11章7節

 広間に、リュートの音が響いていた。重なり合う二つの旋律と声。それに居合わせた者たちはしんみりと、そしてひっそりと耳をそばだてる。

 最後の宴だった。傷つき、立てぬ者以外は全て集い、残された最後の食料と酒を酌み交わした。迫りくる最期の瞬間に向けて、誰しもが言葉は多くはなかったが、それでもこれまで過ごした時間のことを思えば、語ることは尽きることがない。


   歩み進みしこの道の 野辺に倒れ朽ちるとも

   骸の上に苔はむし 花を大樹を育める

   時の大河の流れの前に 雪片ほどの命でも

   踏んで越えて行く者の 糧となりて明日を行く


 ベリンダが紡いだ詩に、そこかしこから嗚咽がもれた。アイラシェールの奏でる主旋律に乗せられた声は、朗々と、切々と、広間に響き渡っていく。

 イプシラントの会戦で、国軍はおよそ一万五千の死者を出した。それは全軍の三分の二を占め、指揮官だった騎士団員の半数も帰らぬ人となった。そしてアルベルティーヌに撤退、籠城の構えを敷いた彼らを、市民は許さなかった。外からの砲撃に呼応し、蜂起した市民は城門を開いて革命軍を街の中に導き入れ、防衛に当たっていた国軍兵のほとんどが投降した。

 もはや残されているのは、この城ただそれのみ。それさえも風前の灯であることは、もはや誰の目にも明白だ。

 投降と、城の明け渡しを要求する勧告は、フィリスがアイラシェールの目の前で引き裂いた。投降しても待っているのが処刑であることは明白であり、それならば騎士らしく戦って果てたいと願う彼らを、アイラシェールも止められなかった。

 そうして城に残った全ての人たちを集めて、最後の宴が催される。そこでアイラシェールは、自分を信じて付き従ってくれた人たち一人一人を声をかけて労い、そして最後の選択を告げた。

「明日、革命軍はこの城まで攻め上ってきます。その手で玉座を掴むために、選り抜きの精鋭部隊が先遣として突入してくるはずです。もはや我々に時間はわずかしかありません」

 しん、と静まり返る座に、アイラシェールは続けた。

「ところで、ウェンロック陛下が我々に一つ、贈物を残してくださいました。薔薇園の奥のラグナ離宮、その中心の塔――赤の塔に、抜け道が作られていました。地下を抜け、アルベルティーヌ郊外へと抜ける、秘密の抜け穴が」

 突然の言葉に、場がざわめいた。驚きと動揺に声を上げる人々を咳払いで制して、アイラシェールはその選択を告げた。

「明朝、日の出の前に、今城に残っている全ての女性、非戦闘員、そして生き残り、人生をやり直したいと願う者は、この道から脱出してください。全ての者が滅びの道に殉じることはありません」

「侯妃……」

「フィリス、貴方には誰を止めることも許しません。己の人生は、己で選ばなければならないのです」

「……はい」

「死をもって、己の志を完遂したいと心から願う者を、止めることもまたできません。カティス陛下の率いる精鋭と存分に戦うといいでしょう。ですが皆、覚えておいてください。生き残ることは、死ぬことよりもむしろ苦しく困難を極めるということを。砂を噛んで生き抜くことの方が、よほど強い意志が必要なのだということを」

 そうして宴が果てた後、アイラシェールは自室にマリーとリワードを呼んだ。

「リワード、貴方に騎士としての最後の命を伝えます。貴方には、明朝城から脱出する人たちの護衛の任を与えます。無事に皆を、城外まで送り届けてください」

「承知しました。彼らを見届けましたら、必ずここに戻って――」

「それには及びません」

 さえぎられた言葉に、リワードとマリーは愕然とする。

「侯妃、それは――」

「リワード、貴方は戻るに及びません。貴方は明日、マリー――いいえ、マリアンデールと共に城を脱出し、そのまま野に下りなさい」

「承諾できません。だって、私だって、逃げるつもりなどないのですもの!」

 いきり立って叫ぶマリーに、アイラシェールは慈愛の微笑みを浮かべて首を横に振った。

 これもまた、運命のその一かけら。

「マリー、これから私の言うことをよく聞いて。共に死ぬことだけが、志に殉じる道ではありません。屈辱と悔恨を胸に抱いて、それでもなお生き続け、志を貫くこともまた一つの道です。貴方たちならば、それができると私は信じています」

「侯妃、ですが私は……」

「貴方たちにはまだ、果たすべき役割があります」

 アイラシェールは、皮肉な思いを心の奥底に隠して言った。

 運命の舞台は、自分の死後も続いていく。自分の残した布石は脈々と生き続け、それは大陸統一暦1200年代に花開く――自らの大切な人たちを破滅に追い込むために。

 壊してしまうことはできた。変えることもできた。自分も含めて、世界の全てを諸共に道連れにして。

 けれども、それは――。

「私たちの理想は潰えました。……判っていたのです。私の理想が早すぎたのだということも、時代がそれに追いつくには、まだ途方もない時間が必要なのだということも。それでも私は、種を播きたかったのです。いつかは大輪の花を咲かせる、この種を」

