9章17節

 この世界に、全知の存在はない。歴史を知るカイルワーンやアイラシェールでさえも、多くの真相を、真実を、知ることなくそれぞれの最期を迎えた。

 だが、もし、全てを見通す目を持って、事態を俯瞰していた人物がいたとしたら、それは間違いなく彼女であったのだろう。

 だから彼女は、突然訪れたその人物を、柔らかな笑顔で迎えた。

「お久しぶりです。大きくなられましたね、エルフルト様――いいえ、バルカロール侯爵様」

 アンナ・リヴィアは、訪ねてきた男性の正体を、一目で看破した。礼を取って告げられた言葉に、バルカロール侯爵エルフルトは驚いて問い返す。

「私を、覚えていたのか。あれからもう、二十七年も過ぎたというのに」

「あの日、最後に見咎められた時から、ここを一番最初に訪れるのは、貴方様ではないかと思っておりましたから」

 アンナ・リヴィアはいきなり核心を取り出した。もはや隠すことも取り繕うことも無意味であることを、彼女が一番よく知っている。今この時が、恐れ続けた『運命の一瞬』であることを、誰よりも彼女自身が一番よく判っている。

 そんな彼女の様子を感じ取り、侯爵も居ずまいを正した。

「ならば、問いたい。これを問うために、私は貴女に会いにきたのだ」

「はい」

「カティス・ロクサーヌは、貴女の息子か?」

「ええ」

「……貴女と、誰との間の子なのだ?」

 問いかけに、アンナ・リヴィアは動じなかった。真っ直ぐに侯爵を見据え、告げた。

「侯爵様が何を仰りたいのかは、私にはよく判ります。ですがそれを、私に問いかけても意味はありません。今重要なのは、真実ではなく、カティス自身が何を選択するかです」

「それは……どういうことだ」

「その疑問は、カティスに直接ぶつけてみてください。そうすれば、きっと判ります」

 アンナ・リヴィアはそれだけ言うと、侯爵を促して隣家を訪れる。今は夕暮れ時、粉粧楼辺りに飲みにでも行っていなければ、きっと二人はここにいる。

 果たして応答に出た息子に、アンナ・リヴィアは至極真面目な表情でかたわらの男性のことを告げた。

「あなたと話がしたいと、はるばる城から来たの。会ってくれるわね?」

 母がただならない様子であることを悟り、カティスは無言で頷くと侯爵をカイルワーンの家に迎え入れる。

「お初にお目にかかる。私はエルフルト・ライリックという。君の母上が城で女官を勤めていた時、世話になった者だ」

 その名乗りに、突然笑い声が上がった。侯爵とカティスが驚いて振り返ると、そこには書斎から声を聞きつけて出てきた、カイルワーンが立っている。

「その名乗りは卑怯だよ。確かにその名は偽名ではないが、君の素性を正しく表してはいない。そうだろう? バルカロール侯爵エルフルト閣下」

「なっ……」

 ただの一言で、己の正体を看破した青年――見様によっては、少年にも見えた――に、侯爵は仰天する。

 そしてカティスもまた、驚きの声を上げる。

「カ――」

 名を呼びかけた瞬間、カイルワーンが口に人指し指を当てているのが目に入って、カティスは踏みとどまった。口止めの合図と、緊迫した表情が示唆するものをカティスは悟る。

 そんな彼らに、困惑もあらわに侯爵は問いかける。

「君は……何者だ。私と面識はないはずだが」

「僕が何者であるのかは、今問題にすべきことじゃないんじゃないか? 進軍のさなかに大将がわざわざ抜け出してこんなところまで来たんだ。それは正体も知らない、得体の知れない僕ではなくて、カティスに会うためなんだろう? 君はそんなに時間のある身じゃないだろう。僕にかかずらっている暇はないはずだ」

