9章8節

 祖たるカティスの言葉をアイラシェールが受け取ったのは、四日後、三月十六日。

 円卓の一席でその報告を受けたアイラシェールは、両手で顔を覆い、しばしの間声もなく佇んでいた。

 その姿はまるで、泣いているかのようだった。

「……侯妃? どうなさいました?」

 訝しげなフィリスの問いかけにも、彼女は答えない。

 うなだれた彼女の心を満たしたのは、迷いではなかった。それは当地でカイルワーンが感じたものと同じ――諦観と絶望。

 もはや迷う余地――自由すら、なかった。

「サンブレストを、焼きなさい」

 アイラシェールの言葉を、円卓の騎士団員たちは一瞬掴み損ねた。

「侯妃……?」

 恐る恐る問い返したエスターに、アイラシェールは変わらない――固く強張った、冷徹な表情を見せた。

「国軍を動員して、即刻サンブレストを焼き払いなさい。疫病を止めるには――この国を救うには、それしか方法はありません」

 はっきりと告げられた言葉に、居合わせた者たちは顔色をなくした。

「そんな、そんなことをしたら――」

「私たちは終わりです」

 動揺する一同に、恐ろしいほど静かな声で、彼女は告げた。

「我々は国民の信を失うでしょう。ラディアンス派とフレンシャム派に、我々への糾弾の格好の材料を与えることになります。彼らがこれを大義に共闘の道を選択すれば、中道を選択した他の貴族たちも、もはや静観はできない。――我らは、負けます」

「そうだというのに、なぜ――」

「では貴方たちは、我が身かわいさにアルバ一千万の国民、その生命の危機を見過ごすのですか?」

 ぴしり、とアイラシェールは切って捨てる。

「他に方法はないのです。あの病は――青い恐怖は、一切打つ手がない。癒すことも、防ぐことも。かかったら最後、半数以上の患者が、ただの三日でのたうち回って死んでいくしかないのです。その病が、アルバ全土に広がったら――この飢餓に喘いでいる今のアルバに広がったら、一体どんなことになるか、判らないとは言わせません!」

「……しかし侯妃、罪もない村人全てを手にかけることは――虐殺に他なりません」

 意を決して、苦渋を呑み込んで言ったリワードに、アイラシェールは小さな、小さな吐息をもらした。

 その胸を刺す言葉。

 サンブレストの大虐殺――それが己の罪。

 誰一人理解されることのないだろう、己の罪だ。

「そんなことは判っています。病にかかったサンブレストの村人に、何の罪もないことも。何の救いの手を差し延べることもなく、焼き捨てようというこの考えが、どれほど非道かということも。でも、囲い込み、封じ込めをして、病が治まるのを待つという策が――打つ手もなく、村人が全て病で死に絶えるまで待つという策が、一思いに焼き捨てることに比べて、どれほど非道でないというのですか? それで病が治まるなんて保証は、どこにもないのに!」

 沈黙が下りた。誰一人反論できなかった。しかし、同意もできなかった。だから重苦しい沈黙が降りる。その内心を見越し、アイラシェールは静かに告げた。

「……我が身が可愛い者は――いいえ、守らなければならないものがある者は、ここを出ていきなさい。もうこの船は沈みます。それに殉じて、私と運命を共にすることはありません」

「侯妃っ……」

 血相を変え、椅子から立ち上がったフィリスに、アイラシェールはやんわりとした、だが潔い笑みを浮かべた。

「これから私がすることが許せない者、滅びの運命に巻き込まれたくない者、大切な人を巻き込みたくない者――責めはしません。追うこともしません。そして逃げることができるのは、今しかありません。だから、行きたい者はお行きなさい。だけど、もし、私と志を同じくする者がいるのならば――国民を危機から救うために、罪を負ってくれる者がいるのならば、どうか」

 詰まり、最後まで語れなかった言葉を、居合わせた者たちは正しく聞いた。だからこそ沈黙を裂いたのは、悲痛な叫び。

 机を拳が叩く、荒々しい音が議場に響き渡る。

「どうして……どうしてですか!」

 立ち上がり、顔を歪め、エスターは叫ぶ。

「それは国民を救うためでしょう。国民の命を守るため、危機から遠ざけるためでしょう。それなのに我々の――いいえ、侯妃の気持ちを、どうして判ってはもらえないのですか。どうして侯妃が、そのために国民に詰られ、責められなければならないというのですか。間違ってはいない……侯妃の下されたご決断は、何一つ間違ってはいないというのに!」

「エスター。判ってもらいたい、という貴方の気持ちは判ります。私も痛いほどに。けれども、正義は、他人に理解されるために――他人に誉めそやされるために行うものではないことを……それを正義とは呼ばないことを、貴方も判ってください」

 諦めのにじんだ声が、憤る彼にそっと触れた。

「我々の行いは、どんなに正しさを叫んだところで、誰にも理解してはもらえないでしょう。ですが、それでも救われる者がいるのです。たとえ理解してもらえなくても、たとえ救った当の民衆に虐殺者と罵られたとしても、それでも我々の行いは多くの命を救うのです。……それでいいではないですか。見返りを望むのではなく、たとえ罵られても、己の身を滅ぼしても、他者のために遂行するもの。それが本当の正義なのではないですか?」