 卵が先でも鶏が先でもいい、とアイラシェールは思った。

 少なくともその理想を信じ、夢見た自分がいたことは紛れもない事実なのだ。

 たとえそれがどれほど間違いであったとしても、そんな自分を信じ、命を賭けてくれた人が――殉じてくれた人がいたのは、紛れもない真実なのだ。

 だとすれば、自分はその志に悖ることは、もはや、できない。

「この種が芽を出し、葉を繁らせ、一本の木となって花を咲かせるまでには、まだ多くの時間が必要です。それは貴方たちが生きていける時間でさえ、足りないかもしれない。けれども必ずいつか、その花は咲きます。誰も見たことのない、美しい青い薔薇の花は。そのために、どうか貴方たちは生きてください。生きて、私の播いた種を守ってください」

「侯妃……侯妃、嫌です。私は、私は……」

「私のことを、私の信じたものを、誰一人覚えていてくれないのでは、あまりにも寂しいではないですか。……私は、国を乱した魔女として歴史に残ります。確かに私は、間違っていたのでしょう。それでも私が私なりに民のためを思い、国を少しでもよくしようとしていたことまでも、敗北と共に全て忘れ去られてしまうのは、なかったことになってしまうのは、あまりにも寂しいではないですか。だからマリアンデール、リワード、貴方たちだけは、生きてください。そして覚えていてください。真実が残らなくてもいい。何一つ、未来に伝えられなくてもいい。それでも貴方たちだけはどうか私のことを、覚えていてくれませんか?」

 その言葉に、マリーは泣き伏した。彼女は悟ったのだ。もはや己が何をしても、何を言っても、何も変えられないことを。諦めるしかないことを。

 悔恨は胸に残るだろう。己の無力を責めるだろう。天を、時を、きっと彼女は恨むだろう。それがこれからの彼女の道を支えるだろうことを――それが彼女に彼女の運命を遂行させる繰り糸になることを、アイラシェールは知っている。

 だから、そんな彼女の肩を抱くリワードに、アイラシェールはそっと告げた。

「貴方には貴方の望みが、道があることは存じています。それでも、私の願いを聞き遂げてはもらえませんか? マリアンデールのことを、どうか、頼みます。彼女のこれからを支えていけるのは、貴方しかいません」

「……判りました」

 苦渋を飲み下し、迷いもまた呑んで、リワードは震える声で答えた。

 そんな二人を見送って、アイラシェールは深い深い吐息をもらした。

 二人はこの後、戦い続けるだろう。リワードの名は歴史に残ってはいない。だが王政打倒と身分制度の撤廃を求めて戦うマリアンデールの影で、彼はずっと彼女を支えつづけただろう。そうして名著『自由論』は残り、弾圧をかいくぐりながら人々に読み継がれていく。

 その長い、長い道程。これはそのほんの一歩。

 自分にできるのは、ここまでだ。もうこれ以上、何もできない。そして彼らは彼らの道を行くだろう。

 そして、彼女もまた、と願って、アイラシェールは寝室にベリンダを招き入れる。

 傍らに置いてあった、ウェンロック王拝領のリュート――自分の愛器を差し出して、アイラシェールは告げた。

「これを持っていって」

「何よ……どういうことよ、アイラ!」

「あなたも明日、皆と一緒に逃げるの。いいわね」

 心のどこかが、やはり、と呟くのをベリンダは聞いた。彼女の理性は、アイラシェールがその道を選択するだろうことを知っていた。

 けれども彼女の感情は、それを決して認めはしない。だから、アイラシェールの願いを、ベリンダは全身で拒絶する。

「嫌よ! だって、アイラは残るつもりなんでしょう! 残って、英雄王と賢者を迎えるつもりなんでしょう! だったら、あたしだって残る! あたしも一緒に、歴史と運命を見届ける!」

「それは駄目。あなたが私の運命に殉じる必要なんてない。あなたはちゃんと、自分の幸せを掴んで。大丈夫、あなたを心の傷も理解して、ちゃんとあなたを愛してくれる人は必ず現れる。絶対現れる」

 誠心誠意、懇願するアイラシェールに、ベリンダも一歩も引かない。琥珀の瞳にいっぱいに涙を溜め、腕にすがりついて叫ぶ。

 やっと出会えた幸せだった。それが傍から見て、どんなにささやかなものであっても――馬鹿げたものであったとしても、それが自分にとって幸せだった。

 それをどうして、他のものと代えられよう? たとえそれが自分の命であったとしても、それで購われた明日に、何があるというのだろう?