 アルバ有数の大貴族を前に、カイルワーンは驚くほど不遜に、そう言い放った。そんな彼と状況に惑うカティスに、彼は冷静な表情を向けて説く。

「わざわざご当人が危険を冒して、こんなところまで来たんだ。話を聞いてやれ。もし必要ならば、僕は席を外す」

「お前こそ、侯爵には言いたいことも、聞きたいことも山ほどあるんじゃないか?」

「今言っただろう。それは、後だ。今は侯爵に敬意を表して、彼の用が先だ」

 どうする? と問いかけるカイルワーンに、カティスは低い声で頼んだ。

「……いてくれ」

「了解した」

 カイルワーンもまた低く了承すると、椅子を引いて部屋の端から二人を眺める。それは明確に、口出ししないという姿勢を表していた。

 場には侯爵とカティス、二人が残り、そして対峙する。

「そこの彼が言う通り、私に時間がないのは確かだ。だから、率直に問う」

 侯爵は深く息を吸い込むと、彼の人生最大の賭の一言を口にした。

 これが、歴史における運命の一瞬。

「真の王は、君か?」

 問いかけに、カイルワーンとカティスはごくわずかに息を呑んだ。

「それは、どういう意味だ」

「『時が来れば、真の王はレヴェルと共に必ずこの王宮へ帰ってくる』――レオニダス先王陛下の遺言だ」

 その言葉は、カティスとカイルワーンに鉄球でしたたか殴られたかのような、ひどい衝撃を与えた。

 その言葉は、様々な、そしてとてつもない意味を持っている。

「事実王位の証である王剣レヴェルは、この時以来行方不明になっている。我々アルバ貴族は陛下の死後、この言葉の意味とレヴェルを全力で追いかけ続けてきた。――そして私は、今、君に辿り着いた」

 刃の上の緊張の中で、侯爵はとうとうそれをカティスに問いかける。

「――君は、レオニダス陛下の落胤か? レヴェルを持っているのは、君か?」

「俺は、自分の父親が誰なのか知らない。お袋はどんなに問いかけても、父親に関することを、何一つ教えてくれなかった。そのことを教えてもらいたいのは、むしろ俺の方だ。だが――」

 それが、アンナ・リヴィアが侯爵に告げた言葉の意味。

「そう、だとしたら、どうする……?」

 かちかち、と音がした。カティスの体の震えが、腰の剣にまで伝わり音をたてた。何かを堪えるように拳を握りしめたまま、彼は侯爵に問いかける。

「そうだとしたら、あんたはどうする。そうであるとすれば、あんたは俺にどうしてほしくて、こんなところまで来たんだ!」

「王として、立つつもりはないのか」

 侯爵は、極めて真摯にカティスに問いかけた。打算でも、駆け引きでもなく、領地を持つ一人の君主としてひたすら真摯に。

「君も判っているだろう。今アルバ貴族は――いいや、国は、二つに割れようとしている。今はアレックス侯妃と緋焔騎士団討伐を名目に共闘しているが、アルベルティーヌが落ちた瞬間、彼らはその場で玉座を目指して戦い始めるだろう。貴族が争えば、彼らに徴発された兵たち――民衆たちは、互いに殺し合うことになる。同じ国の国民同士が血で血を洗う、泥沼の内戦になる」

「……それで?」

「それを止める方法は一つしかない――ラディアンス伯でもフレンシャム侯でもない、第三の人物が王位に就く、ただそれだけだ」

「それを……俺にやれと?」

「それができるのは、君しかいない。レヴェルを持ち、レオニダス先王に後継者と定められた真の王――君だけだ」

「そんな勝手なことを言うな!」

 ばん、と荒々しい音が響いた。食卓を両手のひらでしたたかに叩いて、カティスは反駁する。

「確かに俺は、王子かもしれないと噂はされてきた。だがどこにそんな保証がある! どこにこんな見すぼらしいなりをした、貧民出の王子がいる! ここで俺が出ていって、王子だと名乗りを上げて、誰が信用とするというんだ、馬鹿らしい!」