 がたん、と崩れるようにエスターが椅子に座り込んだ音が、堪えきれずそこかしこから漏れた嗚咽が、総意を示していた。

 決断は下された。彼らはいずれこの席を立ち上がり、去る者は去り、そして残った者が己の命を実行に移すだろう。

 歴史に、運命に、定められた通りに。

 一人議場を出て、かけられた声に、アイラシェールはゆっくりと振り返った。

 そこに立っているのは、彼女のかけがえのない人。

「アイラ」

 声と同じ悲愴な顔つきに、アイラシェールは笑った。

 その透るような笑みに、ベリンダは一瞬戦慄を感じた。

「ベリンダ、部屋に帰ろうか」

 ベリンダが惑うほどさばさばとした口調で言うと、アイラシェールは先にたって後宮の自室に戻る。その視線が、文机の上に置かれた一冊の書物の上でそっと止まった。

 賢者カイルワーンが作った美しい聖書。貴重な書物だというのは判っていたが、どうしても手元においておきたくなって、司書から特に借り受けた本。

 それを、愛しげにアイラシェールはなぞる。

「ねえ。聖書の中に、こんな話があるじゃない。神様は、たとえ九十九匹の羊を山に置き去りにしても、迷った一匹の羊を捜しにいかないことはない、と。その一匹の羊を見つけることができたら、迷わずにいた九十九匹よりもその一匹のことを喜ぶだろうと。私、昔からずっと思っていた。その一匹を探すために、山に置き去りにされた九十九匹の羊はどうなったんだろうと。その一匹のために、見捨てられた九十九匹の羊は、どうなってしまったんだろうと」

 アイラシェールの語る言葉に、ベリンダは息を呑んだ。

 彼女が語ろうとしていること――それはあまりにも、切なく苦しい。

「どんな小さなものでも、どんなに弱いものでも、天の神は決して見捨てられることはない――そう、それは神の御技なんだわ。神は救いにいかれた迷える一匹の羊だけでなく、九十九匹の羊をもお救いになることができる……だから、神なんだわ」

 震える指が、ページを繰った。そこに描かれた極彩色の世界は、彼女にはあまりにも遠い。

「判ってる。迷い出た一匹の羊に何の罪もなくて、一匹の羊と九十九匹の羊との間に、差なんて何もなくて、何も変わらぬ人生と愛する人と生活があって――だけど、迷い出た羊は一匹だった。迷ったからではなく、一匹だったから、九十九匹と運命が分かたれた」

「アイラ……」

 ベリンダは、かける言葉が見つからず、ただ立ちつくす。そんな彼女に、アイラシェールは泣き笑いを見せた。

「神は一匹の羊を見捨てることはない、と仰られるけれども、罪もない迷える九十九匹の羊をどのようにしてお救いになったんだろう。迷っているのは一匹だけじゃないのに……九十九匹とくくられる羊たちだって、みんな迷っているのに」

 疲れきった声が、床に落ちた。うなだれたまま、声もなく佇んでいたアイラシェールは、やがて顔を上げて、ベリンダを見た。

「……喉、渇いちゃった。お茶を淹れてきてくれない?」

 それはどこか晴れやかな笑顔だった。

 嘆くこともない。泣くこともない。笑ってさえみせる。そんな彼女の姿に、ベリンダの勘は警鐘を鳴らす。

 何かがおかしい、と。

 だが彼女のそんな姿が、何を意味するのか――その陰に何が隠れていたのか、読み取ることもできず、ベリンダはアイラシェールの頼みに部屋を後にする。

 彼女がそれを知るのは、すぐのこと。厨房で紅茶を淹れ、部屋の扉を開け、そして。

 血が伝い落ちていた。

 がちゃん、という音に――手にしていた盆が落ち、食器が砕ける音に、ベリンダはようやく我に返る。

「アイラ! アイラぁっ!」

 血に染まったナイフを握りしめた右手も、血を流し続ける左手も投げ出し、ぼんやりと虚空を眺めていたアイラシェールは、血相を変えて駆け寄ってきたベリンダに言った。

「私……何のために生まれてきたのかなあ」

 呂律の回らぬ言葉が、泣くこともなく見開かれた目が、ベリンダに真実を実感させた。

 彼女は、苦しむことにも悩むことにも倦み、疲れてしまったのだと。

 生きていくことにも、疲れ果ててしまったのだと――。

「誰一人幸せにできない一生に、何の意味があったのかなあ……。何のために……何のために、生まれてこなければならなかったのかなあ……」

 問いかけに、答えるものはない。

 そしてはたり、と落ちた声と体。

「いやぁぁぁぁぁっっっ!」

 医者を呼ばなければ、と心のどこかは叫んでいた。立ち上がって、侍医を呼んでこなければと。だけど足が立たない。体が動かない。

 血まみれの体を前に、ベリンダは叫ぶことしかできなかった。

 ただ、泣き叫ぶことしかできなかった。

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