11章3節

 全軍が後衛の補給部隊に合流したのは、夕暮れだった。全軍の帰還を先頭で出迎えた人影に、どよめくような歓呼の声が上がった。

 あまりにも取るに足らない、この小さな黒い影こそが、この戦いをあれほどまでに劇的な勝利に導いたのだと、誰もが知っている。

 我らに王と賢者ある限り、向かうところ敵はない――戦勝と血に酔いしれる兵卒から、歓喜の歌が漏れる。それを当人たちは、あまりにも苦々しく聞いた。

 そして先頭で馬を繰っていたカティスを見たカイルワーンは、他人に気取られぬほどわずかに表情を曇らせた。

 疲労はあろう。だがそれにしても、カティスの顔色が、悪い。

「今日はここで宿営しよう。明日には、残党を追ってアルベルティーヌに向けて進軍を開始しなければならないから、今日のところはみなゆっくりと休んでくれ」

「戦勝の宴は、いかがしますか?」

「己の生還と勝利を祝いたい者を止めてはいけない。兵たちも、君たちも、存分に楽しんでくれ。だが僕らはまだアルベルティーヌを落としていない。アルベルティーヌを陥落させたら、その時盛大に催したいんだが、駄目だろうか?」

「承知しました」

 バルカロール侯爵もジェルカノディール公爵も、どうやらカティスの異常を察していたようだ。異論を唱えたそうな諸侯を率先して制して、それぞれの陣営に引き上げる。

 後片付けを事務的に、そして無表情にこなしていたカティスが、鎧を脱いで侍従に預け、そして己の天幕に消えるのを見計らうと、カイルワーンは無言で後を追う。

 王子の天幕に断りもなく入るのは、本来であれば自分ですら許されない行為だ。だが今はそれに頓着している時間の余裕がない。

 案の定、カティスは鎧を脱いだ姿のまま、汗や泥や返り血を拭うこともせず、そこに立ち尽くしている。

 だからカイルワーンは大きな布を広げて、カティスをくるんでやる。

 濡れた髪を、顔を拭うと、自分のより高いところにある顔を、真っ直ぐに見つめた。

 ひどい顔をしている、と思った。

「せめて、体を拭いて、着替えな」

 だが、カティスはそれをしなかった――できなかった。

 ぐらり、と長身がかしいで、上等の織物が敷かれた床にうずくまる。まるで暴れ出す自分を押さえ込むように――何かに怯えるように己を抱きしめて、糸が切れたように荒い呼吸をもらす。

 その様は、自分が今まで起こしてきた『発作』によく似ている、とカイルワーンは感じた。そしてそれにカティスが襲われるのもまた、驚くほどのことではない。

 自分に悲しくなるほどよく似ている彼ならば。

「重い……」

 ぜいぜいと喘ぐ唇から、微かな声が漏れて、カイルワーンの耳を打つ。

「重い……重い、重い、重い!」

 カティスの上げる悲鳴が何を意味するのか、カイルワーンには朧げながら察せられるような気がした。だがそれは察せられるだけで、理解できるものではない。あの戦場で、カティスがどんな思いをしてきたのか。そしてこれから、どんな思いをしていくのか。

 どんなに近くにいても、たとえどんなに心を開いて分かり合ったとしても、決して分からない苦痛と孤独がある。それが王の――全てを背負う者の、定めだ。

 カイルワーンはカティスの横に座ると、そっとその肩を、髪を撫でた。それでも独りではないと伝えたかった――自分が苦しい時に彼がいつもそばにいてくれて、時には暴れ錯乱する自分を抱きしめてまで宥めてくれたように。

 するとカティスは、その膝に取りすがった。頭をカイルワーンの膝に乗せ、すがりつくように手が太股を掴む。

 自分の膝に顔をうずめるカティスが、この時泣いていたのかどうかカイルワーンには判らなかった。だが彼は震える体を宥めるように、その頭を、髪を、肩を、背中を撫でつづけた。それ以外、できることがなかった。

 こんな時、かける言葉が一つもありはしないことを、彼が一番よく判っているのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る