10章12節

「貴方も噂を聞いたでしょう。もはやイプシラントの野にあるのは、ラディアンス派でもフレンシャム派でもない。真の王位継承者が――真の王が率いる、正統のアルバ国軍です。私たちは逆賊です。それでも貴方は、彼らと戦うというのですか」

 大陸統一暦1000年6月7日の夜、アイラシェールは自室でフィリスにそう問いかけた。翌朝、フィリス率いる国軍三師団はイプシラントに向けて出立する。そうなれば、もはや誰にも止められない。

「私は前にも言ったはずです。私は貴方以外の者に膝を折ることはないと。たとえそれが誰であろうと――真の王であろうと」

「貴方がそう思うのは、貴方の勝手です。ですがそれに巻き込まれる者たちはどうなるのです。貴方に率いられ、カティス陛下率いる革命軍と戦わなければならない国軍の兵たちは――この益のない戦いで犠牲になる、双方の兵士は」

「そうでしょうか。本当に、この戦いには益はないのでしょうか」

 悠然と――だが憔悴の見える面差しで、フィリスは問いかける。

「確かに、我々は破れるのかもしれません――貴方が仰られる通りに。戦いの意義は、結果だけではありますまい。我々と同じく、平等と自由の理想を信じ、それに殉じても構わないと思う民が、ここには――アルベルティーヌには、まだ沢山おります。勝てないからといって逃げ出し、身の保身をはかることは、今まで我々を信じて尽くしてくれた者たちへの、背信になります」

 アイラシェールは、そのフィリスの回答に、疲れの見えるため息を一つこぼした。

 やはりフィリスは止まらない。ここがカティスを王に迎えてなお自分が助かる道を模索するのに、最大の――唯一にして、最高の好機なのに、その最大の障害を取り除くことができない。

 フィリスには、何を言っても無駄だ。そのことは、アイラシェールにも判っている。彼には何を言ったところで結局、自分のしたいようにする。それがフィリスにおける歴史の――運命の軌道だ。

 彼はきっと、何を告げたところで、己が天に操られていることなど微塵も信じず、全てを己で選び抜いたと信じ、胸を張って死んでいくことだろう。

 その姿勢は盲目的で、傍目にはひどい道化で……だからこそ、ひどく羨ましくも思えた。

 いっそそうなれたら、どれだけいいだろうと思う。

 沈んだ眼差しを落とすアイラシェールに、不意に伸ばされた手。冷えた手が頬に触れ、指がおとがいを滑る。

 フィリスがその唇をふさいでも、アイラシェールは抗おうとはしなかった。その胸に広がるのは、もはや深い哀れみと諦観しかない。

 彼を憎んだこともある。恨んだこともある。彼さえいなければ、と思ったこともある。だが今はそれさえも、どうでもいい気がした。

 彼の暴走も、持て余した恋情も、おそらくは自分の捨てられなかったカイルワーンへの思慕も、何もかもが定められた歯車の一つ――何もかもが、今さら詮のないことだ。

「フィリス、一つ聞いてもいい?」

「何でしょう?」

「もし今ここで私が貴方に、死にたくない、何もかも捨てて――責任も、理想も、身分も何もかも捨てて、連れて逃げてくれと言ったら、貴方は私と一緒に逃げてくれる? 平民の中に埋もれて、ただ食うためだけに働いて、死んでいく道を選んでくれる?」

 腕に捕らわれながら、アイラシェールは静かに問いかけた。その問いかけに、フィリスの端正な顔だちに、動揺が走った。

 答えられず、アイラシェールを抱きしめながら、ただ立ち尽くすフィリスに、アイラシェールは苦笑した。

「貴方はそういう人なのです。貴方が愛したのは、一人の女である私じゃない。貴方が騎士として行く道にふさわしい――騎士の倣いとして、愛を捧げるのにふさわしい貴婦人としての、私なのです。だから貴方は私のために騎士の道を捨てることなんてできない。平民に埋もれて、平凡の中で生きていくことなんてできない。そうでしょう?」