「君は、自分がどれほど人目を引くのか、判っていないのか」

 意外な一言にカティスは一瞬声をなくし、後ろで聞いていたカイルワーンは苦笑をもらした。この点においては、侯爵の第一印象とカイルワーンの認識は一致する。

「君は、自分がどれほど人の目を引きつける容貌をしているのか、自覚していないのか? レオニダス先王によく似た緑の目も、宮廷で一二を争う佳人と言われた母君譲りの容姿も、帯びた剣が飾り物にならないその体躯も――身につけるものでごまかせる部分など、問題にならない。民衆が熱狂するような、理想の君主像をそのままなぞるような外見をしていることに、君自身気づいていなかったというのか。むしろ、君の出自は、共感と親近感を持って、民に熱狂的に迎えられるだろう――君は、そういう存在だ」

 反論の声を上げかけ、結局カティスは呑んだ。沈黙は、やがて揺れ、震える声音で破られる。

「どうして……あんたは、俺を王にしたいんだ」

 きっ、と睨んで、カティスは侯爵に迫る。

「俺を傀儡の王にして、国の実権を握るためか? ラディアンス伯やフレンシャム侯の風下に回りたくないから、何が何でも奴らを王にしたくないのか? 一体何のために、あんたは俺を王にしたいんだ」

「言ったろう。内乱を回避したい、ただそれだけだ」

「だから、それはなぜだ」

「私はバルカロール侯爵だ。領主である以上、領地と領民を守る責務がある。内乱が始まれば、私とて日和見はできない。軍勢を編成し、領民を率いて参戦さぜるを得なくなるだろう。戦況によっては、領内が戦場になるかもしれん。それによって、どれほどの領民が死に、その家族がどれほど苦境に立たされる? 男が戦争に取られれば、農地は荒れる。農地を軍馬が通れば、それだけで収穫は絶望だ。領内の農業も産業も、全ての基盤が揺らぐだろう。――勿論、内乱に勝ち抜けば、得るものも少なくはないだろう。だが負ければ全てが潰えるし、たとえ勝ったとしても、そのために領民が犠牲になったのでは、私はその働きをもって私を支えてくれている自領の者たちに顔向けができない。確かに戦って領土を守ることも領主の務めだが、戦いを回避することで領民を守ることもまた、領主の大事な責務だろう。違うか?」

 揺るぎない口調で、はっきりと言い放つと、侯爵はカティスを見据えて続けた。

「君は思うことはないのか。己の背に、アルバ一千万の国民の命が乗っていることを。王子であるかもしれない以上、己が彼らに対して責任を負っていると、そう感じることはないのか」

 その一言を聞いた瞬間、カイルワーンはカティスから、炎が立ち上がったような、そんな錯覚を覚えた。

 それはあまりにも大きな、純粋な、怒り。

「今アルバ国民一千万を、内乱から救うことができるのは、君ただ一人だけだ。今その一千万の国民が――君の民が、危機に直面しているというのに、君は何も感じないというのか」

「やかましいぃぃっ!」

 太い腕が、食卓の上を薙いだ。カップが巻き添えを食らって落ち、陶器の割れる音が響いた。

 今にも飛びかかり、殴りつけそうな勢いで、カティスはバルカロール侯爵を睨む。

「勝手なことばかり言うな! 何も知らないくせに! 何も、何にも知らないくせに!」

 心の中で弾ける、あまりにも苦くて痛い遠い日の記憶。

「貴族は、君主は、確かに義務を背負っているんだろう。それは認める。だがそれは、それに見合うだけの見返りと引き換えだろう! 今お前が着ているものが、食べてきたものが、血と汗を流して稼がなくてもいい生活が、その何もかもが、責任との引き換えだろう。それだけの責任を背負うから、貴族は領民の働きに養われ、一定の奢侈を許されるんだろう! だが俺は、その責任とやらに見合うだけのものを、何もしてもらってない。何一つ――何一つだ! それなのに責任だけ背負えと? 無責任だと? ふざけるな!」