 だから、ベリンダは有らん限りの力で懇願する。

「未来なんかいらない! 今この一瞬だけでいい! どうして今さら突き放すようなことを言うの? どうして今さら、アイラを見捨てるようなことをあたしにさせるの? ただ続いていくだけの未来なんかに、一体何の意味があるっていうの!」

「私はあなたに、あなたのお母様がしたような思いをさせたくない!」

 びり、と空気を震わせた叫びは、ベリンダを硬直させる。

 それはベリンダの心を、紙を裂くように軽い音をたてて、裂いた。

「アイラ……」

「どんなにカティス陛下とカイルワーン閣下が戒めたところで、なだれ込んできた兵は必ず暴走する。その場に女性がいたら、絶対暴行を受ける。それが判ってて、ベリンダを残すわけにはいかない。私はあなたに、あなたのお母様がしたような思いをさせたくない。まかり間違っても、あなたのような思いをする子供を増やすわけにはいかない。そうでしょう? ベリンダ」

 その言葉に、ベリンダは床にへたり込んだ。

 脳裏をよぎるのは、沢山の記憶。これまで自分が辿ってきた道。決してやむことも、覆されることもなかった侮蔑と偏見と嘲笑と――自分の力ではどうすることもできなかった、その痛みの数々。

 だがそれらも、全て慣れた。暴行も、凌辱でさえ。だがそれを目の当たりにしたアイラシェールは、どう思うだろう? 何を感じるだろう? 

 彼女は己を責める。自分のせいだと、彼女の力ではどうにもならなかったのに、己を責めるだろう。己で己を傷つけるだろう。それがもう、自分には判る。

 いられないのだ。ベリンダは悟った。もはや自分は彼女のそばにいられないのだと、もはや彼女の理性は判断を下してしまった。そしてそれにどれほど感情が抗ったとしても、もはやどうにもならない。

 力なくうなだれ、涙をこぼすベリンダを、アイラシェールはそっと抱きしめた。

 しなやかな腕に抱きしめ返されて、アイラシェールはその身を預ける。耳元に寄せられた唇が、嗚咽まじりの呟きをもらした。

「逃げよう……アイラも逃げようよ。ここで死ぬことなんてない。フィリスたちと一緒に、死ぬことなんてないよ」

 白い髪に指が絡んで、きつくきつくすがりつく。

「一緒に逃げよう……」

「駄目。逃げたら、私は消える」

 ここで逃げられたら、どれだけいいだろう、と思う。滅びの定めからも、魔女と罵る声からも、何もかもから逃げることができたら。

 けれども、それをすれば自分は消える。何もかも、跡形も残さず、もしかしたら世界さえ道連れに。

「消えることも、死ぬことも、大して変わりはしないのかもしれない。だったら私は見届けたい。私を殺して立ち上がる、私の王朝を。そして、会ってみたい。伝説の英雄に……あの人があんなにも憧れた、伝説の賢者に。たとえ彼らに、亡国の魔女と罵られたとしても」

 脳裏によぎる、あまりにも懐かしく、いとおしい面影。史書を、伝記を読みながら、憧れをいっぱいに顔に浮かべていた、その横顔。

 私はもうあなたには会えないから、代わりに賢者に出会う。あなたの代わりに、あなたが見ることのできないものを見て、それを最後に胸に刻む。

 それがアイラシェールが、最後に固めた決意。

「ごめんね、ベリンダ……ごめんね」

 こうして泣きじゃくるベリンダをアイラシェールは抱きしめ続け、別れの朝は瞬く間にやって来る。

 リワードとマリー、ベリンダは一行の殿しんがりを務めた。隠し通路に消えていく人たちを見送り、そして人々は別れを交わす。

「ベリンダ、最後に一つだけ、私の我が儘を聞いていただけますか?」

 エスターの願いに、ベリンダは応えた。別れの抱擁と口づけ――結局エスターがベリンダに残したのは、ただそれだけだった。

「団長……」

「何も言うな、リワード」

 言葉につまるリワードに、それ以上フィリスもまた何も言えなかった。

 そして。

「アイラ……」

 譲られたリュートを抱きしめ、ベリンダはアイラシェールに向き合う。

「ありがとう。本当にありがとう、ベリンダ」

 時の鏡に請うて時を越え、そして二年半。わずかな隔たりはあったものの、目覚めたその最初の瞬間から、そばにいてくれた親友。

 彼女がいてくれなかったら、彼女に会えなかったら、自分はどうなっていただろう? これだけの月日を耐え抜いていけただろうか? 生きていくことができただろうか?

 全てが定められた時間の中で、己に幸せがあったとしたら、それは紛れもない、彼女だ。

 この世に生きる全てのものに、定められた役割があるのならば。誰もが天の繰り人形なのだとしたら、彼女の役割とは一体なんだったのだろう? 彼女が自分のそばにあったことは、この時を越えて彼女が生き残ることは、一体何を意味するのだろうか。

 判らない。それを見届ける時間は、自分にはない。

 けれども、それが彼女の幸せであることを――幸せに結びついていくことを、アイラシェールは切に祈る。

 祈ることしか、できない。

「アイラ……アイラ、ありがとう」

 思いは何一つ、言葉にならない。

 重ね合わせた手のひら。絡んだ指。握りしめるその手。

 夜明けが近い。もう時間はない。

 気の利いた言葉一つ言えず、二人は佇み、そしてついに告げた。

「さよなら」

 これがアイラシェールとベリンダの、今生の別れとなった。

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