくなった足取りで、夜道を戻った。そして、家のドアを開けたのだった。
◇◇◇
あの夜から私はこっそりと家を抜け出すようになっていた。私の部屋は一階に位置するとこにあり、両親が部屋に入ってきさえしなければ、なんとかなるのが幸いだったのかもしれない。見つかったら大事になることは予期しているけれど、どうしても彼女に会いたかった。名前すら知らない、月明かりの下で泳ぐあの彼女に。
いつもより早くにお風呂に入って、歯磨きをして、「おやすみなさい」と両親に告げて部屋に行く。怪しまれないように電気を消して、夜に抜け出す用に買っておいた靴をはいて、窓から外に出る。
彼女に会いに行くために。
「………いない」
ぽつりと呟いた声は、暗闇に溶けた。
月は雲で隠れてしまっているし、スマホの頼りない光で辺りを照らしてみても、彼女の姿は見えない。どこまでも暗く淀んだ海だけが私の目の前に存在していた。
あの夜はきれいだったのに。
彼女に会えないまま、海を去ることになった。
なるべく物音を立てないように、玄関前の門を開けて、自分の部屋がある方へと向かう。部屋は真っ暗で、出る前とさほど変わっていないように見える。
靴を脱いで、窓の近くに置いておいた箱にしまって、窓を閉める。カーテンを引いて、スマホを懐中電灯代わりにして、ベッドの下に靴の入った箱をしまう。たぶんここなら見つからないだろう、と思って隠しているが、そろそろ隠し場所を変えた方がいいかもしれない。そう考えながら、ベッドへ潜り込んだ。
◇◇◇
連日のように家を抜け出していた私だったが、全く彼女に会えなかった。
かれこれ一週間ぐらいになるだろうか。夏休みが終わるまであと半月を切っていて、あの夜から彼女のことで頭がいっぱいで全くといっていいほど課題は終わっていなかった。机の隅に積み重ねられた宿題たちがこちらを恨めしそうに見ているような気さえしてくるようだ。さて。どうしたものか。
彼女を探しに行くのは夜なのだし、昼間ぐらい真面目に勉学に励んだ方がいいのかもしれない。積み重なった課題の上半分だけ持って、リビングに向かう。
ドサドサと乱暴に課題を広げていく。端からペラペラと捲っていくが、恐ろしいくらいに文字が数字が頭を通過していって、頭に入る気配もなければ、この問題がなんなのかさえわからなかった。
びっくりするほど、課題に手をつけることができなくて、頭を抱える。
彼女に会いたい。
そのことしか考えられなくなってしまっているらしい。私は随分と重傷らしかった。仕方なく課題をひとつにまとめて、また元の場所へと戻してやって、ベッドに寝転んだ。
ピピピ。ピピピ。
控えめな音が鳴った。ゆっくりと起床すると、空はもう真っ暗だった。だけど、なんだか明るい。しばらく曇りがちだった空はきれいに晴れている。月明かりが私を照らしていた。
「…………」
今日こそ彼女に会えるかもしれない。そんな気がした。
急いで夕飯を食べて、歯磨きを念入りにして、お風呂に入って、自室へと戻る。お母さんからは、「また寝るの?」と呆れがちに言われたが、生返事を返して電気を消した。
ベッドの下から靴を取り出して、空き箱を窓際に置く。靴を履いて、窓を中途半端に開けたまま、海へと走り出す。
スマホをつけなくても大丈夫なくらい大きくてきれいな月が夜道を照らしてくれていた。
「いた」
息を切らして走ってたどり着いた海で、あんなにも会いたかった彼女が泳いでいる。
立っているのもつらくなって、コンクリの上にしゃがみ込む。冷たいコンクリが私の熱を奪っていくのがわかった。それでもなお、熱を持ち始めているのはきっと彼女のせいだ。
彼女はゆっくりとこちらに向かって、泳いでくる。心臓がドッドッド、とうるさくなっているのがわかる、身体中の血液が沸騰していくような、焦点が合わないような、今まで感じたことのない感覚たちが私を襲う。
彼女は上半身だけを海から出して、じっとこちらを見ている。濡れた髪が、海で冷やされたであろう身体が、はっきりと見えた。慌てたせいで眼鏡すらかけていないというのに。
「あの、」
想像していたよりも情けない声が、私の口から漏れ出していた。そんな声を聞いても、目の前の彼女の表情は変わらない。数十センチ向こうの彼女。手を伸ばしたら届くだろう距離にいる彼女。
「あなたの名前を教えて」
「夜乃、」
「夜乃……さん、私、柚木。」
「柚木、さん」
彼女の声を、名前を知れた途端、感情が抑えきれなくなって。自分の名前を呼ばれた瞬間、私は―――
「私、あなたが好き!」
告白していた。
「…………」
彼女が口を開こうとして、きっと私に対して返事をしてくれようとしていて。
その前に私は立ち上がって、全速力で走った。走った。答えを聞くのが怖くて、彼女、夜乃さんを置いて、逃げた。
これじゃあ言い逃げだ。なんて最低なんだろうか。自分で言っておいて。答えも聞かずに逃げ去るだなんて。
自己嫌悪を繰り返しながら、ベッドに戻ることも、靴を戻すこともせずに、冷たく固い床で一晩を過ごした。
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