 王になりたくない――そう彼は何度も言った。その時彼が話した理由もまた嘘ではないのだろう、とカイルワーンは思っている。だが今彼が語ることこそ、その根幹なのだと、悟った。

 己が死に向かったあの局面ですら、語られることのなかった、彼の一番深い場所に隠された本心。

「お前には、飢えるということがどういうことか、判っているのか? 医者にかかれないほど貧しいということが、判っているのか? 目の前でたった一人の親が死んでいこうとしていても、何も食べさせてやることも医者に診せてやることもできず、ただ見ていることしかできないということが、どれほど惨めなのか、お前は考えたことなんてないだろう!」

「それは……」

 凄まじいまでの迫力に――怒気に呑まれ、言葉に詰まる侯爵に、なおもカティスは言い募る。

「俺は何もできなかった。どんなに助けてって叫んでも、城の門番に笑われるばかりで、父親には会わせてもらえなかった。小突かれ、水たまりの中に転ばされ、その様を散々に馬鹿にされた。こんな見すぼらしい王子がどこの世界にいる――そう笑われた。そんな俺の目の前を、何台もきらびやかな馬車が通りすぎっていった。あの拍車一つ、飾り玉一つあれば、母親を助けられるというのに……当の貴族たちにとっては、取るに足らないそのかけら一つ、俺は手に入れられなかった。物乞いもした。盗もうとさえした。だがそれさえ満足にできなかった。道を踏み外してさえ何も手に入れられないほどの役立たず――それが俺だ! それがどれほど惨めなことか、お前は判るというのか!」

 傷ついた顔をしていた。彼は痛みをあらわにし、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。そんなカティスの様を――ここまで傷ついた様を、自分だって見たことがない、とカイルワーンは思う。

 だから、侯爵もまた、たじろぐ。

「王子としての責任を果たせ? 笑わせるな! こんな無様な、こんな惨めな王子がどこの世界にいる! 俺は認めない――決して認めない! あんな男が父親だなんて。俺が王子だなんて……こんな俺が王子だなんて! 玉座に座れ? 国を救え? 馬鹿馬鹿しい! 王になれば、どんなことだって思いのままだって? ふざけるな! 助けてくれなかったくせに……一番助けてほしかった時に、何も助けてくれなかったくせに!」

 血を吐くような叫びが引いた後には、静寂が訪れる。

 侯爵は、何も言えなかった。それ以上、もはや何も言えなかった。

 だから、かたん、と椅子の音をたてて、カイルワーンは立ちあがり、二人の間に割って入った。

「侯爵、君はもう帰った方がいい」

「しかし……」

「これ以上ここにいたら、僕がついていても、君の命の保証ができない」

 その言葉は、侯爵に戦慄を覚えさせた。それは言ったカイルワーン本人も与り知らぬことだが、カティスを捜索に出かけて、ついに戻ってこなかった者がいる。だからこそ侯爵自身は、カティスではなく母親と及ぼしきアンナ・リヴィアを探すという賭に出たのであるが――それは口にはされず、それぞれの認識の中ですれ違っていく裏の話だ。

「確かめたいことは、全て確かめただろう? これ以上の長居は、君のためにならない。――供は?」

「城外に待たせてある」

「送ろう。独りで歩くのは、危ない」

「だが――」

「こんな壁の薄い家で騒いで、誰にも気づかれていないと思っているのか? 僕とカティスを敵に回すことは、レーゲンスベルグの街と傭兵団を敵に回すことだ。そのことを、よく覚えておくといい」

 カイルワーンの声は覇気に満ち、侯爵を圧倒する。その言葉の意味するところもまた、彼を驚愕に陥れるに足りる。

 何者だ――この青年は。

「カティス、僕は門までこの人を送ってくる。その後に話があるから――大事な話があるから、ここで待ってろよ」

 うなだれ、地面を睨み続けているカティスに、カイルワーンは強く言い放った。

「いいか、絶対逃げるなよ!」

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