「侯妃……」

「私の騎士として、誇らしく最後まで戦うことが、ただ一人の女としての私を手に入れることよりも貴方にとって大事ならば、そうなさい。もはや、そんな貴方を止めることは諦めました。貴方は貴方の本懐を、全うなさい。……その代わり、そんな貴方には、ただの女である私を与えて上げることはできない」

 にこり、と突き放すような残酷な笑みが閃く。

「フィリス、放しなさい」

 威厳を持って告げられた命に、フィリスは逆らえなかった。名残惜しそうに腕を解き、そしてためらいがちに問いかけた。

「それでは私も、一つお聞きしてよろしいですか」

「何?」

「貴方の心をいまだ虜にしているのは、どんな男だったのです?」

 意外な問いかけに、アイラシェールは目を瞬かせる。そしてフィリスを見た。

 沈んだ面差しからは、彼が何を考えているのか――何を意図して問いかけたのかは伺えない。だから彼女はしばらく悩み……そして、正直な胸のうちを明かした。

「正直、彼がどんな人間だったのか、私にも判っていないのです。その胸の奥にどんな思いを隠していたのか、彼の優しさの意味が、彼の語ってくれた愛の意味が、結局私には判らなかった。でも」

 たとえそれでも。

「それでも彼は私の世界の全てでした。私の人生の全ては彼と共にあり、私の幸せの全てもまた彼と共にありました。もう二度と会うことはない、それが判っていてもなお、それは変わりません」

 しん、と夜の部屋に静けさが下りた。フィリスは敗北を突きつけられても、怒り出しはしなかった。ただ黙ってアイラシェールを見つめ続け……やがて、ぽつりと言った。

「それでも私も、貴方を愛していたのです」

 その言葉に、アイラシェールは頷いた。形がどうであれ、真意はどうであれ、結果がどうであれ、それは確かに偽りではないのだろう。

 でも――だからこそ、アイラシェールは全てを断ち切るように、ただ一言告げた。

「武運を、フィリス」

「……はい」

 もはやそれ以上、フィリスもまた何も言わなかった。

 結局のところ自分は――自室に戻り、フィリスは小さなため息をもらした。窓の外の闇に目をやれば、意識は一人の人物に集約される。

 退けない本当の理由は、思想でも理想でもなく、ごく単純な感情。

 それが利己であることは判っている。けれども止まれない思い。

 もはや嫉妬とも違う。憎しみと呼ぶのも違う。敵愾心と呼ぶのすら生易しいその思い。

「カイルワーン・リメンブランス……貴様はここに来るのだな。真の王を擁して、その智略と声望を武器にして、私からあの人を奪い去るために」

 アイラシェールも知る公のものとは別に、フィリスが独自にもぐり込ませてあった間諜たちは、彼に詳細な報告を送って寄こす。机の中に厳重にしまい込まれた報告書には、五月からこの六月までの、賢者のイプシラントでの風評が綴られている。

 アルバ人らしからぬ響きの名も、アルバではごく稀な黒髪も、異国の血を感じさせる。どんなに調査しても決して明らかにならぬ姓は、彼の特殊な身の上を語っているのに相違はあるまい。

 それは彼自身が触れ歩いているように、姓も名乗れぬほど下賤なのか、それとも明かせぬほどの曰くが絡む貴種なのか、どちらかだろう。だが下賤な者にあれほどのことを成せるはずもなく、そうなれば答えは一つしかない。

 きり、とフィリスは爪を噛む。

 もはや認めざるを得ない。恋敵と呼ぶべき、あの男の実力を。

 その知謀。声望。人脈。財力。行動力。

 アルバの黒い賢者、黒翼の天使の異名すら仰々しいとは、敵であるフィリスでさえも思えない。

 だからこそ、フィリスは退けない。認めるからこそ――おそらく自分とは最も対照的だと感じるからこそ、戦いを避ける気には到底ならない。

「負けない……決して、お前には負けない」

 運命は、心により不可避になる。それはアイラシェールにとっても、カイルワーンにとっても、そしてフィリスにとっても変わらない定めだった。

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